朝焼けが雪崩れてほどけてゆく

 明るんだ紫色の雲を眺めながら、外に向かって煙を吐き出す。飲みすぎたわけでもないのに頭が痛いし、全身がだるい。さっさと体を洗いたい気持ちと、まだ寝ていたいという気持ちに挟まれた状態で、私は散乱した荷物から葉巻を探し出した。どこでくすねたものだか記憶にないが、まあ部屋にあったのだから私のものということでいいだろう。下着のまま座っているとさすがに肌寒く、膝を立てて抱きしめる。
 私は嬉しかったのだと思う。それでも大きな感情の波に心が耐えきれなかった。どうにか最後までは至らずに済んだが、六割方暴かれてしまった。支配されきってはいけないし、あの男がぶつけてくる感情とは距離をとるべきだった。それなりに生きてきたが、あれほど真っ直ぐに視線で殺そうとしてくる男に抱かれたことなどない。言うことは割に捻くれているけれど。手の甲に額をつける。酔っていたとはいえ、なんだか色々と変なことを口走ったような。見捨てるなだのなんだの。熱に浮かされていた時のことなど思い返したくはないなとまた吸い口に口をつける。
 吸うことに飽きるが吸いさしを置いておく場所もなく、仕方ないので灰を落としていた空きボトルに捨てる。徐々に青味を増す空。今日も晴れそうだ。
 ベッドに戻って胡坐をかき、その振動で薄く瞼を開いた男を見つめる。この男に触れるのは、未だに怖い。壊してしまいそうで、私のせいでこの男が終わってしまいそうで悲しくなる。布団から出た首筋の、噛み痕を見る。男が手を伸ばすので、繋いでやる。冷えた手が男の温もりを冷ましていく。
「冷えてる」
「窓のとこいたからな」
「本当に、猫みたいだ」
「……葉巻吸ってただけだよ」
「ああ……このにおい」
「……まだ暗いから寝てれば」
「……は?」
 起こしたのも、それを繋ぎとめようとしているのも私だった。何を言えばいいか、二日酔いの脳では分からない。動かない私に呆れたのか、男は眠いだろうに上半身を起こした。
「そんな顔をしないで」
 寂しそうに眉を下げた男は、繋いでいない方の手で私の頬を撫でる。一夜明け、感情の整理がうまくいっていないことを再認識する。そのせいでこの男に何を言うこともできない。反論しようとして口を開くが、結局黙って視線を下げた。早く私のつけた傷が治ってほしいと思った。それで、忘れてほしい。
「カーライル」
「ん?」
 男の手が冷たくなっていっているんじゃなく、私の手が温まっているんだと気づく。顔を上げ、微睡んでいる瞳を見る。欲望の強さには自覚があったが、それが恋愛関係にも影響する女だとは思わなかった。あらゆる意味で今までとは違う。男は私の言葉を待っている。綺麗な面だ。手を離し、男の胴体に抱き着く。腕が背中に回され、肌がくっつく感覚に息を吐く。
「お前を飼い主にしてしまいたくない」
「どうして?」
「……奪われたくなくなるから」
「おや、今なら奪われてもいいという口ぶりですね」
「まだ引き返せるだろ」
「私は嫌ですよ。あなたが他の誰かに飼われるなんて」
「……まあ、お前も独占欲が強いやつだしな」
「ふふ、そうですね。だから、諦めて」
 今なら引き返せるだなんて、嘘だ。この世にそんな事象は存在しない。そう思っている時点で取り返しのつかないことになっている場合が多いからだ。もちろん、もう少しマシな状態にすることはできるかもしれないが、感情においてはその限りではない。男の手がゆっくりと髪を梳く。
「あなたのしたいようにしていいんですよ」
「軟禁しといて?」
「ふふ……そうでした。あなたを逃がしたくなかったから」
「……逃げねえよ。お前が逃がさないでくれるんならな」
「もちろん。見捨てたりしませんよ」
「それは忘れろ」
「ふふ、かわいかったな」
「うるさい。頭がどうかしてたんだ」
 顔に熱が集まるのを感じ、男の鎖骨に額を押し付ける。昨晩の私は本当にどうかしていた。頭を撫でられ、目を閉じる。それから体を離して男の目を見つめた。大抵目が合うので、たぶん、人の目を見るのが好きなのだろう。癖と言ってもいい。瞬き。目を閉じて男を待つ。昨晩の酒はさすがに抜けたらしい。私の方は葉巻の味がするだろう。吸わない人間からしたらまずそうだ、と、思う。体の力を抜きながら、離れていく唇を感じた。うなじを撫でられるので、目を開ける。
「体、洗ってあげる」
「なんでだよ」
「飼い主なので。嫌?」
「……うるせえな」
「そうですか。じゃあ行こう」
「なんも言ってねえだろ」
「尻尾がいいって言ったので」
「ふざけやがって……」
 これじゃ悪態もつけない。今までもこいつが口に出していなかっただけで、そうだったのだろうけれど。

 男の普段使用している浴室が寝室の隣にあることを知り、驚く。確かに私の使っているところは大浴場だし、王子用に用意されていてもおかしくはない。使っていいと言われたが私には向こうの方が楽だと断った。それに、いきなり男が入ってきたりしたら洒落にならない。
 どうせ昨晩全身を見られているのだが、明るく隠すものが何もない場所で洗われるのは非常に羞恥心を刺激され、もう一生されたくないと思った。そもそも他人に体を洗われるなんてこと、大人になってからはない。存外まともに洗ってはくれたが、それはそれとして嫌である。またもし聞かれることがあればその時は尻尾を押さえておかなければ。
 何はともあれ綺麗になって部屋に戻ると、既に日は昇りきっていた。こいつが仕事に行っている間に部屋をある程度片付けなければならないなと惨状から目を逸らす。あくびが漏れ、口を押さえる。
「お前すぐ仕事行くのか?」
「いえ、もう少し寝ます。急ぎの書類もありませんし、対応は従者に任せてあるので」
「へえ。じゃ寝るか」
「ええ」
 話しながらベッドに入る。大変なことになったなとぼんやり考える。随分前から大変なことが始まっていたのだろう。愚鈍な脳を自省する。私はずっと、私を逃がさないでくれる飼い主を求めていたのだ。この男は、様々な点で都合がいい。咎められたことと言えば酒の飲み方くらいだ。笑える。
 抱き寄せられ、甘い香りのする皮膚に鼻を近づける。私からも同じ匂いがしているのだろう。安心感が眠気を誘う。目を閉じてしまえばあとは後頭部をゆっくりと撫でる男の手のひらだけ。今日は晴れているし、目が覚めたら箒で散歩しよう。それから、この国の葉巻でも探そうか。早めに帰らないとこの男が拗ねるから夕飯までだ。考えながら、どろどろとした眠りに落ちていった。