あなたよりやさしい呪いはいらない
ロザリーとはその後お互いの故郷の話だとか、最近あった面白いことだとかを話して過ごした。できればもう少し砕けた話し方をしてほしいが、彼女にとってはあれが楽なのだろう。二杯飲んだだけでほんのり頬を赤くした彼女をこれ以上連れ回すわけにはいかないと思い、私はほとんど酔えていないが城に戻ることにした。帰り際、酒屋を発見したのでそこでスパークリングワインとウイスキーを一瓶ずつ購入する。あの男はこんな安いものは飲まないだろうし、勝手に一人で飲もう。
彼女をメイドたちの住む屋敷へ送ってから、男の部屋に戻る。まだ早いしアトリエにでもいるかもしれない。
窓に近づくと中の明かりが見えて、少し驚いてしまう。待っていると言われたことを思い出し、ため息を吐きながら窓を押し開ける。桟に降り立ったところで、ソファーに座った男が本を閉じるのが見えた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
箒を窓の横に立てかけて、紙袋をテーブルに置く。男は立ち上がり、こちらに来て袋を覗き込んだ。
「何か買ってきたんですか?」
「お前が飲んだこともないような安酒」
「それはそれは」
「お前もなんか持ってくれば?」
「ああ、そうですね。探してきます」
言いながら男は私の後頭部を撫でる。顔を上げると当然目が合って、当然ではないはずなのに、男が屈む。優しく触れた指が顔を上げるよう促すので、目を閉じる。お優しい方です。ロザリーの顔が浮かぶ。優しいんじゃない。私もこいつも。柔らかいキスが一度落とされ、体内のアルコールを感じてしまう。
「ちゃんと言いつけを守ったご褒美です」
「……なんだそりゃ」
「主人だと思ってくださるんでしょう? できたことは褒めてあげないと」
「さっさと酒を探しにいけ」
「ふふ」
自分とのキスを褒美だと思っているなんて、気が触れている。驚いて咄嗟に言葉が出なかったが、まあこういうことを言うと多少傷つきそうなので、出てこなくてよかったかもしれない。男の手が耳から離れ、ため息を吐く。
「食べ物は?」
「いらない」
「分かりました」
男が部屋を出て行ったので、部屋着に着替えてからスパークリングワインを取り出した。言えば城の人間が酒なりなんなり持ってきそうなものだが、どうなのだろう。飯を食べたので甘いものが欲しいなと思いながらボトルの蓋を開け、直接口をつけてラッパ飲みする。洒落た味のする酒だが、度数が高いのでいいだろう。
男が戻ってくる頃には中身を半分ほど飲んでしまっていて、やはりウイスキーも買っておいて正解だったなと思う。トレーには酒瓶と二つのワイングラス、それにお菓子の並べられた皿が乗っている。
「それどうしたんだ?」
「晩酌をすると話したら、にと」
「へえ。ありがとう」
「甘いもの、お好きなんですか」
「人並みに」
「そう。それはよかった」
向かいのソファーに男が座り、酒をグラスに注いでいく。それを見ながら皿の上のクッキーをつまんで口に放り込む。控えめな甘さが口の中で溶け、高級なお菓子だなと思う。酒を呷ると男は驚いた顔をした。
「お行儀が悪いですよ」
「当たり前だろ。かんぱい」
「乾杯」
瓶の腹部と男の持つグラスが小さく音を立てる。足を組み、お行儀よくグラスに口をつける男を見ていたら、それに気づいた男と目が合った。
「どうでしたか」
「何が」
「ロザリーと話して」
「楽しかったよ。いい子だよな。お前のこと、優しいって言ってた」
「優しい」
「うん」
「彼女たちはよく働いてくれています。特別に優しくしているつもりもありませんが、そう見えるのも無理はない」
「お前に仕えてるんじゃないから分からんが、お前は優しいと思う」
「……そうですか?」
「私に優しくしてるつもりもねえのか?」
「いいえ。でも、意外でした」
「ふうん」
適当に頷いて、チョコの包みを開け、口に入れる。甘ったるい。中に何かしら柔らかいものが入っていたが、なんだか分からないまま次のチョコを食べる。こいつは優しいんではなく、自分の領域内の人間に甘いだけだろうと思うが、従者だとか使用人は仕事に厳しい面も多少見ているだろう。それが結果的に優しいという評価に繋がっているのであれば、異論はない。細かいナッツが口に残るので、酒で流す。もうそろそろ、ウイスキーを用意しなくてはならない。ようやく酔いが回ってきて、気分がいい。男の視線を感じる。まん丸く薄いクッキーを齧る。男が、足を組み替える。
「チョコ、食べるんですね」
「人間だからな」
「おいしいですか?」
「うまい」
「よかった。伝えておきます」
「何飲んでんの」
「ワインですよ。飲みますか?」
「うん」
ワイングラスで他の酒を飲むような男でないことは承知していたが、聞いてみたくなって聞いてしまった。瓶の残りを全て飲み、立ち上がって放置していた紙袋に瓶を入れ、代わりにウイスキーを取り出す。戻ると男が指先で酒の入ったグラスを押すので、茎(と勝手に呼んでいる)を持つ。白ワインらしい。どうせどこかから取り寄せた高いやつだろう。ウイスキーのボトルを置いてから礼を言って一口飲むと、飲みやすくフルーティな香りの強いもので、いくらでも飲めるという気になる。視線を上げ、男の顔を視界に入れる。ソファーの肘おきに肘をつき、微笑ましいという顔で私を見ている。
「うまいよ」
「ええ、そうですね」
「お前そういう顔すんなよ」
「どういう顔ですか?」
「なんか分かんねえけど、たまにする顔」
「ふふ……どれのことでしょう。どうして嫌なんです?」
「なんとなく」
「難しいことを言いますね」
グラスの中身を半分くらい減らし、テーブルに置いて今度はウイスキーの蓋を開けた。鼓動のテンポが速まっている。いつも酒を飲むとくだらないことしか言わないため、こういう人間と何を話せばいいのか分からない。でも、その顔はやめろと思う。男はまたゆっくりと一口飲んだ。こうも動きが遅いのに、飲むペースが私と同じくらいなのはなんなのだろう。ウイスキーで喉が焼かれ、チョコを手に取る。
しばらく沈黙が流れ、その中で私も男も酒を飲んだりお菓子を食べたりした。段々本格的に酔っぱらってきて、額を押さえる。この調子なら吐くことはないだろうが、こいつに酔っている姿を記憶されるのは癪だ。誘わなければよかった。後悔ばかりだ。ワインで何もかも流したくてボトルを持ち上げるが、一杯にも満たない量しか出てこなかった。
「なくなっちまった」
「まだ飲むなら、持ってこさせますよ」
「私はこれがある」
「そう。よく飲みますね」
「だいぶ酔ってる」
「それだけ飲めばね」
「お前も酔っとけよ」
「酔ってますよ。あなたほどではないですが」
最後のワインを一気飲みし、グラスをトレーに乗せる。久しぶりに飲んだせいで回るのが早いのかもしれない。大きく伸びをして、立ち上がる。馬鹿になるのが好きだ。何も考えずに、騒いでいたかった。私は随分この男に気を許している。そうでなきゃここまで飲んだりしない。自分用に窓際のテーブルに置いていた水の瓶を掴み、それも一気に飲み干す。カーテンの隙間から月が見える。濡れた口元を服の袖で拭って、瓶を元の場所に戻す。どこかの国の獣人は、満月の夜に獣と化してしまうらしい。私にその類の呪いがかかってなくてよかった、と満月になりきれないそれから目を逸らす。
「カーライル」
「ん?」
「ロザリーがさ、お前が私を傍に置いときたい気持ちが分かるって」
「どうして?」
「あの子、私のことを強いって思ってる」
ポケットに手を突っ込み、男に近づいて立ったまま目を合わせる。相変わらず笑みを崩さず、男は顔を少し傾けた。髪の毛がそちらに流れるのを見る。
「は強いと思いますよ。でも、だから一緒にいたいわけじゃない」
男の手が伸びてくるので、ポケットから片手を出す。すんなりその手をとられ、人の温度のする白い指を見つめる。
「あなたは嘘を吐かないでしょう。気まぐれですけどね」
「お前に振り回されたくないからな」
「おや、そうでしたか。てっきり、振り回されてくれているのかと」
「そんなわけないだろ。でも……」
「でも?」
振り回されたくはない。こいつでなくても、誰にも行動の決定権を譲渡したくない。男は答えない私を笑って、ソファーから立ち上がった。握られた手を引かれ、柔らかく抱きしめられる。その背中に腕を回すと馬鹿みたいに安心した。あの出会い方をしなければこんな男を信用することなどできなかっただろう。アルコールが全身を熱くする。撫でられるのが気持ちよくて、目を閉じる。
「素直ですね」
「うるせーな。酔ってんだよ」
「昼も抱きしめ返してくれたじゃないですか」
「そりゃそういう気分の時ぐらいあるだろ」
「今は酔っているだけ?」
「どうだかな」
頭頂部から耳の付け根、そして後頭部を通ってうなじの上へ。男に撫でられた部分が、光の軌跡でもできたかのように熱い。髪を一束、二束掬い、するすると解きながら毛先に指を通す。酒のせいにはできない。でも、酔いが気分を良くしているのは事実だった。酔っていなかったとして、こんな気持ちになるかは今の私には分からない。男のシャツからは嗅ぎ慣れた匂いがする。嗅ぎ慣れてしまった、香水か何かの匂い。
「いい匂いがする」
「そうですか?」
顔を上げ、鼻先でシャツを避けて鎖骨の中心あたりに鼻をくっつける。一日仕事をした後だというのに、汗臭さは少しもない。
「おやおや、大胆ですね」
男の言葉を聞きながら、左手を背中から離し、手探りで男の顎を掴む。それを無理やり上げさせて、張った首の皮に噛みついた。彼の体が一瞬強張って、愉快な気分になる。大抵の男は体の部位にしっかりと噛みつくと暴れるなり逃げるなり、私を暴力を以て屈服させたりしようとする。たぶん、こいつはそうではないだろう。もう少しで皮を突き刺すという感覚に、一度歯を離してそこを舐める。
「痛いか」
「大丈夫」
「もっと噛むぞ」
「ふふ、聞かずともいいですよ。後でたっぷり躾けますから」
「やってみろ」
先ほどと同じ場所に歯を当て、じわじわと食い込ませていく。闘争本能が刺激され、目を閉じる。上の歯が皮膚に刺さる。男の喉奥から漏れたため息が耳を震わせる。避けたつもりがどこかの毛細血管に当たったらしく、血液が滲み出てきてしまう。ただの血の味だ。歯を抜き、染み出す血を舐めとる。陶酔している。くらくらする。自分の呼吸が乱れていることに気づく。男の顎を押さえていた手を取られ、肩に置かされる。
「一度口を離して」
血の味がする唾液を飲み込んで、言われた通り口を離す。すると男が屈むので、抱き上げられることを理解し、もう片方の腕も肩に回した。ベッドに運ばれ、自然と押し倒される。男と目が合って、ああやってしまったなと思う。唇の内側を噛みしめ、自分でつけた噛み痕に手を伸ばす。凝固した血の妙な感触が指の腹に伝わる。くっきり残った四つの穴。
「お前、私の飼い主になる覚悟はあるのか?」
「もう飼われているじゃないですか」
「ちがう」
「なにが?」
「私は……お前を好きになりたくないんだ」
「おや、そうなんですね」
理解している癖に、男は近づいてきて、私の頬にキスをした。
「やめてくれ……」
かろうじて抵抗の言葉を口にするも、それはなんの意味もなさない。男の唇は首元へ。
「嫌なんだよ。いやなんだって」
「嫌なのに、噛んだんですか」
久しく人に触らせることがなかった鎖骨を覆う薄い皮。息が震えて、目元を腕で隠す。
「噛んだらどうなるか、分からなかった?」
ああ、嫌だ。男の指が鳩尾のあたりを通り、息を飲む。隠していた腕を解き、その手を掴むと、動きを止めてくれた。恐る恐る目を見るが当然目が合ってしまい、結局視線を彷徨わせる。顔が近づいてきて目を閉じるが、男の唇が触れたのは額だった。
「……おまえ、さっきから、わざとしないようにしてるな」
「おや、気づいていたんですね」
「なんなんだよ」
「ふふ、馬鹿だな……これは躾ですよ。したいならそう言わないと」
楽しそうに目を細めた男の顔に、判断力の下がりきった脳は敗北を認める。いい大人が酒の勢いなんかで。目を合わせたまま、男は私の頬を撫でた。思わず顔を背けた私を、男の息に似た笑い声が追い詰める。男の手が、首筋に下りてくる。今度は口元を腕で隠し、顔の横に置かれた手首を見つめる。腕が優しく掴まれて、退かされる、のを、制止することができない。私は諦めたかったのだ。男は一度体を起こし、私のことも引っ張り起こした。胡座をかき、踏んでいた尻尾を引き出して先端を掴む。悪態もつけず、キスを強請ることもできずに自分の尻尾を撫でる。諦めたかった。男の手が頬に触れ、親指で唇をなぞる。でも、この男以外、私を逃がさないでくれる飼い主はいない。頭がどうにかなりそうだ。
「責任とってくれ」
「もちろん、最初からそのつもりです」
「なんでだよ」
「あなたを愛しているから」
「薄っぺらいやつだな……」
「恋人兼飼い主ではいけませんか?」
「いけなくねえから困ってんだよ」
「そうですね」
分かりきったことを順番に言い合っているだけだった。ため息と共に片手で目元を覆い、俯く。頭に手が乗せられる。まあいいか。今なら酒のせいにしてしまえる。だいぶ抜けてしまったし、男は初めから酔ってなどいなかっただろうけれど。胡座をかいた太ももに頬杖をつき、撫でる手の優しさを甘受する。
「言わなきゃしねえのか」
「何を?」
「……キスとか」
「ふふ……したい?」
前髪を避けるようにして男の指先が骨のラインをなぞる。何度目かの深いため息ののちに、背筋を伸ばし、尻尾を解放してやる。笑んだままの男と目を合わせる。
「かわいいね」
あまり今までの人生でかわいいと言われたことがなかったせいか、毎度違和感がある。どちらかと言えば男のように振る舞って、そう思われようとしていた。
「私はやっぱ強くなんてないんだな」
「いいえ。が強いからこそ、私の前でだけしおらしいことに意味が生まれるんでしょう」
「しおらしくねえよ」
「そうですか」
「いいから、早く」
「ん?」
「……しろよ。キスとか」
「ふふ、ようやく言えましたね」
男が笑う。目を閉じる。男に抱かれる時、私は男らしさを見せつけたかった。興奮されたくなかった。この男とのコミュニケーションがそれになるのが嫌だった。唇が触れ、後頭部に回った手のひらが深めようとする。抵抗できず口を開く。男の息使いが脳髄を震わせる。何度もしているはずなのに。入ってきた舌に犬歯をなぞられ、緩く噛みついてしまう。手が背中を通って尻尾にたどり着き、付け根を掴まれて息が漏れる。頭が痛い。口内を蹂躙される間、毛流れに逆らって撫でたり、少し強めに全体をシーツに押し付けられたりして、耐えきれなくなって思わず男の腕を掴む。舌が引き抜かれ、濡れた唇が重なる。何度も、丁寧に交わる。丁寧すぎるほど。
唇が解放されてからしばらくは、呼吸を整えるため言葉が出せず、男にもたれかかった状態で、首やら尻尾やらを撫でる男の手にもされるがままになってしまった。
「そんなに体を震わせて、やはりあなたは初心ですね」
「……お前が異常なんだ」
「そう?」
「ふつうじゃない……」
「ふふ。キスだけでそんなになって」
「分かってんならやめてくれよ」
「やめてほしい?」
「ヒッ……おい!」
服の中に手が入ってきて、腰に直に触れ、体が跳ねてしまう。背骨をゆっくりと上ってくる指先に、いよいよ羞恥が爆発する。
「い、いやだ」
「うん」
聞いてもらえるわけがないと分かっていた。本気で嫌ならこの男が相手であろうと殴り飛ばしている。初めて言葉を交わした時のことを思い出す。私は他人に甘い。こいつの泥のような優しさが私を追い詰めるとしても、抵抗しきれなかった。それだけのことだ。男の胸元に頭を押し付け、腕を抱えるようにして背中を丸める。指が下着と肌の隙間を滑り、肩甲骨に触れる。大きく息を吐き出すと、男がまた楽しげに笑った。