誉れを遠景にして
城に住み始めてしばらく経った。男の行動は、相も変わらず気まぐれに私に降ってくる。起きた時だとか寝る前だけでなく、本当に突然、あの目に見つめられる。それでも毎回キスしてくるなんてことはないし、こちらとしてもそういつも受け入れられるわけではなかった。私は私である程度勝手に生活していて、男も別に私に合わせることはなかったので、そうやって唐突に彼の中で私で遊ぶスイッチが入るのかもしれない、と思っている。
昼過ぎ、本を持って寝室に戻った私は窓を開けた。この部屋は午後の数時間日が強く差し込み、日向ぼっこに最適な温度になる。桟に胡坐をかいて座り、少し体を傾けたら落ちそうだなと思いながら日差しに目を細める。不意に誰かの声が聞こえた気がして、ちらと下を見ると、ロザリーが私に手を振っていた。本を持っていない方の手を挙げ、続けて何事か叫ぶのを注意深く拾う。危ないだとかその類のことを言っているようだ。
ロザリーに対してなんとなく敬語を使わなくなり、向こうも私の存在にだいぶ慣れたらしく、口調を崩してくれるようになった。まだ若いのだろう、時折妹ができた気分になる。
本をテーブルに置きながら箒を呼び、窓から飛び降りる。ロザリーの悲鳴が聞こえる直前、従順な箒は私を乗せてくれた。そのまま降下し、女の下へ向かう。地面に足をつけるとようやく彼女は安堵を滲ませた。
「様! もう、私の心臓が持ちません」
「はは。そんなに本抱えて、図書館か?」
「ええ。様は、日向ぼっこですか?」
「いや、読書しようと」
「読書だなんて! 危険じゃありませんか。おやめください」
「大丈夫だって。そんなことより、それ手伝うから夜ちょっと付き合ってくれない?」
「夜ですか?」
「たまには外で飯食いたいからさ。あいつには許可もらっとくよ」
国に戻った時にもらった金は大部分手をつけておらず、酒も結局飲めていないのでどうせ今日にでも飲みに行くつもりだったのだが、それなら誰かと一緒に行く方がいい。見たところ酒を飲める年齢ではありそうだし、ロザリーといると余計なことを考えずに済むので楽だった。
様々な言い訳を述べる女を口説き落とし、本を運びながら飯の算段を立てる。たぶんあの男は許すだろう。たとえ許可が下りなくとも、ロザリーに被害が及ばないようにすることはできる。
曇っていた顔が普段のような明るい雰囲気に戻ったのを見届けて、図書館を出た。その時、部屋の窓を開けたままだったことを思い出し、箒に乗る。
しばらく接していて分かったことだが、あの男は異様に寛容で、何を言っても怒りの感情が見えない。欠片も。私を猫だと思い込んでいるためにそうなのかと思ったが、それならそれなりの怒りの出し方があるはずだ。態度が普段と違うのは眠い時くらいで、それだってたぶん矜持から私に見せないようにしている。
開け放たれた窓から寝室に戻り、窓を閉めて箒を立てかける。最近は外に置いておくのも億劫でこうしているが、別に何も言ってこないのでどうでもいいのだろう。執務室にいると言っていたなと思い部屋を出る。
執務室に辿り着き、扉をノックする。中から男の返事が聞こえ、ドアに体をもたれかからせるようにして押し開けると、書類にペンを走らせる男が目に入った。男は私だと思わなかったらしく、視線だけこちらに向けて驚いた顔をする。
「どうしました」
かと思えば穏やかに微笑まれ、王族っていうのも大変だなと内心ため息を吐いた。
「あのさ、夜にロザリー連れ出していいか?」
「ロザリー? どうして?」
「飯食いに」
「……構いませんが、ここの夕飯は気に入りませんでしたか?」
「違うよ。あの子と話したいし、久しぶりに安酒も飲みたいから」
「なるほど……それでは私は力になれませんね」
「ああ。早めに帰すよ」
「あなたは?」
「あ? まあ暗いうちには」
ドアノブに手をかけたところで問われてそう答えると、男はペンの頭を顎に当てて視線を逸らした。あまり遅い時間までうろついているのはさすがにまずいのだろうか。いや、何がまずいんだ。男の視線が再び私に戻ってきて、ぎくりとする。
「ロザリーと一緒に帰ってきてください」
「……なんで?」
「あなたと過ごしたいから」
「毎日過ごしてんだろ」
「いけない?」
「そうじゃなくて……あー、まあいいや、しょうがない」
「ふふ、優しいですね、あなたは」
「はいはい。じゃあな」
戻ってくると言ったのを戻ってきただけで嬉しそうにする男の、待っているという言葉と、素直な笑み。絆されている。元々人に甘い方だという自負はあったが、あの男にまでそうなってしまうとは。まあ向こうから言ってきたのでよしとするか。
部屋を出て、大きく息を吐きながら廊下を歩き始める。とにかく許可を得られたので、約束通り夜に城門に行こう。勝手に約束しておいて許可がとれないなんてことがなくて本当によかった。
「」
名前を呼ばれ、振り向くと男が今しがた閉めたドアから顔を覗かせていた。来てほしいということのようなので近づけば、手首を掴まれる。そのまま部屋に引きずり込まれ、驚いている間に男の腕の中に収まってしまっていた。咄嗟に抵抗できなかったのはたぶん、この男を傷つけたくないからだろう。そもそも、呼ばれた時点でどこかこうなることを理解していたのかもしれない。
「待ってる」
耳元で男の声が言う。仕方なく腕を背中に回し、ぽんぽんとあやしてやると、男は喉奥で笑った後尻尾を撫でた。突然のことに体が跳ねてしまって、男がそれにもため息に似た笑い声を立てる。
「やめろ」
「どうして?」
「びっくりするし、今は昼間でここは執務室だからだ」
「じゃあ、続きは帰ってきてからですね」
「続かねーよ馬鹿」
さっさと離れた方が身のためだなと思い、体を離す。本人の意思とそぐわない反応をしているだろうに、見上げた男は微笑みを浮かべていて、本当に気味が悪い。わざわざ待っていることを伝えるためだけに呼び止めるんじゃない、全く。呆れながら腕を伸ばし、男の頭に手を乗せる。子供のように瞳を瞬かせた男に、なんとなく安心してしまった。
「いい子で待ってな、ご主人様」
「おやおや……可愛らしい」
楽しげに言い、目を伏せて頭を少しこちらに下げる男を見て、なんだか戴冠式みたいだなと思う。柔らかいくせ毛。に、乗せられる、王冠。この男の作ったものだといい。肌に触れないよう手を離すと、そのたれ目がゆっくりと開かれる。悪い顔だなあと思う。男は満足げにすっと背筋を伸ばした。
「あなたは、悪い男に捕まらないように」
考えを見透かされでもしたようで眉をひそめる。
「そりゃお前だろ? じゃ、仕事頑張れよ」
「ふふ……ありがとう」
私も随分こいつの扱いに慣れた気がする。男の腕を抜け、寝室に戻るために再び執務室を出た。
外が暗くなってから箒で城門前に下りると、ロザリーが私服姿で待っていた。見慣れた格好ではないためか、より幼く見える。あの男の作品と出会って以来よくこのあたりで飲み明かしており、酒場には詳しかったため、あまりガラの悪くない店を選ぶことができた。今だけは酒飲みであることに感謝したい。
店に入り、私はビールを、ロザリーはなんとかというカクテルを頼んだ。それから、肉串やら、炒めた葉っぱを適当に頼み、すぐにやってきた飲み物で乾杯する。喉が焼かれていく心地よさとアルコールが体内に染み渡る感覚。下手をすれば一週間以上酒を抜いている。半分ほど一気に飲んでから、出会って間もない人間の前でこうするのも大人げないなと自省し、ジョッキを置いた。ロザリーは丁寧に両手でグラスを持ち、一口飲んだ後、不安そうに店内を見回している。
「ごめん。品のいい店とか知らなくてさ」
「あ、いいえ、そんな。連れてきてくださって本当にありがとうございます。ただあまり来ることもございませんから、少し、何と言いますか、珍しくって」
「まあ、そうだよな。育ち良さそうだもん」
「いえ……運のいいことに、両親が国王陛下や王子にお仕えする立場でしたので」
「育ちは運だろ? よかったじゃないか、ラッキーで」
女は肩を竦め、私に向き直って切なげに微笑んだ。嫌味に聞こえたかもしれない。
「……然様でございますね。あの、様」
「ん?」
「初めにお会いした時から思っておりましたが……様はお強いですね」
「強い?」
「はい。失礼を承知で申し上げますが、まるで野良猫みたいで」
「まあ、見た目がこれじゃな。別に強いとも思わないが」
「いいえ! 集団に属さないような……しなやかな強さを感じます。偶然お知り合いになれただけの私を、こうして誘ってくださるところも。何より、王子に対しあのような対応をされている方を他に存じ上げません」
「ああ、まあ……私には立場ってものがないし、あいつには迷惑かけられてるからな」
「迷惑ですか?」
残りのビールを飲み干して、目が合った店員にジョッキを掲げる。ロザリーはよく分からないという表情で私の言葉を待っており、あの男にかけられた迷惑を思い返す。あれは確かに仕えている人間にはあまり分からない類のことかもしれない。モデストくらいにならないと。
「私、昔盗賊だったんだ。国じゃ怪盗とも言われた」
「とっ、盗賊?! 様が?」
「意外か?」
「ええ、だって……様は、お優しいじゃありませんか」
「優しいか……多少他人には甘いけどな。盗賊だから悪いとか、花屋だから良いとかってもんでもないよ」
「そう……なのですか」
「まあそれはいいや。そんで、怪盗行為してる時に、あの男の作品と出会った。それを盗むことはできないって思った」
運ばれてきた肉串を手に取り、もう片方の手でジョッキを持ち上げる。黙っているロザリーを余所に酒を流し入れ、肉に齧りつく。ロザリーは未だ不可解そうな表情で、私の食べるところを見た後にじっと皿を見つめた。
「で、たまに城に忍び込んであいつの作品を見てたんだ。ちょっと前、寝室覗いたら捕まって、今は軟禁されてるってわけ」
「な、軟禁? 王子が?」
「私が悪いし、外にも出られるけどな」
「……深くはお聞きしませんけれど、様はご自分の罪をお認めになったのでしょう? それに、我が国の至宝は盗んでおられない。軟禁だなんて、あの方がされるとは思いません」
「あんたから見てあいつはどんなやつだ?」
「そうですね……お優しい方です。私共のことをきちんと見てくださいますし、お仕事に関しても的確な指示をお出しになります」
女が肩の力を抜き、一つ一つ、言葉を紡いでいく。相槌を打ちながらまた肉を噛みちぎり、それを弾けるアルコールで流し込む。
「それから、芸術への愛情が非常にお強い。いっときは作品を生み出せないほど深い悲しみに沈んでおられましたが、それも、あの方が繊細なお心の持ち主だからでしょう」
「まあ、それは分かるな」
「様は、如何思われますか?」
「うーん……寂しいやつだと思う。あんたやモデストがそこまで慕っているのを、ちゃんと認められないのかもしれん」
「……そうなんでしょうか」
「分かってるだろうけどな、本当は。人を信じられないんだろ。でもたぶん信じたいんだ。今の状況も、都合よく猫っぽいのが現れて、信用できるか試してるだけなんじゃないかな」
「お嫌ではないのですか?」
「今はね。いい生活させてもらってるし」
「うふふ……やっぱり、様はお強いですね。王子がお傍に置きたいとお思いになるのも、頷けます」
「買い被りすぎだ。これ食いなよ」
「あ、ありがとうございます……」
そうだな、都合がよかったんだ。自分の言葉を咀嚼する。それに、他人を信用するということができるのか試す道具になっている。それなら猫だと思い込まずに済む相手を選んでほしかったものだが。ロザリーがグラスから手を離し、焼いた肉の刺さった棒を困惑した表情で見つめるのが面白くて、笑ってしまった。