手すさびに蹂躙

 久しぶり、と言っても一日ぶりではあるが、なんだか一人で見知ったところを飛んでいると非常な安心感があった。虹の国は活気があっていい。
 朝、城を出る前にも男は何もしてこなかった。何もと言うと語弊があるが、せいぜい額にキスをされるくらいのことだ。それから、一言、二言。どれも心に留めるほどのものではなかったので、男ももう忘れているだろう。寧ろ、城に戻る時にきれいさっぱり私のことを忘れていてくれとすら思う。正直あんなものは昨日一日で充分だ。胃が空腹を訴える。長時間の飛行には疲労が伴うのだ。そろそろお昼時だし、宿の親父を誘って飯にしよう。
 自宅兼仕事場に着き、古くなって軋む扉を開けるとドアベルが鳴った。受付で新聞を読む親父と目が合う。
「おー馬鹿息子」
「ただいま」
「物音しねえと思ったら、出てたのか」
「昼飯行くか?」
「いいぜェ、勝ったから奢ってやるよ」
「そりゃいい。あと息子じゃねえ」
 親父は私の言葉を鼻で笑いながら乱雑に新聞を畳んで、奥で寝ているらしい本物の息子に声をかけた。かわいそうに。
 親父と連れ立って向かいにあるダイニングに入り、注文を済ませる。すぐに親父は葉巻を取り出し、指を鳴らした。先端がちりちりと音を立てて焦がされていくのを見て、私も久しぶりに吸うかという気分になる。
「一本くれ。マッチは?」
「忘れた。んなことよりお前、妙にいいもん着てるな。盗んだんじゃねェのか?」
「ちげえよ、色々あってさ……そんで、しばらく帰ってこれねえから片しに来たんだ」
「ほー、俺に金は入んのかよ」
「入るわけねえだろ。いいから一本寄越せよ」
「ヘーッ偉そうに」
 悪態をつきながら葉巻を渡してきた親父はどことなく嬉しそうだ。世話焼きな男だった。そうでなければ、いくら領主と顔馴染みだからといって身よりのない元盗賊なんかを住まわせたりはしないだろうが。

 食事を終え、自室に戻って整理をする。必要なものはそう多くはないが、服のことを考えるとそれなりに大荷物になりそうだ。大きめの風呂敷にコートやら下着やらを詰め、部屋を見渡す。魔法道具もいくつか持っておこう。
 粗方必要なものを詰め終わって、机に置きっぱなしだったパンやら薬草やらを紙袋に入れて下に行く。親父と本物の息子が何やら口論をしているのでさっさと出ていこうと思ったところで、突然大きな音が鳴った。思わず耳を掴み、室内で打ちあがるきらきらした流れ星のようなものを見る。魔法だ。絶対にあの男かその弟である。若干の怒りを抱えながらドアを思い切り開けると、案の定空から箒に乗った王子が降りてきた。
「てめえドロワット!」
「よお! 久しぶりだな!」
「人の鼓膜ぶっ壊す気か?!」
「そういやお前、耳がいいんだったな。そんなお前に朗報だ!」
 楽しそうに箒から降りたドロワットに、私に続いて出てきた親父たちが茫然としている。私に仕事を持ってくる時は大抵何かしらの魔法で驚かせてくるが、今回はひどい。騒音被害で訴えてやろうか。
「今度オズワルドんとこでショーをやるから、お前も来い。金ははずむ」
「はあ……いつだ?」
「敬語敬語!」
 後ろからいつも通りヤジを飛ばしてくる親父を無視し、相変わらず能天気な恰好をした男を見る。いくつも年下であることも含め、この男に敬語を使う理由はない。理由はあるが、使う必要のない関係性だった。
「今日の夜だ。どうせ暇だろ?」
「はあ? 今度じゃねえよそれは……まあ報酬倍ってんなら考えるが」
「いいぜ。じゃ、待ってるからな」
 全くいつ会っても嵐のような男だ。颯爽と飛び去った男の、靡く髪を見上げてため息を吐く。今日の夜には帰るつもりだったのが、これは明日の朝になってしまいそうだ。まあいいか、いつ帰るとも言っていないし、臨時収入は非常にありがたい。昼寝をしておいてもいいかもしれない。

 その日、久方ぶりにパフォーマンスをした。怪盗だった頃のような恰好でアクロバティックな動きをし、人々を楽しませる。常にこのような仕事をするのは苦痛だろうが、たまにやる分には楽しい。それに、いい運動になるのでいいこと尽くめの仕事だ。
 ドロワットの弟であるゴーシュは私を気に入っているらしく、今日も抱き着かれたり尻尾にリボンを巻かれたりと散々だったが、かわいらしいなとも思う。まだまだ遊びたい盛りで、私のことも姉の一人くらいに思っているのかもしれない。あいつら兄弟は非常に女にモテるので、あまり近づきたくはないが。
 もらった金は半分親父に渡しておいてもらうよう頼む予定だったが、やつらのことが信用できなかったので自分で宿に持って帰った。着服するというより、すっかり忘れてしまいそうで恐ろしい。
 宿に戻ると息子しかおらず、親父がどこかに夕飯を食べにいったことが窺えた。息子──ルイに金の入った袋を渡す。
「あ、仕事の? いいよ、さんのだろ」
「家賃だ、家賃。親父には言ったけど、しばらく戻ってこないからさ」
「ああ、聞いたよ。部屋は残しといてやるって、親父が」
「ふうん。まあ好きにしてくれ」
「そいやその服どうしたの?」
「あー、もらった」
 話しながら階段を上り、部屋に向かう。もらったというか、なんというか。まさか一国の王子に軟禁されていたとは言えず、気まずい思いをする。ドアを開け、入口付近に置いておいた風呂敷包みを引っ張り出す。それを背負い、胸元できつく縛ってから、ギシギシ言う扉をゆっくり閉めた。しばらく。いつまでだろう。分からない。でも、まあ、すぐに飽きるだろうし。どうして私があの男のせいで感傷的にならなければならないんだとため息を吐く。
 一階に戻るがまだ親父はおらず、ルイに挨拶をして宿を出た。別に、一生会えないわけじゃない。
 星が瞬いている。
 夜空を低速で飛んでいると、世界に私しかいないみたいな気持ちになる。もうずっと私はこのままでいたい。人と接するのは嫌いじゃないが、常に近くに人がいるのは正直息苦しかった。これから、そういう生活が始まるのだと思うと憂鬱になる。他にも部屋くらいあるだろうしそこに住ませてくれないかな。ああ、今日こそ酒を飲みたかったのに。ショーの後で少し飲んだが、なんだか洒落ていて飲んだ気がしなかった。やはり、親父と葉巻を吸いながら飲むビールほどうまいものはない。葉巻、もっともらっておけばよかった。
 一人で待っているだろう男のことを考える。子供みたいに振舞われたら、だから例えば、寂しかったとか言われたら、気を許してしまう気がした。プライドが高そうだから、絶対言わないと思うが。

 そうしてコロナに着く頃には、朝日が頭を覗かせていた。一日に二回もこの時間旅するとさすがに全身が痛い。今日、昨日か、は運動をさせられたわけだし。まあ、オズとコロナの距離を考えればムーンロードなんていう不確かなものに頼るよりはマシだろう。明るんだ空にあくびが出る。さっさと荷物を置いて体を流して眠りたい。
 城が見えて、私は城門から堂々と入れる立場なんだろうか、と思う。思いながら、警備兵のはるか上空を素通りする。疲れで脳がうまく働いていないのだろう。男の部屋の窓を目指し、ふらふらと飛行する。そういえば浴室には一人で行ってもいいのか。こんな時間だ、二人とも起きていないだろう。窓に辿り着いて鍵に手をぶつける。鍵が開いていることに気づき、頭痛をはっきりと自覚する。とにかく寝転がりたい。男が寝ているのを起こしてはいけないと思いつつ、これはどうしようもないと自分に言い訳をする。窓を開け、桟に足裏を置いて箒から降りる。その足がずるりと滑り、咄嗟に受け身をとった。人間が床に落ちる音。
「いっ……」
 全然体が動かなかった。悔しい。舌打ちをしながら立ち上がり、箒を窓の外に出して屋根の上にいるよう魔法をかけた。窓を閉める。本当に、全身、体全部が、痛い。背負っていた荷物を床に下ろし、ベッドを見る。起きていないだろうか。ソファーに置いておいた部屋着を手に取り、とにかく着替えようと思う。男が起きていたら面倒だが、廊下で着替えるのは嫌だ。もういっそ起こしてしまうか。お湯を浴びたいし。
 部屋着を置いていたところに戻し、ベッドに乗り上げる。眠る横顔を観察してから、息遣いからして起きているのではないかと思い、男の足があるあたりを叩く。
「……?」
 目を閉じた状態で身じろいだ男は、片手を目元にやって仰向けになった。
「起こして悪い」
「……帰ってきたんだ」
「そう言っただろ」
「ん……おかえり」
「……ただいま」
 声を出しながらゆっくり体を起こしているらしく、やはり私が見たこいつの姿は完全な寝起きではなかったんだな、と考える。ずっとこの状態ならいいのに。余計なことをべらべら述べたりしなければ、顔だとか立ち振る舞いは王子らしいのだ。この状態は王子らしさとはかけ離れているなと思い直し、布団を引っ張る。男はようやく手を目元から退け、瞬きをしながら私を見た。

 そんな、嬉しそうな顔をしなくても。困惑して何も言えなくなる。体を起こした男は少し冷えた指で私の耳に触れた。それが後頭部に滑り、もう片方の手が腰に回される。抱きしめられるのが分かって、体をそちらへ動かした。男が耳の近くで静かに呼吸をしている。
「帰ってきたんですね」
「……さっきも言われた」
「ああ、そうだったかも……ふふ、恥ずかしいところを見られてしまいました」
「お前、子供みたいだな」
「ふふ。嫌だな」
「はは、嫌なのか。そりゃいい」
「駄目ですね……余計なことばかり言ってしまって」
「起こしてごめん。体流したくてさ……あんまうろつくのも悪いから」
「一緒に入る?」
「馬鹿か。猫じゃないんだぞ」
「ふふ……」
 腕の力が緩み、男と目が合う。部屋に差し込む朝日が、男の金色の瞳を輝かせている。肩にかかっていた髪を後ろに流され、丁寧に、指が首からうなじを撫でる。シャツでよかった。首が顕になっていたら、そのままどこまで入ってきたか分かったものではない。髪を指が通る。また、視線が交わる。
 美しい。
 どうしてこいつはこうなのだろう。人を猫扱いして軟禁しなくたって、こいつのものになりたい女はごまんといるはずだ。魔術で耳でも生やしてやればいい。私みたいな碌でもない女をこうやって撫でることができるのだから、耳と尻尾さえ生えていれば誰にでもできる。
 腰を抱くのと別の手で、男が私の頬を撫でる。ああ、こいつが私を好きになってくれるなら、私も好きになりきれるのに。そんな顔で見ないでくれよ。遊びたいだけなら、そんな風に撫でないでくれ。目を閉じ、唇の熱を受け入れる。酒の味も、煙草の味もしない、綺麗な男のくちびる。触れるだけのそれは容易く離れるが、男は未だ少し動けばくっついてしまうところにいる。
「嫌?」
 嫌って言ったらやめるのか、お前は。私が返事をする前にまた唇が触れ、質問になんの意味もないことを悟る。「いい子」もう一度。拒否する暇を与えない癖に。男の手がリボンを解いていく。最後のそれは離れがたそうに音を立てながら、ゆっくりと終えられた。瞬きをして、男を照らす日差しの強さに目を細める。ちゃんと顔を離した男は、私の首を絞めつけていたリボンを抜き取って、ベッドに置いた。頬に触れた手が冷たく、顔の熱さを認識する。
「ふふ……かわいいな」
「うるさい」
「暴れなくてよかったんですか?」
 答える言葉を持たない私に、男は喉を鳴らした。首元を撫でられ肩を竦めるが、第二ボタンを外そうとするのが分かって思わず手を掴む。
「なんだよ」
「首元、緩めてあげようと思って」
「いらん」
「おや、そうですか」
「……私は体を洗いたい」
「もうキスはいらない?」
「いるのはお前だろ」
「そうかもしれませんね。あなたが戻ってきてくれたことが、本当に嬉しくて」
「戻り甲斐のあるご主人様だ」
「おや、飼われてくださるんですか」
「どうでもいいから浴室に行かせてくれ」
「ふ……はいはい」
 起こさなきゃよかった。ため息を吐いて男の腕から逃げ出す。キスくらいで何を恥じらっているというのか、いい歳して馬鹿馬鹿しい。まったく、どうでもいい。部屋着を手に取り、ドアを開けて私を待っている男の下へ向かった。