背後には構築の亡骸
どのくらい寝てしまったのか、目が覚めた時にはすっかり暗く、起こしにきた男と寝ぼけながら食事をとった。怪盗だった頃ですらたまにしか食べられなかった高級なものが、三食きっちり出てくる。もちろん自分が国民なら、自国の王族が惨めな暮らしをしているというのはある種の屈辱なので、こうしていることが正しいのだろう。
食事の後、男はまだしばらくアトリエに籠ると言い、ロザリーが寝室まで送ってくれた。明かりをつけるのも面倒で、のろのろと窓に近づく。手をかざせばすんなりと開いてしまう鍵が恨めしい。ゆっくり窓を押し開け、桟に乗り上げて窓枠に背を預ける。
月が輝いている。ところどころに星も見えて、今日は晴れていたなと思う。酒が飲みたい気分だった。なんだか、喉の奥に何かがつっかえているみたいで、全部流してしまいたかった。
一日二日帰らなかったところで、働き口の親父は気にも留めないだろう。どうせたまに宿の受付に座っているだけの仕事だ、それにあの人は私の素性を知っている。他にも年に数回、国側から言われて怪盗の頃の恰好をしてパフォーマンスをすることもあったが、実質的にマンチキン領を治めているドロワットは非常に気まぐれなのでそのことをわざわざ意識する必要はない。冷たい風が室内に吹き込むために髪を撫でていく。眼下の街はほの暗いが人通りなどから活気があることが窺えて、いつ来てもいい国だ、と思う。顔を目の前に向け、窓枠に後頭部をつける。
あの男はたぶん、私がここから逃げてもいいと思っているのだろう。監禁にしては制限がなさすぎる。軟禁よりも緩い。箒もとられていないし、いつでも私は帰ることができるのだ。ただ実際問題、そうしてしまったら私はもう、あの男と顔を合わせることはなくなるだろう。もし本当にあいつが裏切りによって心をやってしまうのであれば、黙って立ち去ることは避けたかった。会うことができないのは別段構わないが、ティアラからまた輝きが失われるのは本意ではない。
まあ、そうだな。ため息を吐きながら再び空に視線を向ける。どちらにしろ、ここに居つくのであれば自宅の整理はしておかねばならない。無駄にするくらいなら食糧は宿の親父にでもやった方がいいし、気に入りのコートなどを持っておきたかった。気が向いた時に帰国できるくらい、男の信用を得なければ。何故私がそんなことをしなければならないんだかは分からない、というかやはりこれは軟禁だ。精神的に。
しばらく窓辺で涼んでいると、ドアの外から誰かの足音が聞こえ、街を眺めながら耳を澄ます。これは、あの従者のものだ。ああ、酒が飲みたい。ノック音ののち、控えめに私の名前を呼ぶ声がして、従者だと確信する。飛び降りて窓を閉め、そちらに向かう。扉を開けると男が会釈をした。
「様。お休みのところ、申し訳ございません」
「いえ」
「王子より、お湯を浴びていただくようにと、言伝を承って参りました」
「はあ、分かりました」
「大変心苦しいのですが、ロザリーは今手が離せず、他のメイドたちも仕事の都合がございます故、明朝に引き続き私がお連れいたします」
「ああ、どうも……ありがとうございます」
今朝はなんだか頭が混乱していたので気にならなかったが、随分ごてごてと喋る男だ。仕事の都合というかたぶん、私を逃がさない役がこの男とロザリーに押し付けられているだけだろう。
言われるがまま連れられ、荘厳な廊下を歩く。部屋着が与えられるんだろうか。そういえば、私の着ていたものはどうなったのだろう。先導する男は背筋がぴんと伸び、王子に苦労させられているのだろうなと思った。
「あの、いいですか」
「なんなりと」
「……あの男次第ですが、ここで世話になると仮定して、あなたのお名前を聞いても?」
「これは、大変失礼をいたしました。私のことはどうぞ気兼ねなくモデストとお呼びください」
「ああ、ありがとうございます……それから、今朝私の着ていた服はどこに?」
「あちらは解れているところがございましたので、仕立て屋に依頼しております。出来上がり次第お持ちしましょう」
「はあ、そうなんですか。すみません、あんなぼろいのを」
しばらく沈黙が訪れ、これも真面目な人だなと思う。そうして歩いているうち、大きな扉にたどり着いた。
「……私は王子を敬愛してございます。少々お転婆と言いますか、自由な方ではございますが、もう何十年とお傍に仕える身。そのようなことは些事でございます」
「……はい、まあ、そうだと思います」
「その上で、時折心配になるのです」
浴室に続くだだっ広い脱衣所の扉を開け、モデストは顔を曇らせた。
「こちらにいらっしゃるのは、王子の気まぐれが原因でしょう。あまり気に病みませんよう、微弱ながら私共がお支えして参ります故」
「え……ど、どうも。やっぱり、あいつはいつもこんなことを?」
「さすがに人間……失礼、獣人でしたかな。人の形をした方をお招きになったのは初めてのことでございます。ただし、あの方の言動を見ていれば、様が好き好んでここにいらっしゃるようには思えませぬ」
「そうですか……」
正論だ。
「……お喋りが過ぎましたね。ですから、私共の存在をほんの少しだけでも、心にお留めいただければ幸甚にございます」
「……ありがとうございます。よろしくお願いします、いろいろ」
それから、着替えの説明を受け、扉を閉める。いい人だ。何がどこまで本当だかは分からないが、信じておいて損はないだろう。ロザリーと言い、やはりあいつは慕われている。モデストのそれはロザリーと違い、厄介な子供を案じる親のようだったけれど。
それにしても、人間(獣人よりは、そちらの方が嬉しい)をこうして招き入れるのが初めてだったとは。あの妙な距離感はそのせいだったのか、と思う。生き方に難がありすぎる。普通の猫だとかを拾ってきたりはしたことがあるのだろうか。それもそれでモデストたちが大変そうだが。
大理石の上に敷かれた布に胡坐をかき、手を見つめる。何はともあれ精神的な害を被ることはあまり心配しなくてよさそうだ。ああいう善人らしい善人が牙を剥くところは想像すると恐ろしいが、まずその場合はあの男に被害が行くだろう。状況を考えれば、モデストの立ち位置にいる人間がやりかねないのは強姦だろうが、そんなものいくらでも逃げられるし、魔法でなんとかできる。私を殺すことによって得があるとは考えにくい。ロザリーに関しては殺人の方がまだ有り得るが、あの男が分かりやすいと言っていたのだから、たぶんそれは本当なのだろう。
部屋着の趣味がイカレていたらどうしようかと思ったが、さすがにそんなことはなく、紺色の、ゆったりとした厚めのシャツとズボンだった。フリルのついたネグリジェとかでなくて本当によかった。安心して質のいいそれを纏い廊下に出ると、入る時とほとんど変わらない状態のモデストがいた。
ちゃんと拭かずにタオルを首にかけたままでいたら、体を冷やしますよだとか言われたものの、あの男の部屋に乾かす道具があったので聞き流す。
部屋に送り届けられ、今度は明かりをつける。なんだか温まったら余計酒を飲みたくなってきた。モデストのあの感じ、頼めば出してもらえたかもしれない。惜しいことをしたなと思うが、まだ来て一日も経っていない状況でそんな厚かましいことを言うわけにはいかないだろうと考えを改めた。頭のおかしい野郎に聞いてみようか、と思いながら紙や書物の散乱したテーブルを見る。暇つぶしの道具がない。というより、あの有様、触ったらすぐ気づかれそうだ。仕方なくベッドに寝転がり、ベッドに括り付けられた薄いカーテンのひだを見る。天蓋と言うんだったか。絵画で見るような仰々しさはないが、たぶんそうだろう。目を閉じる。
先ほどきちんと眠れたようで、ほとんど眠気はない。幼い頃よく貧民街の仲間が歌っていた数え歌を浮かべる。なんだって細かく思い出せるんだろう。あの子の、黒ずんだ額と、べたついて皮膚の剥けた頬。は耳があるから、みせものにされるんだって。なんの感情も抱いていない顔をして、子供は言う。〇〇が言ってた。だから、はなればなれなんだって。目を開ける。結局見世物にされたわけでもなく、気づいたらあの子はいなくなっていて、普通に離れ離れだな、と今更思う。尻尾を手繰り寄せ、先端を目の前に持ってくる。毛、切りたいな。爪の先で毛をつまみ、いつも見かねて声をかけてくれた床屋の女を思い出す。
感傷を自覚し、近づいてくる足音のリズムを聞く。静かで、整った音だ。そういえば、髪を乾かしていない。頭の下でぐちゃぐちゃになったタオルを掴んで引き抜く。
ドアが開いて、男が放り投げたタオルが視界に入った。体を起こすと、男も湯を浴びたらしく、私と似たような恰好になっている。
「寝てましたか」
真顔だったのが微笑まれ、自室に人がいるのは落ち着かないんじゃないかと思う。知ったことではないが。
「起きてた」
「すみません。待たせてしまって」
「待ってない」
「そうですか? 退屈そうな顔をしてる」
「退屈なのと、お前を待ってるのは違う話だ」
「ふふ、それを言われてはどうしようもないですね」
話しながら私の隣に座った男は、また頭やら耳やらを撫でた。洗ったばかりだからか男からいい匂いがする。私からするのとは違う匂いなので、たぶん別の石鹸を使っているのだろう。もっと高いやつ。
「まだ濡れてる。ちゃんと拭かないと」
男はそう言って、私が握っていたタオルを取った。一度首に引っ掛けたそれの両端を持ち、男が耳の周りの水分を優しく拭い取っていく。くすぐったさに頭を振ると小さく笑った声が聞こえた。それから、ぽんぽんと叩くように毛先の水気もタオルに染みこませる。こうしていると兄ができたようだと思った。なんだかんだ世話を焼くのは好きなのだろう。部屋の片づけもできない癖に。立場を考えて、世話を焼いてみたいというだけかもしれないと思い直す。
「いなくなっているかと思いました」
男の手が止まり、閉じていた目を開く。
「少し、驚きました。従者から報告があったので、ここに戻ったことは分かっていたんですが」
「……お前は逃げてほしいのかいてほしいのか、どっちなんだ」
「もちろん、いてほしいですよ」
「人を信じてないんだな」
「そうなんでしょうね。だからこそ、あなたを信じたい」
「猫だから?」
「ふふ……そうですよ」
男は前髪を避け、私の額に唇を寄せた。人を信じていないのは私も同じだ。私とこの男は、似たような心の隙間があるのかもしれない。私はそれで他人を軟禁するような愚かな真似はしないが、と思ってから、そのための怪盗行為だったのだろうかと思う。この男の方が被害の範囲が狭いだけマシか。腹立たしい。
視線を上げ、部屋の明かりを反射して煌めく瞳を見つめる。男も私を見ている。頬にかかった髪を剥がすようにして、指先で撫でられる。
「まだ寝たくないって顔ですね」
「そんなことは考えてないが、まあさっき寝たからな。お前は寝るんだろ」
「寝てほしくないなら、しばらく構って差し上げますよ」
「何様だ。私が構ってやるんだよ」
「おや、強気ですね。まるで猫みたいだ」
嬉しそうに笑った男は、一度立ち上がって私のタオルもソファーにかけた。そこから顔を逸らし、夕方の二の舞にならないようベッドから布団を引きはがす。戻ってきた男はベッドに入らず、それこそ動物を見るみたいな顔で、ポケットに片手を入れたまま私を見ている。「なんだよ」「かわいいなと思って」不愉快な言葉は聞こえないふりをして、足元の方まで布団を浮かせ、冷たいシーツに両手を滑らせる。その姿勢のまま背骨を伸ばし、息を吐いてから、体を起こして男を見る。
「座らないのか」
「ふふ、はいはい」
男は肩をすくめるように笑ってから、片足だけベッドに乗り上げて座った。
「明日、一旦国に戻っていいか。家に食べ物とか置きっぱなしなんだ」
「おや、帰ってきてくれるんですね」
「いいよ、もう。城で生活するってのも新鮮だしな」
「飽きたら帰ってしまうんですか?」
「お前だって、いずれ私が猫じゃないってことに失望するよ。どっちが先かってだけだ」
悲しいのか、私を見た男の顔に、信じたいと言った声が脳裏を過ぎる。男はちゃんと私の目を見て、髪を掬いながら指の腹で目じりを撫ぜる。
「ひどいことを言う。私はそう簡単に手放したりしませんよ」
「どうだかな。……まあ今はそう思っときゃいいさ」
どうでもいいし。これ以上同情の余地を増やしたくなくて、その言葉は飲み込む。滑らかな白い指が顎を撫で、耳が反応したことが分かる。私は人間なのに。私は人間なのに、こうして人間不信の懐に入れたのはどう考えても耳と尻尾のおかげだ。そこだけはこの男の気が触れていることに感謝したい。それでもこいつはいつか、本当の意味で私が自分の求める存在ではないと気づくだろう。私が飽きるよりそちらの方が先だろうなと思う。その時私は、悲しいと思うだろうか。このままだと私も、人間不信がちな癖してこの男を懐に入れてしまいそうだ。
ああ、どうでもいいな、そんなこと。今はそう思っておけばいい、だけだ……。