始原と相対する

 ふわ、ふわ、と、浮かんでいる。ママ、あたしね、大人になったよ。耳も尻尾も馬鹿にされていたけど、立派な魔法使いになったんだ。母は微笑む。。人のものを奪っては駄目よ。分かっている。でもあなたが捨てたんじゃないか。あなたが、不安定な環境に私を置いたんじゃないか。盗みでも働かなくては生きていけない状況に。母の笑みが消える。行かないで、ママ。行かないで!
「いや……」
 声と共に目が覚める。自分の呼吸の荒さに一瞬脳が混乱する。同時に、涙や、質のいい寝間着の感触、背中に温もりがあることに気づく。大きくため息を吐きながら、昨晩のことを思い両手で顔を覆う。
「おはよう、
 頭上から男の声が言い、想像以上に体が跳ねてしまう。まさか一晩中ということはないだろうが、男は私を抱きしめている。応えずにいると親がするように背中を撫でられ、深く息を吐いていく。
「怖かったですね」
「え」
「魘されていました」
「……すまん」
 内容はもう思い出せないが、泣くほどのことだ、きっと親でも出てきたのだろう。
「起きられますか」
「ああ、邪魔だな」
「いえ、まだ泣きたければ構いませんよ」
「……」
「ふふ」
 起きたばかりだということもあり、うまい罵倒が思いつかずに体を起こす。男は私を解放し、何が楽しいのか笑い声を上げた。目尻に残っていた涙を拭い、顔も体も洗いたいなと思う。まさかこんなことになるとは思っていなかったから大して化粧なんてしていないけれど、流さずに寝たので多少気持ち悪さがある。それに、汚い状態でこの男といたくはない。隣に体を起こした男は私の前髪を掬い、昨日のように耳を撫でた。
「触るな、汚いぞ」
「ああ、そうでしたね。体を流しに行きますか?」
「……着替えがない」
「用意していないはずがないでしょう」
「変なやつだな……」
「従者を呼んでありますから、身支度を整えてきてください。それから、朝食にしましょう」
「……分かった」
 何がしたいのかは分からないが、世話をされなければならないらしい。食事も出るのであれば、大人しく従っておいて損はないだろう。未だ鈍る頭を押さえながら、ベッドを降りる。

 私は部屋の外に控えていた男に連れられて湯あみを済ませた後、これまた控えていた女(メイドと言うんだったか)にそのへんの部屋に連れ込まれ、手伝われながら用意された服を着た。手触りのいい布で作られたものだ。胸元がひだになった濃紺のブラウスに、ご丁寧に尻尾部分に穴の開いたスラックス。ズボンは少し丈が足りない。私の靴が磨かれた状態で出されたので、内心驚きながら履いて紐を結ぶ。立ち上がると首元に細いリボンを括り付けられ、黒と灰の柔らかいジャケットのようなものを着せられた。金持ちからすればラフなのだろう恰好も、私が着るとどうも堅苦しい上に、何度鏡を見てもやはり分不相応としか言いようがない。
 お似合いですよだかなんだか言われ、困惑する。そういう仕事なんだろうが、城主があれでは大変だろうと少し同情してしまった。どこの馬の骨とも知れない女の世話をするのは自分の仕事ではないとでも思っているかもしれない。そもそもこの人たちにどう説明したのだろう。もしかして本当にこういうことをいつもやっているのか。気持ち悪いやつだ。
 そうして毛艶のよくなった私はリビング(とは呼ばれていないだろうが)へ連れていかれ、普段着に着替えた男を目にし、仰々しさに眉をひそめた。普段着と言えど、男のそれはどう考えても高価で、煌びやかですらある姿に眩暈を覚える。私を浴室に突っ込んだ男と何事か会話していたそいつは、私たちに気づいてこちらを見た。
「サイズは?」
「ズボンが短い」
「なるほど。まあ、急でしたからね。座ってください」
「マナーなんて分からんぞ」
「ええ。気にせず食べていいですよ」
 促されるまま、女が引いた椅子に座る。気にしないことなど不可能だが、分からないものは分からない。初めて見る装飾品が多く並んでいる空間をきょろきょろと眺めていると、向かいの男が笑ったのが分かった。
「後でゆっくり見ればいいでしょう」
「……それが許されるか分からないだろう」
「おや、私の言うことを聞いてくださるんですね」
 ああ言えばこう言う。傍目に見ても不機嫌な顔をしただろう私に、さらに男は笑った。たぶんこいつは自己都合のみで動いているのだろう。私が猫に見えていて、存在が面白いからこうしていいものを食わせてくれる。出てきたパンを見て、生唾を飲む。男のことはどうでもいい、とにかく空腹だ。

 食事を済ませ、自由に過ごしていい代わりにと先ほどの女を宛がわれた。知っていることは着替えの際に分かっていたが、私が名前を言うと、女もロザリーと名乗った。とりあえずこの空間にあるものを見て回りたい旨を伝えると、女は短く了承の返事をし、私の後ろについた。
 私も使わせてもらった、華美とはいかないまでも決して庶民には出回らないような、繊細な模様が描かれた食器たち。テーブルクロスの刺繍にもいい糸が使われているのが分かる。それに隠れた脚を見て、とはいえさすがにあの男の作品ではないらしいと思う。まああの男の専門は日用品ではないから当たり前だが、自分の城だし作ったものも置いているだろうと思っていた。男に気に入られた職人が作ったとか、そんなところだろう。クロスを下げ、再び歩き出す。
 どうやら、女と一緒であれば城も見て回っていいらしい。食堂だかダイニングルームだかホールだか、まあ呼び方は知らないが、食事をした部屋を出て来たのとは逆の方向に歩いていると、窓から中庭のようなものが見えた。さすが芸術家の城と言うべきか、庭も凝っている。足を止め、窓に近づくとドーム状の白い檻のようなものが見えた。何故か脈が跳ね上がる。
「なんだあれは」
 口にしてから不要な質問だったことに気づき、はっと女を見るが、特にそれについての言及はなく、少しだけ口角を上げて説明してくれた。あまり気を抜かないようにしなければ。
「王子がお作りになった憩いの場でございます。時折、王子や来賓がティータイムを楽しんでおられます」
「へえ、優雅ですね」
 それきりお互いに黙ってしまい、また沈黙が訪れる。きっと真面目な女なのだろう。何せ一人で私の世話を任されるくらいだ、あの男からは信頼されているに違いない。

 そうしてロザリーと共に中庭やら講堂やらを見て回った。女は聞いたことにだけ答える人形のようだ。日が高くなってきた頃、不意に女が立ち止まる。
「カーライル様からだわ」
 そう呟いた女の指に、小鳥がとまる。不思議そうな顔をした女が光の膜のようなものを鳥の首から外すのを見て、魔術の一種だと気づく。それを読み終わった彼女は何か一言二言呪文を言った。文字の刻まれた光を再び鳥に巻き付け、ポケットから取り出した包みを開く。パン屑を持ち歩いているということは、あの男からの連絡はいつもこういう風に来るのだろう。
様、しばしお時間をいただけないでしょうか」
「え? ああ、はい」
「大変申し訳ございませんが、一度城門にお送りしますので、そちらで少々お待ちください」
「何をするんです」
「お召し物を……その、大きさが少し違っておりますでしょう。王子が新しいものを用意するようにと」
「そう……ですか」
「では、参りましょう」
 どうでもいいが、まあくれると言うならもらっておこう。くれるんだかは知らないが。

 城門で警備兵に見張られながら女を待っている間に、箒を呼ぶ。少しして小走りでこちらに来たロザリーは、私の手にした箒を見て驚いたように瞳を瞬かせた。
「まあ、そちらは様の箒ですか?」
「はい。こっちの方が早いから……カーライルの許可が下りないんなら、いいですけど」
「私、魔法使いの箒に憧れておりましたの! 危ないからと幼少期より持たせてもらえず……」
「ええ、変わってますね」
「王子の許可はいただいております。様は箒にお乗りになるからと……私もお乗せいただけますか?」
「え、はあ、もちろん。場所が分からないんで、指示してもらえれば」
「お任せください!」
 先ほどまでとは打って変わってハイテンションなロザリーに、茫然と返事をしていく。オズでは箒を持たせてもらえないのは魔法使いとして一人前だと認められないことだったので、驚いてしまった。ここは魔術が盛んとは言え、大体の人が普通に使えるというもののようだし、良くも悪くもオズとは質が違うのだろう。
 空の旅を楽しんでいるロザリーに話しかけられるのをあしらいながら、ぼーっと街並みを眺めた。

 服を取り換えたりロザリーの買い物に付き合って城に戻ると、昼食だと言ってまたあの空間に通され、一人で焼いた肉やら草やらを食べた。男は仕事だか作品作りだかで昼食はとらないらしい。
 その後、ロザリーには仕事があるとのことで、私は執務室に送還された。よくあれだけはしゃいだ後でこの顔ができるなあと感心しつつ、女の報告を聞く。すぐに女が出て行って、男と二人きりにされてしまった。仮にも王子がこんなところに籠っていていいのだろうかと思うが、以前、ほとんど公の場には出ないと聞いたのを思い出す。作品作りばかりでなく書面の仕事もするらしい。
「随分気に入られましたね」
 何も言われないので勝手にソファーに座ろうとしたら、本棚から視線を逸らさず男が言った。
「何故分かる」
「彼女、分かりやすいので」
「……そうだな」
 それにしても今の一瞬で分かるものだろうか。まあどうでもいいかと思い、ソファーに腰掛ける。心地のいい柔らかさにあくびが漏れた。この部屋はあまり装飾品の類がないなと思ってから、カーテンを留めている紐が目に入り、立ち上がる。ガラスだろうか、丸く透明な玉は内部に細かく模様が描かれており、光の角度によって色が変わって見える。
「お前のだな」
 脈が速くなる。絶対にこの男の作ったものだという確信があった。
「よく気づきましたね。何年も前に遊びで作ったものですよ」
「前に来た時はなかった」
「ああ、そうかもしれません。いつだったか、従者が突然持ってきたのです。自室の片付けをしていたら出てきたそうで、ひどく焦っていました」
 作品から男に視線を移すが、その目は書類を見たままだ。あげたのを忘れていたんでしょうと続ける男の表情が穏やかで、なんとなく眉をひそめる。
「……お前、慕われてるんだな。ロザリーと話してる時も思ったが」
「彼らは、父でなく私に仕えてくれている。それに、裏切りにはコストがかかりますから」
 私から見たら、少なくともロザリーは本当にこいつのことを尊敬しているようだった。従者の方はどうだか知らないが、今の話を聞く限りそうなのだろう。この男は裏表のある人間が得意でないのかもしれない、と思う。裏切り。
「もう少しで終わりますから、座っていてください。それか、こちらの棚のものなら読んでも構いませんよ」
「……ああ」
 意図的に私の反応を無視していると分かっていたが、従うほかなく、男の指した本棚に近づいた。裏切られたことがあるのだろうか。少し前話題になっていたらしいスランプはそれが原因だったとか。魔術に関する本が多いが、中には歴史書などもある。下の方に宝石の削り方について書いてあるものを発見し、しゃがんでそれを引っ張り出す。しばらく出していなかったのだろう、両隣の本と表紙がくっついてしまっていた。