斎庭に銀の仄か
盗むことが許されないと感じるのは初めてだった。それほどにあの男の作品は高貴で、もちろん美しく、どれもが他の追随を許さない輝きを纏っており、男自身の憂いがまたそれらを引き立てていた。
男が私を認識するようになってどれほど経っただろう。毎度のことだが、怪しまれないために箒は魔法で城の裏手に固定しておく。そうして怪盗としての力を存分に使い、ついにアトリエでも執務室でもなく、男の寝室に辿り着いた。外壁から窓に手を伸ばし、鍵部分にかざす。あらゆる鍵を開ける魔法はあまりにも怪盗に向いていて、いつも少しだけ複雑な気持ちになる。どうしたって私はこうならざるを得なかったのだろうと思うと、惨めな心がざわりと冷たい風に揺れるようである。
重たい窓をゆっくりと開け、隙間から男の部屋を覗く。カーテンには模様が施されていて、それすら私の胸を引き裂くに値すると感じた。手の甲でカーテンを避け、窓枠に座り、男の寝台へ目を向ける。眠っているようで、微細な息遣いが心地よい。それから室内を見渡すと、テーブルに資料のようなものが置いてあることに気づいた。目を凝らすとそれが図であることが分かる。すぐに書き留めておきたかった構想か何かだろうと推測し、本物の怪盗であったならという後悔の念に襲われた。
窓の外に垂らした尻尾が風に吹かれ、冷えている。
犯罪行為に手を染めておきながら、こうして男に会いにきてしまう上、自身を本物の盗賊でないと考えるのは甚だ愚かである。だが男の作品と出会ってからはほとんど一度も盗みを働いてはいない。ほとんどというのは、昔から日常生活を盗品で賄っており、いきなり真人間にはなれなかったからだ。それに、心根はどうしたって盗人。もっと早くこの男と出会えていたら、私が真っ当な人間であったなら、ふつうに会話をすることもあったのだろうか。
ふと背後を振り返り、月の光を視認する。これで最後にしようという覚悟が固まる。
その時、ベッドの軋む音がして、男の方を見る。目を覚ましていることが呼吸音で分かり、素早く立ち上がって窓に手をかけた。
「お待ちください」
あと少しで箒に手が届くというところで、背後から声がかかる。
「ですね。虹の国オズの高名な魔法使い、」
構わず箒を掴むが、続けられた言葉に、いよいよ体が硬直する。高名などではない。それはあの王族たちのようなやつを言うのであって、私のようなみすぼらしい者には似つかわしくない称号だった。
心から望んでいた男との邂逅。振り向いてしまいたいという欲が湧く。だがこのままここにいれば、男は私を牢に入れるなり国に引き渡すなりするだろう。箒を持つ手に力をこめる。
「私と話しませんか。安心して、引き渡したりしませんよ」
「……」
「……ふふ。振り向いてくれましたね」
男の言葉の意味が理解出来ず、結局振り向いてしまう。話しませんか。一体何を。男を見ながら、右手で箒に魔法をかけ、元いた場所に控えさせる。いつの間にか寝台を出た男は、白い光の中で微笑んでいる。そして、動けない私を嘲笑うように一歩こちらに踏み出し、数々の作品の親である手を差し出した。
「こちらへ。寒いでしょう」
「なんのつもりだ」
「やんちゃな猫を手懐けようかと思いまして」
眉をひそめ、男の表情を探る。寒いのは尤もだが、男を信用することはできない。何より茶化すように発せられた猫という単語が不快だ。
「猫じゃない」
「おかしなことを言いますね。耳も尻尾も、天然ものだと聞いています」
たまに来ては男を眺めて帰る私に、気づいていないはずはないと思っていた。だが名前やこの姿のことまで知られているとは。
「お前に従わなきゃ、厳罰に処すとでも言いたいのか」
「その認識で構いませんよ。ご自分に逃げ場がないことを理解していただけましたか? 怪盗さん」
「……要求はなんだ」
「ですからまずは、こちらに降りてきていただくこと。それと、私の暇つぶしに付き合っていただきたいのです」
素性が知られてしまっているのでは仕方がない。想像以上に食えない男だと思いながらため息を吐く。
「手はいらん」
差し出されたままだったそれを跳ね除け、私は室内に降り立った。ついでに窓を閉め、元の形式で鍵をかけておく。
「おや、最低限の礼儀はあるのですね。でもいけませんよ、差し出されたものをそう邪険にしては」
笑みを崩さず、男はランプに火を入れた。部屋が薄らと明るくなり、目を細める。
「隣に座ってくださいますか?」
寝台に腰掛けた男が言うので、拒否権などないだろうにと思いながら近づく。座らずに男を見ると強く視線が交わり、その繊細な目に見蕩れる。男自体が一つの作品のようだった。私はこの男の全てに惚れきっている。直接言葉を交わしたのは初めてだが、作品を見ていれば人間性はある程度察せられるし、偶然訪れた際に公の場に現れたことで顔も声も知るに至った。虚勢を張っていないと頭がおかしくなりそうだった。目を逸らし、握りしめた手に男の手が触れる。驚いてもう一度男を見る。
「そんなに私のことがお好きですか」
「な……」
「やはり猫はいい。分かりやすくて助かります」
「猫じゃない。馬鹿にしているのか?」
「していませんよ。……あなたは、ある時突然怪盗から足を洗ったのだと聞きました。それが、私のアトリエや執務室に侵入者が現れるようになった頃と一致します。虹の国を訪れた時、魔法使いたちはあなたのことを色々と教えてくれましたよ」
「うわっ」
呆然と男の言葉を聞いていると、強めに腕を引かれ声を上げた。男の手に抱きとめられ、先ほど指定されたところに座らされる。私の育ったところは碌でもないし、こんな男が存在していい場所ではない。顔を上げる。何故、いつから気づかれていた? 明確に証拠を残したわけでもない。勘のいい男だから、侵入者には気づいているだろうと思っただけだ。
「これは如何せん目立ちますから」
心の中の問いに答えるように、男は私の耳に触れた。反射的に後ろに逃げようとするが、肩を掴まれてうまくいかない。頭だけでも逸らそうとした時、ようやく手が離れていった。
「まさか、虹の国で侵入者の情報を得られるとは思いませんでした。怪盗として名を馳せていたらしい猫耳の魔法使いの話を聞き、私なりに調べていたのです。そのあなたが、私のいる時間に寝室に来るなんて……捕まえてくださいと言っているようなものでしょう?」
何がどうしてこの男の興味を引いてしまったのだろう。欲しいものを盗めないというのは私にとって、呼吸ができないのと同義だった。だから息苦しさを紛らわせるためにこの城に来ていた。それだけだ。吸い込まれるような瞳に恐怖を感じ、魔法を使うか逡巡する。あまり気乗りしないが、今はここから逃げた方がいいに違いない。何故だろう。何に対する恐怖だろう。目が逸らせない。
「逆らわないで」
腰を引き寄せられ、びくりと肩を震わせる。両手首をまとめて掴まれてしまい、メスとしての恐れを自覚する。
「ま、待て。お前……体が目当てなのか? 私はそういったことは専門外だ」
「ふふ……楽しみたいだけですよ。その過程であなたを抱くこともあるかもしれませんが」
「……悪趣味だ。それは強姦だぞ」
「では、あなたから許可が降りるまで抱かないと約束しましょう。相当に初心なようですし、まずは私に慣れていただかなくては」
「何故、そんなことを」
「猫も、面白いものも、私の好物です」
最低だと言葉に出す前に、もう片方の手がまた耳を撫でる。小さく悲鳴が漏れ、肩を竦めるが手は離れない。手首が鈍い痛みを主張する。経験がないわけではないが、この状況はさすがに想定外だし、こんな高貴な男に体を預けるのはかなり抵抗があった。恐怖については置いておくにしても、そもそもが憧れやら羨望やらの対象だった男だ。混乱してしかるべきだろう。
「大人しい。……怖いんですか?」
「な……ヒッ」
柔らかく耳を揉まれ、ぎゅっと目を瞑る。男の笑う気配に羞恥が募っていく。
「おやおや、可愛らしい方だ」
「黙れ!」
「ふふ……口の利き方に関しては、愛嬌と思っておきましょうか」
毛の流れに逆らうように男の指が滑り、肌が粟立つ感覚がした。
「いい子ですね。躾は必要なさそうだ」
その言葉と共に両手首が解放され、頭を撫でられる。とりあえず押さえつける必要がないと判断されたらしい。一旦体の力を抜き、作品の一部である瞳を見つめた。
「どうしました」
「……いつもこんなことをしているのか」
「ええ。猫が好きなので」
本物の猫のことか、私のような獣人のことかは分からないが、男は随分楽しそうに言った。獣人のことであれば趣味が悪い。それに、顔や所作の美しさだけでなく、声の説得力も相まって、性質が悪かった。
「変わったやつだな」
「よく言われます。でも、あなたもそうでしょう」
「私は……」
先ほどまでとは打って変わって、子供をあやすような撫で方をされ、気味が悪い。趣味も性質も気味も悪い。だがそれはそれとして、撫でられること自体には優しい快楽を感じる。
「お前、私が人間だったらどうするんだ」
言いたいことを飲み込んで気になっていたことを質問する。だったらも何も、形状からして猫そのものではない。獣の耳と尻尾の生えた人間だ。男は湛えていた笑みを一層深くし、首を傾げた。頭を撫でていた手が頬に触れる。
「あなたは猫です」
「本物を見たことがないらしいな」
「ふふ、ありますよ。その上で言っているのです」
「気が触れてる」
「そうかもしれませんね。とにかくあなたは猫ですから、どうもしませんよ」
「貴族ってのはみんなこうなのか?」
「どうでしょう。少なくとも、自分の城に入り込んだ侵入者を手懐けようとする城主はあまりいないと思いますけれど」
「……そうかもな」
不思議な気分になる。ずっと一方的に想っていた男が、私の頭を撫でながら気の狂ったことをぺらぺらと述べているのだ、不思議どころの騒ぎではない。この男の作品によって折られた心が今また折られるような心地だった。きっと夜だからだ。部屋が暗いから。高級な石鹸が、淡く香るから。男が美しすぎるから、仕方がない。顔が近づいてきて、目を閉じると、頬に冷たい唇が触れた。
「寝ましょうか」
「帰してくれないんだな」
「帰してもらえると思っていたんですか。呆れたな」
微塵も失望していないという風な顔で男は私の背中と膝裏に腕を回した。掴まって、と言われるので恐る恐る男の首にしがみつく。それを待ち切らずに男が私を持ち上げ、数歩歩いて掛布団とシーツの隙間に座らせた。跪いた男が靴を脱がせてくれるので、一体なんのつもりなのだろうとまた考える。私をベッドの中に詰め込むと、続いて男も入ってくる。男が何をしたいのかはよく分からないが、高いものに包まれて、品のいい香りのする美しい男と一緒に眠れるのなら、不満などない。どうせ帰ったところで盗品まみれのクソみたいな家だ。
目の前にある、滑らかな白い胸板を見つめる。いくらくらいで売れるだろう。叩き割ったら、中から何が出てくるだろう。どう見てもよくできた陶器なのに、人の温度がすることがおかしい。男の手が耳を撫でる。その速度が段々緩んでいって、うとうととする。溶けるような微睡みの中、男の温もりを確かに感じた。