ばけもの
一体何事ですか。こちらからしたらお前の大声の方が何事だという感じだが、怒り狂う従者にそんなことを言うほど阿呆ではない。とりあえず冷えて仕方なかったのでシャワーを浴びることにし、適当に撒こうとしたら結局火に油を注いでしまった。阿呆。
その後も説教は続きそうだったが、次の日に備えて早く寝たい旨を伝えれば逃げることができた。口実半分だとは向こうも分かっていただろう。
鳥の鳴き声が窓の方から聞こえる。何はともあれ、普段通りの朝が来た。起き上がってみても体が不調を訴える様子はない。がたつく窓を開け、煙草を手に取る。
「様」
「おはよう」
「おはようございます。お体の方は?」
「いつもより調子がいいぐらいだ」
「……左様でございますか。昨日の件ですが、念のため国王陛下にご報告させていただきます。それから、帰国後にお医者様もお呼びしますので」
「全くの無駄金だな」
「金輪際あのような状態に陥りませんよう、という私の願いをこめたお金でございます」
「そりゃご丁寧にどうも。今日は午前中で終わりだろう?」
「本当に懲りない方ですね」
「約束してるんでね」
煙草の煙をしっかりと肺に入れる。従者は珈琲を入れる手を止め、驚いたようにこちらを見た。
「約束ですか?」
「ああ、約束。お前の真摯さに免じて口を滑らせてやった」
「また一つ成長なさったご様子、私も嬉しゅうございます」
「私は約束もできない人間だと思われていたのか?」
「できないことは口に出さない主義と以前おっしゃったでしょう」
「覚えていないな、そんな昔のこと」
「刹那を生きるもまた人生と考えておりましたが……安堵いたしました」
「そうかい……」
灰皿の隣にカップが置かれ、背もたれに体重を預ける。できないことを口に出さないというのは今でもそうだ。単純に、今日会うことは可能だから約束しただけ。しかしこの男には全て見透かされていそうで嫌になる。
「どのようなお方なのですか」
「さあね。少なくとも私やお前よりは純粋だよ」
「それはそれは」
失礼なやつだ。
小競り合いと共に朝食を終え、支度を終えた我々は挨拶回りのために宿を出た。歩きやすいようパンツスタイルではあるが、一応王族の人間として恥ずかしくない程度の格好だ。今日は式典などはなく、王子たちがいないため簡単な食事会もない。造船職人を中心に、話を聞かせてくれた人間と会い、国のアピールをする。主に技術を教わった方々には友好の証として我が国の紋章が入ったコンパスを渡す予定だ。
相変わらずこの国の朝は早い。市場には店の準備をする国民の姿が見受けられ、やはり今日が最後というのは寂しいなと思う。
「あ、姫様」
「ん? ああ、おはようございます」
「またえらく綺麗な格好で」
「今日が最終日なもので、一応」
「ああ、そうかそうか。じゃあなんか持ってってくださいよ」
「はは、なんですか。貝は好きですよ」
二日ほど前に船の修理を依頼してきた御仁が声をかけてきて、言われるがまま準備中の店頭に近寄る。他国民だというのにこの対応だ、本当に豊かな国民性である。気さくに話してくれるのも私としてはありがたい。他の国の王族なんぞはどう思うか分からないが。
最後の技術者の工房に挨拶し、路地に出る。なんだかんだ親しみを持ってもらえたのか、道中何度も酒盛りに誘われてしまったが(十中八九彼らが理由をつけて飲みたいだけだ)、なんとか断り、逃げるように工程をこなした。話に花を咲かせてしまったせいでもうとうに十二時を過ぎている。一度宿に戻って昼食をとろう。それから、着替えて海に行かなければ。雲一つない空に心の中で悪態をつき、私は歩き出した。
太陽は少しだけ夕方の気配を漂わせている。遠目に彼を探すと、ちょうどよく座っている流木に乗り上げたところだった。やはり何度見ても異様だ。良くも悪くも、彼は人間ではないのだと理解してしまう。
「サラサくん!」
声を上げる。遠くからでも分かる煌めきが揺れ、彼がこちらに手を振ったことが分かった。
そこに辿り着くとすぐ、彼が微笑んでいることに気づく。普段から表情は柔らかい方だが、何か言いたいことがあるのだろう。
「楽しそうだね」
「うん。が嬉しそうだったから」
「私?」
「何か、いいことでもあった?」
「いや……特には思い当たらないな」
隣に座ろうか悩みながら未だ明るい地平線を見る。これで最後なのかと思うと寂しくはあった。私が嬉しそうな理由なんて、彼に会えたこと以外にない。そんなに分かりやすかっただろうかと表情を引き締める。
「座ってくれないの?」
「え? なんだい、その言い方」
「ふふ。ちょっと意地悪なこと言ってみたくて」
「なんだそりゃ……。座ってあげようか?」
「意地悪?」
「譲歩だ」
「ふふ、はかわいいな」
「君こそ」
誰か来たらことだ。私が隣にいれば多少は見つかりにくくなるだろうし、見つかったとして彼を守ることができる。阿呆みたいな言い訳をこね、言われた通り彼の隣に腰掛ける。
サンダルを砂浜に放り、ぬるい海水をちゃぷちゃぷと揺らしていると、隣から手が差し出された。
「ん?」
「手、繋いでいい?」
「はは、いいけど、今日はどうしたの?」
「昨日思ったんだ。もっと、に触れたいなって」
「素直だなあ」
「は嫌?」
「嫌じゃないよ」
「そっか」
よくそんなに嬉しそうな顔ができるなと感心してしまう。絡んだ手は冷たく、私の体温を奪うようだった。これじゃまるで逢瀬だ。いや、そうでなければなんなんだ。呆れた女だ、全く。
「今日は仕事?」
「ああ、うん。君は?」
「僕は海底の魔女のところに行ってた」
「魔女?」
「うん。おまえを招待したいんだけど、それには彼女の協力が必要で」
「へえ……まるでお伽噺だな」
「イヤリングがあるんだ。それをつけたら人間でも海中で息ができる」
「すごいな。でも、何か代償を支払わなきゃいけないんじゃないの?」
「大丈夫だよ。彼女はいい人魚だ」
「そう……分かってると思うけど、君が危険な目に合うくらいならいらないよ」
「ふふ……そうなんだ。ありがとう」
「いや、こちらこそ。私も行けるものなら行きたいから」
「他にもあるんだ、ほんとは」
「他? 海に行く方法?」
「うん」
少し俯き気味に魔女のことを話していた彼はふっと顔を上げ、水滴が垂れるのが見えた。「でも」彼が言い淀んだのを見て、思わず繋いだ手に力がこもる。それに気づいた彼がこちらに微笑みかけてくれて、これも魔女みたいなものだなとぼんやり考える。
「まだ、怖い」
「……それは、ああ言いたくなければいいが、時間が解決してくれる類のものなの?」
「ううん。なんて言えばいいかな……僕には、おまえが何を思っているのか分からないから」
「そりゃ……まあ、そうだろう」
「だから、怖いんだ。大丈夫だと思うけど、そうじゃなかったとき、おまえも傷つくかもしれない」
お互いの感情が大事だということだろうか。私が傷つくというのはよく分からないが、確かにそれなら必ずしも時間が解決してくれるとは限らない。
何も返せずにいると彼は私を見て、柔らかい笑みをくれた。
「は気にしないで」
「そう言われても」
「その時が来たらちゃんと話すよ。今はいい」
「……分かった」
「おまえはやっぱり昼に会っても印象が変わらないね」
「え? なんだ、急に」
「ふふ」
なんだか今日はやけに機嫌がいい。これが素なのかもしれない。素というか、気を許した相手への対応。やたらきらきらしている彼の鱗に、私の機嫌がいいのかもしれないと思う。明るいところで見ると余計綺麗に見える。たれ目がちな瞼に隙間なく生えたまつ毛は水のせいか瞬きの度に光を反射し、透き通った瞳の説得力を増している。海に入ることを考えて化粧を落としてきてしまったのを悔やむ。こんなに美しいものに並びたくない。この子は気にしないだろうけれど。見つめ合っている状態が恥ずかしくなり、視線を落とす。
言っても言わなくてもこれが最後なら、帰ることくらい伝えた方がいいのだろう。心音が跳ねる。彼のひれが足に当たり、はっと顔を上げた。
「知ってる?」
「何?」
「人魚の愛情表現は、尾びれ同士を絡ませることなんだよ」
「え……」
「人間の尾びれは、足でいい?」
「そ……そうかな。ごめん、ええと」
「うん。ふふ……顔、真っ赤だね」
「なんで言うかな、そういうこと……」
顔を逸らし、腕で口元を隠す。彼はまた、楽しそうに小さく笑い声を上げた。片足が尾びれに撫でられ、いてもたってもいられない心地になる。有り得ない。何をこんなに照れているんだ、私は。深呼吸ののち、頬に触れると案の定熱い。完全にペースを持っていかれた。
「」
「なに」
「こっち向いて」
「嫌だよ、恥ずかしい」
「かわいい」
「私にそんなこと言うの、君ぐらいだからな」
「そうなの? こんなにかわいくて、綺麗なのに」
「全く……君は無邪気だな」
「姉さんにも言われた。もっと大人になりなさいって」
「いいんじゃないか、今は。人それぞれだよ」
「そうかな。……ありがとう」
彼ははにかみながら言い、繋いでいた手をそっと離した。落ち着いてきたのでそちらに顔を向ければ、嬉しそうに首を傾げる彼に胸が痛む。これはよくないものだった。私とこの子は一緒にいてはいけない。どうしたって、無理だ。彼の手が頬に宛がわれ、そこに手を重ねる。
「サラサ、隠していたことがあるんだ」
痛みを押しこめ、口を開く。彼は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……なに?」
「仕事で来たって言っただろう」
「うん」
「名のつく呼び方をするとしたら、私は姫なんだ」
「……おひめさま」
「所謂王族で、ここを訪れたのも公務だ。王位継承権はないが、言ってみれば君と同じ、責任の付き纏う立場だろう。だから、ずっと一緒にはいられない」
「そんなこと」
「ごめん。これは言い訳だが、自分でもこんなに君に気を許すなんて思っていなかったんだ。でもやっぱり駄目だ、このまま」
「」
無理やり吐き出した言葉を遮るように彼が名前を呼ぶ。私は自分の手をポケットに引っ込めた。怒らせてしまっただろう。目を伏せ、俯く。
私を嫌いになってくれ。もうこれ以上、君のことを考えていたくない。別れがつらくなる相手を作りたくない……。
「」
迷子みたいな声が頭上から降る。それを無視して立ち上がり、オレンジ色に染まり始めた海面を見つめた。彼と一瞬、目が合う。
「待って!」
咄嗟に目を逸らした私に、彼が叫ぶ。これこそ陳腐な恋愛劇だ。歩こうとしても、馬鹿な体は張り裂けそうな心臓に従ってしまい、呼吸すらままならない。
「、聞いて。おまえがお姫様だってこと、知ってたんだ」
「え」
「一昨日くらいに、おまえの従者だって人が、砂浜に手紙を置いていった。僕は話してないけど、そこにおまえのことが書いてあった」
余計なことを! 泣きそうな顔をした彼が紡いでいく言葉に、感情が追いつかない。左足がぬかるんだ砂に沈んでいき、それを引き抜くために一歩後退する。
「今日が最後なんだろ」
撃ち抜かれた。彼の言葉に、正しく体が硬直する。私は、どれだけ惨めになればいいんだ。
「僕はおまえが話してくれないなら、聞かないでおこうと思ったんだ。あの人、すごくおまえを大切に想ってる。帰らなきゃいけないのも、僕にはどうにもできない」
立ち止まったままの私に、彼が続ける。
「でも、そんなつらそうなおまえをこのまま帰すなんて無理だ。おまえがいいなら嘘吐いても、いいよ。嫌だけど、でも、悲しそうな顔を見るよりはいい」
「なんで……」
「好きだから」
「そうじゃない……そうだよな、分かってるよ、そんなのは」
目元を彼から見えないように隠す。、とまた彼が言うので、どうしようもなくなって、その場にしゃがむ。何もかもに理由が欲しかった。彼の手が届かないところで、私は滲んだ涙をどうにか止めようとしている。これが惨めでなくてなんだ?
「こっち来て。お願いだ。一人で泣かないで……」
彼を見るとそのまま浜辺を這ってきそうなほど上半身をこちらに倒していたので、一度砂に手をつき、無様にふらつきながら立ち上がる。夕日が目に痛い。水にくるぶしが浸かる。重い体を引きずるように彼のいるところに向かって歩く。やがてズボンが押し上げられる深さまでたどり着くが、もう一歩踏み出す。どうせ下には水着を着ているのだ、構うことはない。気づけば涙が頬を伝って、腕をそれを拭った。太ももを超え、腰まで飲み込まれたところで、彼の手に捕まってしまう。いつの間にか座っていたところから海に入っていたらしい。見下ろした彼は未だに泣きそうな顔をしている。
「泣くなよ」
「が泣いてる」
「はは……」
笑い声が震える。顔を隠すために上げた腕もとられ、ぐいと引っ張られた。ぶつかるように彼の腕の中へ。彼の片手が後頭部に触れ、導かれるように額を肩に押し付けた。つめたい。解放された両手で顔を覆う。もう片方の手が、優しく背中を撫でる。私は苦しかったのだ。たぶんいつだって泣きたかったし、こうして誰かに縋りたかった。それがこの子であってはいけないと思っていたのに。
耳元で澄んだ歌声が聞こえ、閉じていた目を開く。サラサが歌っているのだ、と少し驚く。あまりに優しい声が独特の音階を刻む。
それは、私が泣き止むまで続けられた。