月光
暗くなり始めた浜辺に私の足音が広がる。波の音を聞くとなんとなく落ち着ける気がするけれど、人間の起源が海にあるからだろうか。歩きながら煙草に火をつけ、完全に水が来ないあたりで立ち止まる。汚いだろうとは思いつつ砂浜に寝転がり、ゆっくり煙を吸い込んだ。
空が広い。私の上には何もない。ずっとこうしていられればいいのに。我が国には海がなく、他国に出なければ見ることはできない。ここは来ようと思えば来れる位置にあるし、都合さえつけばまた来ることができると分かっている。灰が伸びてきたことに気づき、体を起こして簡易灰皿を開けた。何年も前に余ったパーツで適当に作ったものだが、意外と長く使うことができている。灰を落としていると煙草が折れてしまい、面倒になってそのまま灰皿に押し付けた。
「!」
よく通る声が耳に届き、はっと海の方を見る。サラサがこちらに手を振っているのが見え、立ち上がり全身の砂を払いながら海へ向かう。シャツにもズボンにも砂が入ってしまって気持ち悪い。
「よかった。もう来てくれないかと思った」
「はは……」
水と砂の境界まで辿り着くと、流木に座るサラサはそう言って尾ひれを跳ねさせた。来てくれと言ったのは君だなどと、無責任な、ひねくれたことは言えない。
「煙が見えたけど、あっちで何か燃やしてた?」
「え? ああ、煙草ね」
「煙草?」
「おいしくて中毒性のある有害物質だよ」
言いながら近くの岩に座る。シャツのポケットから箱を取り出し、中身を見せると彼は眉をひそめた。
「なんでそんなもの……」
「一回始めるとそう簡単にはやめられないんだ。おいしいし、ストレス解消にもなる」
「……でも、有害なんだよね」
「うん。君の前じゃ吸わないよ」
「そうじゃなくて、おまえの体にも悪いんでしょ」
「そりゃね……でもいいんだ、死にたくて吸ってるわけじゃないが、死期が早まる分にはさ」
「どうして?」
「……いや、そうだな。この話はやめようか」
口を滑らせた私が悪いのは承知しているが、ここで人生観や趣味についてとやかく言われたくはない。片手でいじっていた煙草の箱を胸ポケットにしまい、肩をすくめた。別に死んだって問題はないのだ。たぶん、誰だって。悲しんだり、苦しんだり、困ったりはするかもしれないし、それを問題と言う人間がいることも承知しているけれど、私はそれを問題とは認識していない。
「そういえば、アンキュラのダグラス王子、覚えてる?」
「ダグラス? うん、海賊の」
「そう。今日出航だって言うんで港まで行ったら、話ができたんだ。それで、私がここに来たばかりの頃に人魚の伝承について尋ねていたから、会えたかと聞いてきてね」
「おまえ、人魚を知ってたの?」
「伝説自体はね。自国にも物語として存在するし、この国では尚更有名だ。……言ってなくてごめん」
「ううん、知ってるだろうとは思ってたから。それで、ダグラスがどうしたの?」
「ああ、ええと……しばらく見かけなかったから心配していたけど、元気そうでよかったって。遠出するからもし次に会ったらよろしく言っておいてくれと頼まれた」
「そっか、ありがとう。ダグラスも……あ、どっちにしろしばらくは会えないか。でもよかった」
どっちにしろ。私に頼むにしてもということだろうか。そういえば帰国予定日を伝えていない。いいか、別に。
風がぶわりと波を高くし、私の髪も後方に広がった。サラサは私から目を逸らして自身の足元を見る。足。彼が足を手に入れたらどうなるのだろう。人魚という肩書きを失い、人間という肩書きを手に入れた時、彼は何を思う? 人間が好きな彼は喜ぶかもしれない。でもその感情がいつまでもつかは分からない。所詮大差ないのだ。人間も人魚も。だから私が人魚になったところで、世界は変わったりしない。
「いいな、人間は」
サラサがぽつりと呟いた。唇の内側を噛みしめる。ないものねだり。そうだ、私の人生、本をただせばぜんぶそれじゃないか。羨ましさを表に出せる彼こそ羨ましくて、羨ましいことが悔しい。唐突に涙が出そうになる。
「どうして」
想定以上に硬い声が喉から排出され、とりあえず口角を上げる。彼が何かを言う前にもう一度、今度は単純な疑問に聞こえるようにどうしてと言った。視線が痛い。
「だって、人間はどこにでも行けるから。ダグラスのことも、僕が人間なら普通に話せたでしょ。それか、手紙とか」
「……そうかもね」
「……は違うの?」
「何が?」
「人間でよかったって思わない?」
「……分からない。他の種族になったところで人間の方がよかったって思うかもしれないけど、それは現時点で世界を動かしているのが主に人間だからだろう。ただ……まあ、今の私には君の方が自由に見えるよ。それこそ、どこにでも行けるように」
「僕が?」
「ただのないものねだりだよ。君は足が、私は尾ひれが羨ましい。ないから欲しいし、素晴らしいものに見えるんだ」
「……おまえは、自由じゃないってこと? だから……」
足を組んで、その上で頬杖をつく。緩くこちらにやってきた波は、そのまま砂をいくらか連れて帰っていった。自由。私は自由なのだろう。でも自分でそう思っていない時点で、精神が自由でない。
「ねえ、こっち来て」
「え? ああ」
彼は自分の隣を軽く叩いた。随分気を許しているなと思う。私が隣にいても自身に危険は及ばないと考えているのだろうか。言われるがまま立ち上がり、彼に近づいていく。少し歩くと片足がひやりと唐突な冷たさに浸る。また生ぬるい外気に晒されて、それからすぐ、もう片方の足が同じように水に包まれる。ばしゃ、ばしゃ。彼の尾ひれのものか、私のものか分からない。そのうちふくらはぎまで海水に覆われてしまい、私は顔を上げる。
ああ、初めて君の顔をこんな近くで見た。陳腐な小説のように、それはつまり男女の恋愛劇だ、だから私は、彼の瞳に吸い込まれそうに思う。
「座らないの?」
彼に問われ、私はようやく彼から目を逸らした。彼の聞き方からして不審に思われるほど見つめていたわけではないだろうが、間を空けてしまったのは確かだ。座るよ、と答え、先ほど彼が示したところに腰掛ける。不安定なそれは私の体重で揺れ、咄嗟に足元の砂を踏んだ。海の中で砂が舞い上がったのが見える。
「大丈夫?」
「うん。ごめんね、揺らしちゃって」
「ううん」
私の方こそ、どれだけ気を許しているのだか。こんな調子でこれから先どうするのだろう。海を覗き込み、揺らぐ足先を眺める。これだけ透き通っているのだから、さぞかしたくさんの生き物がいることだろうと考える。
「おまえの国には海はないの?」
「湖ぐらいかな。よく他国に出向くから、そう珍しいわけでもないが」
「そうなんだ。あんまり慣れてないのかと思った」
「まあ……大抵、入りはしないからね」
「泳げる?」
「え? うーん、どうだろう。運動神経は悪くないはずだけど」
昔一通りの習い事はしたし、兄ほどではないにしろ運動に属するものは大体人よりできる。しかし人魚の言う泳げるの程度が分からない。考えていると座っている流木が揺れて、隣の彼が海に入ったのが分かった。
「おまえも」
「えっ」
「嫌?」
「……嫌というか」
服が濡れるとか、化粧をしたままだとか、煙草が駄目になるだとか。思いついた言葉はどれも言うのを躊躇うくらい些細なもので、いや、本当は大事なのだけれど、ここで言うべきではないことだった、そうして視線を彷徨わせると、彼が首を傾げる。
「あ……そうか。ごめん、人間は服が濡れると困るんだったね」
「……でも、宿に戻れば着替えはあるから」
「おまえの心配事はそれだけ?」
「どうして?」
「顔が晴れないから」
私が分かりやすいということか。そういえばあの男にも言われたし、昔はよく兄に言われていた。サラサは私とは関係なく海に入っていたかったようで、水をかいて泳ぎだす。ここまで気を使わせておいて座っているのもおかしいなと思い、立ち上がって砂を踏みしめた。
「見て」
「ん?」
「月。もうちょっとで満月かな」
「ああ、綺麗だね」
「星もよく見える。おまえはいつも夜に来るよね。なんか、月みたい」
「ロマンチストだな、君は……そんな大層なものじゃないさ。自分で輝けないってとこは、似てるかもしれないけどね」
「じゃあ、月じゃなくて太陽なのかな。月の方が似合うと思うけど、昼に会ったら違うかも」
彼は笑う。笑って、海面に映る月の中を泳ぐ。美しい。君はまるで魔物だ。出会いたくなかった。君さえいれば全て解決するのかもしれないと思った。ずっと一緒にいることなんてできないのに。結局こんな中途半端な場所で立ち止まってしまう女のくせに。空を仰ぐ。嗚呼、嗚呼、君よどうか幻であれ。現実逃避だ。ズボンのポケットに入れたままだった時計と財布、それからシャツの煙草を手に取り、砂浜に放る。これは現実ではない。だから許してくれ。何もかも。
「サラサ」
「なに?」
「溺れるかもしれないから、手、貸してくれる?」
「……うん、もちろん」
微笑んだ彼を見て、砂に足をとられそうになりながら歩き出す。段々水の温度が体に馴染んできて、温く感じられた。下着やショートパンツ、肌着、シャツが水を吸って重くなり、べたりと肌に貼りついて気持ち悪い。いつの間にか腰まで浸かっていて、こちらに来た彼が私に手を差し出す。足元と彼の手を交互に見つつ、彼の手に自分の手を重ねる。冷たい。彼と目が合った。
「うわっ」
足の先に何かが当たって、それを踏みつけ、ずるりと足が滑る。一気に顔のぎりぎり下あたりまで水が来て、手に力が入ってしまう。
「わ、だ、大丈夫?」
「ごめん、びっくりした」
彼に引き寄せられ、なんとか体勢を立て直した。水面を覗く。踏んだのはどうやら貝のようだ。
「足、怪我しなかった?」
「うん。ありがとう」
「手、震えてる。怖い?」
「まあね……」
「腕掴んでる方が安定するかな。あ、両手がいい?」
「両手? ああ……でも重くない?」
「全然。ほら」
サラサがもう片方の手をこちらに差し出してくるので、そっとそこに手を乗せる。両方の手のひらをしっかりと握られ、そう遠くないところにある彼の顔を見ることができない。普段余裕ぶって人の目を見ていたけれど、あれは本当に余裕があったからできていたことだったらしい。
月の光だけが私たちを照らしている。煌びやかな社交場のようにも、遥か昔に受けた泳ぎのレッスンのようにも思える。潮風は穏やかで体を痛めつけることもない。顔を上げる。彼の瞳が私を射抜く。この子の目は少しだけ兄に似ている。意志の強く真っ直ぐな、優しい人の目。王子はみんなこうなのだろうか。彼の髪に含まれていた水分が、雫となって頬を伝い、顎まで滑るさま。泣いているみたいだ、と思う。人魚の涙にも言い伝えがあったはずだが、思い出すことができない。
「泣いてるの?」
「え?」
「、泣いてる」
「泣いてないよ」
「でも、すごく悲しそうだ。どうしたらおまえの苦しみは消える?」
「……苦しくなんてない。悲しくも。ごめんね……ごめん。そんな風に思わせてしまって」
「……こっちの手、貸して」
「え? あっ」
彼の手が、手のひらを離して手首を掴む。考える間もなくその手が彼の肩に持っていかれ、抱きつくような形にさせられた。喉元まで出かかった制止の言葉をどうにか堪えてもう片方の手も肩に置く。ここで騒ぐような女にはなりたくない。心臓だけが私の意志に反しているけれど私はそれを無視した。彼はそのまま私の腰と膝のあたりに腕を回し、抱き上げてしまう。
「柔らかい」
「重いだろう」
「ううん。ふふ……どきどきしてる。びっくりした?」
「そりゃ、いきなりだったから」
「だめ?」
「別に駄目ではないが……」
「よかった」
嬉しそうに微笑んだ彼にやはり私は何も言えない。先ほどより少し高くなった視界で遠くの海面を見る。黒い。飲まれてしまいそうなほど深い闇から、サラサが掬い上げてくれている。
「おまえも人魚だったらよかったのに」
彼も遠くを見つめている。彼の右手が膝裏を滑り、思わず下を見た。
「そうしたら僕も、何かできたかもしれないのにって。でも、人魚じゃないからこうしておまえを抱きしめることができたのかなとも思う」
今度こそ彼は私の目を見て、私を抱き上げている腕に力をこめる。彼が目を閉じ、私の首元に顔を近づけてそのまま額を肩に寄せた。骨が当たる感触。ここまで他人と近づいたのは、いつ以来だろう。
「君の肌は冷たいね」
「おまえは熱いぐらいだ。ずっと触ってたいな」
「はは……人間の体なんてみんなこうさ。昔会った人間はどうなの?」
「ダグラスには触ったことないな。次に会った人間は触らせてくれたけど……もういなくなっちゃった。旅の途中だったんだって」
「……人はいつかいなくなるよ。私だってそうだ。君も」
「おまえは、いつまでいてくれる?」
明日のことなど考えたくはなかった。彼の言うほど熱くはない指先を、彼の頬に滑らせる。それはきちんと冷たくて、どうしても私たちが交わることはないのだと理解した。明日が来なかったとしても。
陸に上がった私は、服が吸った水を絞る。海の中では気にならなかったが、肌に貼りついて気持ち悪いし、何より重い。確かに私が人魚ならこんな思いはしなくて済むなとくだらないことを考える。
「サラサくん」
「ん?」
煙草やらなにやらを持ってから、準備する私を眺めていた彼を呼ぶ。結ばれることのない姫と王子。なんてファンタジックで聞こえのいい言葉だろう。肺のあたりがざわざわとして苦しい。
「今日、ありがとう。楽しかったよ」
「ほんと?」
「うん。海に入るのも久しぶりだったしね」
「そっか。よかった」
「明日は昼ぐらいに来れるかも」
「うん、待ってる」
「おやすみ」
「おやすみ」
彼に背を向け、宿までの道を歩き出す。明日、私は帰国する旨を話さないだろうと思った。砂は私の濡れた足を覆い尽くし、重力が私を襲う。懐中時計はたぶんまた壊れてしまったし、宿では従者が待ち構えていて、長ったらしい説教を聞く羽目になる、それから体調を崩すこともなく公務に臨み、すんなりと帰国するだろう。冷静になれ。過去、冷静さはお前の武器になると言った兄は、確かに笑っていた。