体を離すと、彼の歌声が止んだ。背中を撫でていた手が頬に触れ、それに従って顔を上げる。

「落ち着いた?」
「うん」
「よかった」
「歌、ありがとう。綺麗だった」
「歌うの、好きなんだ」

 そこでようやく彼が本当に安心したのが分かる。私も同じように彼の頬に手を伸ばす。滑らかな白い肌はやはりひんやりしている。

「ほんとは、人間に触ってもいけないって言われてたんだ。僕らは消えちゃうって」
「え……危ないな、消えたらどうする」
「でも消えなかった。だから、キスしていい?」
「……は……いや、意味が分からないんだが」
「キスすると溶けちゃうかも。でも、僕はとキスしたい。人間の愛情表現なんだよね?」
「そうだけど、君なあ……溶けたら困るだろう。触るのと同じに考えてるのかもしれないが、私はそんなことで君を失いたくないよ」
はしたくない?」
「……一応言っておくけど、それを聞くのは野暮だ。あと恥ずかしいから聞くんじゃない」
「したいってこと?」
「君すごいぐいぐい来るな」
「だって、しばらく会えないんだろ。それなら今日をいっぱい楽しみたい。ほんとはこのまま帰したくないぐらいなんだ」
「それは……まあ、そうだけど」
「けど?」
「本当に溶けたら私は一国の王子を殺したことになるんだぞ」
「そしたら、おまえとは一生キスできないよ」
「だからそうだって。逆の立場だったらしないだろう」
「おまえが溶けるのは嫌だ」
「ずっとそれを言ってんだ私は」

 ようやく言いたいことが伝わったのか、彼は不満げに頬を膨らませた。ため息を吐く。子供みたいでかわいい。きっと人間に触れると云々、キスすると云々は人間に近づかせないための法螺話だろうが、危険がないとは言い切れない。悩ましげな顔で浅瀬を泳ぐ彼は、空を見上げた。ずっと水の中にいて疲れたので、海面から頭を出している岩に腰掛ける。明日に備えて早めに帰ろうと思っていたのだが、従者にも完全にばれているようだし構わないだろう。あの野郎、帰ったら嫌味でも言ってやらないと。
 帰りたくないな。潜ったり顔を出したりを繰り返す彼を見ながら、思ってしまう。どうしてくれるんだ、せっかく断ち切れそうだったのに。

「あ!」

 暗くなり始めた海から勢いよく顔を出し、彼が叫んだ。私が移動したのにも気づかなかったようで、きょろきょろとあたりを見回してから私の座る岩礁まで泳いできた。

「やっぱり溶けるのも嘘だ」
「なんで?」
「さっき、海底の魔女に頼る以外にも海に行く方法があるって言ったの、覚えてる?」
「ああ、うん」
「あれが、キスなんだ」
「……ええと?」
「本当に愛し合ってたら、キスした人間も海で呼吸できるようになるんだ。でも、試すみたいで嫌だったから言わなかった」
「なるほど。その方法が存在するんだから溶けたりしないって?」
「うん。言い伝えだけど、溶けるって話よりは信ぴょう性がある」
「そうだな……うわっ」

 話しながら私の足元に来ていた彼は、岩に手をついてざばりと体を海から出した。驚く私をよそに隣に座って、私の頬を両手で包む。想像以上に顔が近づいていて、思わず目を閉じる。冷たい唇が触れ、息を止めた。彼の手から伝った海水が鎖骨に下りる感触に肌が震える。ゆっくりと唇が離れ、目を開ける。

「ほら」

 彼がいたずらっ子のように笑っている。

「溶けなかった」
「……うん。よかった」
「キス、気持ちいい」

 楽しそうな声で言って、彼はまた唇を押し当ててくる。このまま一緒にいられたら。彼が親指の腹で頬をなぞる。岩についた手が痛い。君の鱗が傷ついてやしないだろうか。何度もされるうち、呼吸ができるようになる。合間に生唾を飲む音がやけに響いて、更に顔に熱が集まった。何がどうしてこんなに何回も。肩の力を少しずつ抜いていく。キスって、こんな感じだったっけ? 軽い酸欠のせいか頭がぐらぐらする。
 ふくらはぎに尾ひれが触れ、肩を揺らすとようやく離れてくれた。息を吐きながら瞬きをする。

「大丈夫?」
「あ、……うん」
「かわいい。好き」
「……ありがとう」
「おまえは?」
「好きじゃなきゃしてない」
「ふふ。かわいいな」
「そう、連呼しないでくれ」
「どうして?」
「恥ずかしいから」
「照れ屋なんだね」
「そういう問題かなあ……」
「もう一回キスしていい?」
「さっきは聞かなかったくせに」
「あ、拗ねてる」
「拗ねてるわけじゃない」
「ほんと?」
「本当だよ」
「じゃあこれから先も、聞かなくていい?」
「それは……ていうかまだするの?」
「嫌?」
「嫌というか、多いなと思って」
「キスすると、好きってもっと伝わる気がする」
「そうかもしれないけど」
「けど?」
「いや……」
「……次、いつ会える?」
「……なるべく早く」
「明日よりは後?」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、もっとする。だめ?」
「だめじゃないが」
「嬉しそうだもんね」
「うるさいな。そりゃ嬉しいよ」
「ふふ……僕も」

 結局、もう一度キスをされる。頬を撫でていた手は首を滑り、肩に下りた。女誑し。天然で言っていそうなところが本当によくない。

「聞かないでしちゃった」
「いいよ、別に」
「そうなんだ。よかった」
「サラサ」
「うん?」
「目、閉じてよ」
「してくれるの?」
「フェアじゃないなと思って」
「好きでしてるだけなのに」
「私からしちゃいけない?」
「いけなくない。ふふ」

 目を閉じた彼の顔が人形みたいに綺麗で、思わず触れるのを躊躇ってしまう。散々触っておいて。あまり待たせるわけにもいかないかと覚悟を決め、彼のしたのと同じように頬に触れた。

 満足いくまでキスをして、海を泳ぎ、彼の歌を聞いた。次はいつ来れるだろう。冗談みたいに聞かれた言葉を思い出す。今回の報告が終わればしばらく自国での引継ぎやらで忙しくなるだろうが、それから公務までは日が空くはずだ。従者が言うようにアンキュラとの国交を復活させるという仕事もあるし、そう遠くないうちにまた訪れることになるかもしれない。ここについては任せてもらうよう、兄に相談してみようか。私情を挟むなと言われてしまいそうだ、勘がいいから。
 夜も更けてきたので浜辺まで戻って、服を絞る。そういえば昨日説教されたばかりだった。別にいいか、あいつもあいつで余計なことをしたし。サラサは砂浜に下半身を伸ばして座っている。

「そういえばさ」
「なに?」
「手紙、何書いてあったの?」
「あ、おまえの従者の?」
「うん」
「おまえのことが心配だけど、明日には帰っちゃうから仲良くしてあげて、みたいな感じだったかな」
「何様だ、あいつ」
「あと、僕のおかげでが成長したからありがとう? とか」
「……ああ」
「成長って?」
「いや、大したことじゃない」

 あらかた水分を抜けたので、濡れないところまで彼に近づいてしゃがむ。こちらを見るサラサの柔らかい髪を撫でると、彼はいつものように笑みを浮かべた。どちらからともなく唇を寄せれば、余計寂しさが増してしまった。

「寂しい?」
「また顔に書いてあった?」
「うん。僕も寂しいよ」
「ごめん」
「でも、また来てくれる」
「絶対来る。その時は何日か滞在できるように、兄に話すよ」
「ありがとう。待ってる」
「じゃあ、また」

 いつまでもこうしていては帰れなくなるなと思い、会話を終わらせて立ち上がる。寂しいものは寂しいが、仕方ない。「!」歩きだそうとすると、彼が名前を呼んだ。

「なんだい」
「おまえのこと、愛してる。泣きそうになったら、僕のこと思い出して。僕も頑張るから」
「……うん。私も」
「またね」
「うん、また」

 手を振る。何歩か進んで、振り向いてはいけないと思いながら、ちらと海を見るとまだ彼はそこにいた。もう一度手を上げる。彼も、手を振ってくれる。ああ、厄介だ。恋なんてするんじゃなかった。彼の手や、尾ひれ、それから唇の感触を、忘れられそうにない。こんなつもりじゃなかったのに、と、何度も思ってしまう。でも、女々しい私を君は笑わないだろう。歩きながら顔を上げ、星空を眺める。私は、孤独ではない。のかもしれない。分からない。結果的に孤独でも、ここに来れば彼に会えるというだけで充分な気がした。
 宿で待っていた男は、ごちゃごちゃ言いながらも着替えを用意してくれていた。手紙についてはやはり怒らないでおこうと思う。それがなければ、今頃もっと孤独を感じていたかもしれない。
 シャワーを浴びてから、部屋で荷物を整理し、ベッドに入る。ついて離れない彼の歌声。祝福にも似た人魚の歌を想いながら、私は目を閉じる。出会えてよかった。はっきりと言えなかったけれど、次に会ったら堂々と愛を伝えよう、と思う。そうして手を繋いで、キスでもしよう。これからの愛のために。