また
浜辺に着いた時、既に日は傾きかけていた。薄っすらと橙色が重ねられる海に、彼の姿を発見する。彼は何も知らない。たぶん、「常識」も通じないだろう。人間同士だって、国を出てしまえば通じないことの方が多いのだから。
「サラサくーん」
歩きながら呼んでみると、彼はぱっと振り向き、私を視認してから海に飛び込む。綺麗だ。水色の髪が照らされて、絵画のように完成されている。この場においては、水しぶきでさえ彼を引き立てるためにあった。波打ち際に辿り着くとちょうど彼が顔を出したので、離れたところにあった手ごろな岩を転がしてそこに座る。
「こんばんは」
「こんばんは。仕事、終わったの?」
「今日の分はね。君は何してたの?」
「僕も、同じような感じ。姉さんたちに仕事教えてもらって……あとは買い物したりとか」
「こう言っちゃなんだけど、こっちと変わらないんだな」
「そうかもね。人間の生活は文献で残ってるから、真似してる部分もあると思うよ」
「へえ、文献。それはどういう形で?」
「かたち? うーん……説明しづらい」
「はは、そっか」
珊瑚とか貝とかに彫られているんだろうか。それか特殊な紙があるとか? 明かさない方が面白いのは確かだが、気になるのも事実だ。
「には、兄弟っている?」
サラサが私を真っ直ぐに見つめて言った。そういえば姉さんがどうとか言っていたな、と思う。たちということは複数人いるのだろうか。
「いるよ。兄が一人」
「そうなんだ。僕とは逆だね」
「君のお姉さんならさぞかし綺麗だろうな」
「そうなの?」
「人間からすると、人魚ってだけで美しいし……君は人間だとしても綺麗だから。つまり、尾ひれを抜きにしてもってこと」
なんだか口説いているみたいになってしまった。サラサを見ると首を傾げている。私でもそうする。謝ろうかと思ったがそれもおかしいかと思い直し、ただ沈黙だけが広がっていく。嫌がるだろうけれど煙草を持ってくるべきだったと思っていると、彼の尾ひれが揺らいだのが分かって顔を上げる。
「やっぱり、悪い人間じゃないよ」
「……褒めたから?」
「それは嬉しかったけど、そうじゃなくて……でも、ごめん。あんまり言われたことがないから、どうしたらいいのか分からなかった」
「そうなの? 綺麗って?」
「もちろん、人魚としてはあるよ。けど人間だったらなんて、みんな言わないから。ええと……おまえにとってはそんなに、重要なことじゃないのかなって」
「君が人魚であることが?」
「うん」
「関係ないって言ったら嘘になるけどさ……君が人魚じゃなくてもこうして話してたかって、分からないし」
「最初、僕に声かけてきたの、溺れてると思ったからでしょ?」
「ああ……まあ誰でもそうするだろう」
君が人魚じゃなかったら追いかけることもなかっただろうし、私が王族でなければ溺れかけている人を助けようとはしなかったかもしれない。彼には言えない事実がつまり私はいい人などではないのだと証明している。
「おまえって、難しいね」
「え?」
「苦しそうな顔してる。どうして?」
サラサは困ったように眉尻を下げて言った。苦しそうな顔なんてしているつもりはなかったが、存外私は分かりやすいらしい。無意識のうちにシャツのポケットに伸びていた手を下ろし、彼から目を逸らす。
「なんでもないよ。ごめんね」
「……ふうん」
「君のお姉さんはどんな人?」
「え? ああ、うーん……優しいよ。みんな、僕のこと心配してる」
話題を変えたことくらい分かっていただろうけれど、彼は真面目に答えてくれた。
「心配」
「うん。人間に興味があって、こうして海から出てることを知ってるから」
「お姉さんたちはやっぱり、人間が嫌いなの?」
「うん……分かってもらいたいけど、まだ難しいかな」
「人間が人魚は珍しいものだって認識を持ってるうちは、こっちの行動もそう変わらないだろう。私は他国から来たから尚更だけど、アンキュラの人だって話を聞く限りじゃ君たちを伝説みたいに思ってる」
存在を知ってから人魚という単語を出したのは三回ほどだが、酒場にいた老人なんかは、人魚の血を飲むと不老不死になるという言い伝えを出してきた。惨いことだ。もちろん実際にいると知らなければそこまでひどいとは思わなかっただろうし、その時はまだここの王子からも話を聞いておらず、私も伝説程度に思っていたのだから、共犯なのだけれど。
「ローレライ全体の意識も、僕の行動でちょっとずつ変わってくれるといいんだけど」
「サラサはどうしてそこまで人間と人魚を和解させたいの? こう言っちゃなんだけど、君自身に大きな影響があるわけじゃないだろう」
「影響か……人間に興味があるし、悪い人ばかりじゃないって知ってるから、……知ってる人魚なんだからやらなきゃって思う」
「立派だな」
「そう?」
「そりゃ、そうだよ」
「でも、僕が王子じゃなかったとしても、たぶん誰だってそうなんじゃないかな」
「王子? ……君、王子なの?」
「え? あ……そっか。ごめん、前に会った人間は僕を王子だって知ってたから、考えてなかった」
「いや、私は……別に、いいんだけど……君、本当に不用心だな」
「ご、ごめん」
「詮索するつもりはないけど、君が王子だって知ってたって、前に会った人間ってのは信用できるの?」
「ああ、うん。それは大丈夫」
ただでさえ人間相手に不利な立場にいるはずの人魚が、人魚の中で地位が高いということを知られては、普通まずいんじゃないのか。大丈夫だと言い切る彼に不安が募る。自分の言葉だが正直、私には大きな影響はない。ここを出てしまえば会うこともないだろうし、この子がどうなろうと関係ないのだ。でも、そこまで非情になるのも難しい。
「君は人間と接するべきじゃないかもなあ」
「どうして?」
「どうして? そりゃ、君が傷つくからさ」
「……傷つく?」
「悪い人間ばっかじゃないよ。それはそうだ。きっとどんな生き物でも個体差はあるからな。けど純粋ないい人ってのもそういない。信じなくてもいいがもちろん、私に君を害する意思はないし、人魚をどうこうしようとも思わない。でも私がこの先金に困ったら、君を売り払う可能性はある」
勢いで喋ってから、会って二回目で言うことではないなと思う。遮る様子もなく話を聞く彼に、感情を留めることができなかった。言い訳だ。そしてそうと分かっても、直後に彼に謝ることができるほど私は融通の利くやつじゃない。従者の小言などいつまでも気にするべきではないのに。サンダルが砂を蹴る音。いつの間にか世界は濃紺に染まり、彼の顔もはっきりと見えなくなっていた。
「は優しいね。姉さんたちと同じ……」
君の声は変わらず澄み切っている。今日はさっさと帰ろう。帰って、小言を聞かずに眠ってしまいたい。
「僕のこと、人間全部に話してるわけじゃない。怖い思いをしたこともあるから。だからすぐに逃げることができる場所にいるし……とにかく、大丈夫だよ」
「……ごめん」
「ううん。でも嬉しかった。まだ会ったばっかりだけど、おまえのこと知れて」
「……」
優しいとはお前のことだろうという言葉を、ため息と共に飲み込む。サラサの髪が風に靡き、きらきらと光っているように見えた。
「心配かけてごめんね」
「……謝られる理由はないよ。今日はもう帰る」
彼の視線を受け止められずに立ち上がり、ズボンについた砂を払う。こんなに人と接するのが苦手だっただろうか、私は? のらりくらりとほどよく生きてきて、それにおかしな誇りまで感じていたはずが、今までを悔いてしまうような失態だった。きっと、一つ一つは間違っていない。ぱちゃん。難しいと言うサラサの声が脳を過ぎる。
「ねえ、」
「ん?」
「もっとおまえのことが知りたい。また来てくれる?」
口を開ける。いや、口が開いてしまう。私の顔を見て彼は微笑んだ、ように見えた。