出会い

 次の日も私は海に顔を出した。観光客の少ない国だからなのか、何かしらの力が働いているのかは知らないが、またしても人がいない。以前宿から覗いた時には人影が複数あったのだが、あれが珍しい光景なのだろうか。
 鳥が鳴いている。寂寥感の募る海岸で適当な石に腰かけ、シャツのポケットから煙草を取り出した。ここに来てから買ったサンダルは、何度も砂や海水に突っ込んだせいで随分と汚れ、自分も現地の人間のようで少し嬉しくなる。どうせもうすぐ帰ることになるのだけれど。吐き出した煙が海面に届くこともなく消えていき、私は疲れているらしいと気づく。
 少ししてようやくあたりが暗闇に支配される。波が岩に当たる音。遠くで、誰かの囁きのように。煙が出なくなって数分は経った煙草を指に挟んだまま、私は海を眺めていた。こうやって人生の様々な問題から逃げ続けることは、いつまで許されるのだろう。誰も決意など固めたくはないのだ。本当は分かっている、結婚して子供を儲けることがどれだけ両親や兄、ひいては国のためになるか。どこそこの国に嫁げと言われるわけではないし、お見合いをさせられるわけでもなく、根本的なことを言えば彼らは私の人間関係に一切口出ししてこない。それでもやはり、このまま好き勝手生きるのは違う気がする。小さく息を吐き、足を組みかえるついでに吸殻を簡易灰皿に入れる。
 視界の端に違和感を覚えそちらを見ると、海に丸いものがあった。それがばっと沈み、まさか、と思う。そうでなかったとしても周りに人は居ないし、まあ色々構わないだろうと立ち上がる。

「この間は追いかけたりして悪かった!」

 波の音が曖昧な返事をする。いい歳して大声を出すのは恥ずかしい。会議の場とか、私一人でない時なら大丈夫だけれど。
 しばらく待っても返事は愚か顔を覗かせることもないので、彼ではなく今度こそ泳いでいるだけの人だったのかと考えるが、それなら頭を出さないのはおかしい。溺れている? なんだ、デジャヴだな。デジャヴの通りため息を吐き、ポケットに手を突っ込んで波打ち際にしゃがみ込んだ。
 ぼーっと眺めているとついに彼が現れる。ぎりぎり足がつくくらいだろうか、ここから少し離れたところにある岩に手をつき、こちらを見ている。
 波がざわめく。不規則なそれに合わせて、彼の頭も上下する。

「ねえ」

 何を言うべきか迷っていると、彼が控えめに声を発した。

「なに?」
「おまえ、このあたりの人間じゃないよね」
「ああ、仕事でね」
「ふうん」
「だから、味方なんていないよ」
「味方?」
「つまり、君のこと話したりする相手はいない。もっとこっち来なよ、話しにくいだろう」

 我ながら怪しすぎる誘い文句だなと思ったが、彼は一度潜って、人間で言うところの一、二歩分こちらに近づいた。素直な子なのだろう。何歳だか知らないけれど。以前は見られたら困るという空気だったのに、また陸に近いところにいたのも子供らしい。

「ここ、あんまり人が来ないんだ」

 彼はうろうろして結局大きめの流木に掴まった。あのあたりではたぶん、地面が近すぎて思うように尾ひれを動かせないのだろう。

「どうして?」
「分からない。でも、向こうの浜辺と違って、人間が楽しむようなものがないからだと思う」
「向こうは行ったことないな。そんなに違う?」
「うん。あっちは夜でも大抵人間がいる。昼間は……滅多に顔を出さないから、分からないけど」

 彼が示した方はメインの通りに近い。ここも通りから見えはするが、少し道を外れなければ行き方が分からないような場所だ。

「君、見られたくないのに、どうして陸の近くにいるの?」
「……見られたくないわけじゃない。ただ、人間は怖いものだって昔から言われてて」
「まあ、獣人とかと違って人魚なんてそう会えないからね」
「うん……連れ去られて見世物にされたりするんだって。でも僕の会った人間は……おまえが三人目だけど、そんな風には見えないから」
「本当に? はは、怪しいと思うけどな」
「……どうかな。悪い人には見えないけど」

 ずっとしゃがんでいたら足が痺れてきたので、ゆっくり立ち上がる。確かに私は彼の言う「悪い人」ではない。別に売り飛ばそうだとか利用しようだとか、そんなことを考えて近づいたわけではなく、単純な好奇心だ。だからこそ、罪悪感がある。それはきっと彼には分からないだろう。

「君、名前は?」
「え?」
「名前。私はと言う」
「……僕は、サラサ。よろしく……
「あはは。よろしくね、サラサ」
「なんで笑うの」
「ぎこちないからさ。面白いな、君は」
「……そう?」
「そう。私にとってはね」
「ふうん」

 首を傾げる彼を見て、彼の会ってきた人間は私とは違うタイプだったのだろうなと思う。純粋で素直な、悪く言えば警戒心の薄い男の子。人魚であるということだけが彼を異端にしている。

「明日も来るから、また話そうよ」
「帰るの?」
「うん。朝早くてね」
「そうなんだ」
「夕方ぐらいには来れるかな」
「分かった。じゃあ、また明日」
「うん、またね」

 手を振ると彼は微笑みながら振り返してくれた。不思議な雰囲気の子だなと思う。孤独なのだろう。人間を疎まなければならない環境で、それでもこうして人間と話してしまうのだから。
 宿に戻るとエントランスで新聞を読む従者が目に入る。ドアの音で気づかれたらしく、彼はこちらをちらりと見て新聞を畳んだ。面倒だとは思ったが、たまには付き合ってやるかとやつの向かいに腰掛ける。

「お早いお戻りで」
「まあね。お前はなんだってこんな時間に?」
「姫という立場でありながら夜中に出歩くような主を持ったもので、気苦労が絶えません」
「毎日飽きないな」
「飽きる飽きないという問題ではございませんが」
「難儀なこった」

 要するに心配で眠れなかったという話なのだろう。嘘だろうけれど。幼い頃より私の執事として面倒を見てくれた男だが、一度国王つきの護衛に任命され、また最近私の従者として戻ってきた。齢のほどを聞いたことはないが、きっと私の二倍以上だろう。機械生産技術に力を入れている国において、私が修理方面に興味を持ったのは、近くにいたこの男が優秀な修理士だったというのが大きい。
 男は随分しわの増えた眉間にさらにしわを寄せ、小さくため息を吐いた。

「人魚についての情報は得られたのですか」
「いや、王子以外は特に。そっちは?」
「造船技術に関しては、やはり職人たち独自の感覚によるものが大きいようです。後継者を育てようにも、諸々の事情で難しいと」
「なるほど。次は技術継承について父上にお伺いを立てないとな」
「私もそのように考えております。アンキュラとの交流は現国王まで途絶えておりましたし、条約に関しても帰国後にお話する所存です」
「うんうん。難航するだろうが、そうするのが正しい」
「よいですか、様」
「なんだ、説教か?」
「察しがよくていらっしゃいます」
「当たり前だ」

 私がどれだけ説教されたと思ってる、と言外に伝える。今日は付き合ってやろうと思った自分を悔いる。男はテーブルの上で組んだ手を解いた。

「妹が兄を超えてはいけないルールはございません」

 嫌な言葉選びをする男だ。私の人生を知り、思考を読むことのできる人間などそうはいない。たぶん、その兄よりも私を苦しめる存在なのだ。頬杖をつき、それでも男の目を見るのをやめないのは、プライドの表れだ。

「あなたには実力がある。ご自身が一番よくお分かりでしょう。決してあなたを王にするために持てる技術をお渡ししたわけではございませんが、あなたの求める自由は王の座にあるのではないかと常々考えております」
「……私は王にはならないよ。知っているだろう? そこに自由なんぞない。あるのは孤独だ。お前は孤独を知らないからそんなことが言える」
「……様」

 孤独を知らないわけはないと頭では分かっていた。言い過ぎだとも。けれどこの男の真摯な思いに応えるにはそうするしかないのだ。

「とにかく、何度も申し上げている通り、勝手にどこかへ行かれては困ります」
「何が困るって? 行こうが行かなかろうが、死ぬときゃ死ぬんだ。父も兄もお前の失態とは思わないよ」
「自分の失態など恐れてはおりません。ただその先に様の身の安全が関わっているのであれば、話は別です」
「そうかい。本当に難儀だな、執事ってのは……」

 口の端を上げてそれに応えた男は、続けて立ち上がった私に顔を引き締める。

「お休みになりますか」
「心も体もくたくただからね」

 昔から何かあるといつもこうだ。それだけ心配しているということなのだろうし、こいつの役割としては正しいのだろうけれど、気にしなくてもいいようなことまで気にするから困る。

様は我が国になくてはならない存在なのですよ」

 追いかけてきた男の声に、聞こえないようため息を吐く。全く、何がどうしてこんなことになってしまったのだろう。

「おやすみ、よい夢を」
「……おやすみなさいませ」