網膜を刺激する甘さ
バーで存分に花束を見せびらかし、いつも通りぱっぱらぱーになるまで飲んで、文字通り愉快な人間になった私は、水を飲みながらふらふら歩いている。今日はまだ電柱にぶつかっていないが、迫が直前で避けさせてくれているのだろう。二リットルのペットボトルは既に随分軽くなったし、花は迫に回収されてしまった。
「帰ってねたーい」
「俺も眠いよ、そろそろ」
「えー。私より先に寝ないで」
「車で寝るだろ、絶対」
「んふふ。ねえ」
「ん?」
「だっさい質問していい」
「の好きなとこか?」
「ええ、なんでわかるの?」
「さあなあ。そういうのは、お前がシラフの時に言うよ」
「ないよぉ、そんなとき」
「そりゃ困った。俺はいつ真剣に口説けばいいんだ」
「んふふ、いま、いま」
「それだけはねえな」
「おかしいなー。あ、ちょっと吐いてくる」
「おー」
コンビニを発見し、吐いておこうという本能から入店する。計画的嘔吐だけがやけにうまくなった。私も大人になったなあ、嫌な方向に。
ひとしきり吐いて、水を飲んで、もう一回軽く吐いて、店員がかわいそうなので水とタブレットを購入し、店を出る。男はゴミ箱の隣でスマホを見ていた。ドアの音で気づいたらしく、顔を上げた男はスマホをしまう。
「お、水が増えてる」
「買いました。すわる」
「汚れるぞ」
「そうだもらったんだ」
「別に構わねえけど。車まで戻る?」
「もどる」
「キツいんならお姫様抱っこでもするぜ」
「一人で歩けるし」
「そうかい」
減っていた方のペットボトルの中身を飲み干し、コンビニのゴミ箱に捨てる。タブレットを口に放り込み、そのゴミもついでに捨てようとして、風に飛ばされてしまう。まあいいか。男が手を差し出してくれるのでそこに抱きつき、歩き出す。
「あきれてる?」
「まさか」
「ふーん」
「他の男の前ではやらない方がいいと思うけどな」
「えー嫉妬ぉ?」
「馬鹿、危ないからだよ。自覚を持て、自覚を」
「ちょっとぐらい妬けよぉ」
「よく言うぜ。めんどくさがるくせに」
「妬いてる迫面白いから妬いてみて」
「おじさんで遊ぶのやめなさい」
「てかめんどくさがるのそっちじゃん」
「嫉妬なんて、する方もされる方もめんどくせえだろ」
「酔っ払いに正論言わないで」
「そりゃ正論だな」
「ばか」
「はいはい」
危ない目にあったことがないとは言わない。一人で飲み出した頃は、基本的に女性のバーテンダーなり店員がいない店には入らないようにするとかの事前の警戒をしていたから、いざそういうことが起きると対応できなかった。性的な干渉を持ったことも、薬を盛られかけたことも、何故だか殺されかけたこともある。まあほとんど覚えていないし、たぶん相手の方が悲惨な目に合っているが。
車に戻り、ため息を吐いてシートベルトに頭を乗せる。ひたすら眠いが、ドライブが一瞬で終わるのは好ましくない。なんとか瞼を持ち上げ、運転席に乗りこんできた男を見る。
「ねむい」
「見りゃわかる」
「ねない」
「え、なんで」
「もったいないから……」
「嬉しいこと言ってくれるね」
「気づいたら家なのやだぁ」
「じゃ、適当に走らせるからその間寝てれば。どっかで起こすよ」
「ぜったい起こして」
「分かった分かった」
機能停止寸前の脳で男の言葉を反芻する。いつの間に買ったのか男はコーヒーを一口飲んで、ナビのパネルを操作した。
「ねむくないの?」
「ほどじゃない。大して飲んでないしな」
「ちゅーして」
「……寝ぼけてんの?」
「まだ寝てないんですけどぉ」
「あー、だよな。おじさん驚いちまったよ」
今にも落ちてしまいそうな意識をどうにか持ち上げ、男の指が顎にかかるのを感じる。やわらかく触れるくちびる。しめってる。私ほどじゃないっていうのは、飲んだ量もだ。私は既に嗅覚がやられているが、酒臭いのだろうか。私の方の口臭は最悪だろうな。清涼感はやたらとあるけれど。ゆっくり瞬きをする。男は笑って、私の前髪を撫でた。
唐突に、夢だと気づいた。暗い海に入っていく夢。分かっているのに、体が言うことを聞かない。一人は怖くない。でも、このままだと海に飲まれてしまう。焦る私をよそに私の体はじゃぶじゃぶと歩みを進める。砂で足がもつれ、膝をつく。欲しいものは全てこの中にあると、分かった。それは向日葵なんかではない。花束は? 私の大切な──。
肩が跳ねる。
目の前を流れていくヘッドライトの軌跡。痺れて冷え切っている手のひらと裏腹に、首の後ろはじっとりと湿っている。隣を見ると、男がちらと視線を寄越した。
「おはよ」
「おはよ……」
「どうした、幽霊でも見るような顔して」
「ゆめ……見た、気がする」
「悪い夢なら思い出さない方がいいぜ」
「……うん。どのぐらい寝てた?」
「三十分ぐらいかな。もう起きるのか」
「おきる」
もぞもぞと体を動かし、軽く伸びをする。夢の内容は覚えていないけれど、思い出さない方がいいというのはもっともだし、忘れてしまえてよかった。窓を開け、煙草をくわえる。
「どっかで運転代わろうか?」
「いや、大丈夫」
「あ、煙草買うからコンビニあったら停めてほしい」
「了解」
なんだか随分長く眠っていたような気がする。酒を飲んだ直後の眠りは大抵浅く、悪夢を見ることが多い。そのせいで長く感じるのかもしれない。細く、煙を吐き出す。通り過ぎる案内標識を見て、大体の現在地を把握する。たぶん、帰ろうと思えば三十分以内には帰れるだろう。自宅にも、迫の家にも。目頭を押さえ、あくびをして頭痛を逃がす。
「私の家に送る気でいる? わけないよね」
「わけねえな。送ってほしい?」
「ぜんぜん。花も迫の家に飾るし」
「ええ、なんでだよ」
「あんま帰らないもん。帰った時枯れてたら悲しいでしょ」
「俺に世話を押し付けてるだけだろ」
「半々」
「あ、枯れるまでいるってんならいいぜ」
「え、迫ん家に?」
「そう」
「えーどうしよ。家にずっと人がいんの嫌じゃないの?」
「そりゃお前だろ。俺は気にしない」
「意外」
「その反応が意外だよ。俺のこと神経質だと思ってんの?」
「……思ってない」
「なんだその間は」
「おっさんは寛容だなあ」
「まーちょっとだけ長く生きてるからな」
花が枯れるのにどのくらいかかるのだろう。一週間とか? そんなにこいつといたらおかしくなってしまう。確かに私は人といるのが苦手だし、ある程度神経質だ。酔っていれば別だが。
コンビニに着き、迫に煙草を買わせて水分を排出する。水を飲みまくったおかげでだいぶ醒めた。二日酔いはあまり重くならなそうだ。
迫がトイレに行っている間に、飲み屋で知り合った人間からの連絡に既読をつけていく。誰の顔も思い出せない。イケメンでなかったことは確かだ。女性は母数が少ない上に大抵美人だから覚えられるが、男はそうもいかない。開いたついでにサーチエンジンのニュースを見る。有名人の訃報、個性犯罪、ヒーロー同士の対談、株価の変動。そのうち男が戻ってきて、スマホの画面を消す。
世の中どうでもいいニュースで溢れている。本当は気にしなければいけないことなのだろうけれど、ただ生きているだけの私にとってはどうでもよかった。目の前に問題が降ってきた時にでも考えればいい。手遅れだったらそれで。
「帰るか」
「うん。お花出して」
「好きだねえ」
人並みに、大抵のものが好きだ。自分をロマンチストだと思ったことはなかったが、そうなのかもしれない。実用性のないものを好み、喜ぶということ。夢見がちな子供だ。全く、嫌なところばかり似ている。
家に着くなり、どっと疲れてしまった。長い一日だった。汗を流すために軽くシャワーを浴び、リビングに入ると、コップに刺さる花束が視界に入る。
「かわいい」
部屋着に着替え、ベッドでスマホを見ていた男は、私の言葉に顔を上げた。
「そんなに気に入った?」
「意外?」
「意外だな。は酒にしか興味ねえんだと思ってた」
「失礼な……」
「しょうがねえよ、四六時中酔っぱらってんだから」
「あ、酔い醒めたよ。完全なシラフではないけど」
「なに? 口説いてほしいの?」
「えっ迫が口説きたいっつったんじゃん」
「言ってねえよ! 都合よく記憶を改竄するんじゃない」
「ひどーい。楽しみにしてたのに」
ため息を吐かれてしまった。いつもより真剣に困っているという表情をするので、笑いが堪えられない。からかうのはやめておこう、かわいそうだし。電気を消し、男の隣に座る。そのまま雪崩れるようにベッドに転がり、男の鼓動を感じる。
「腹は決まったか?」
「だいたいね」
「逃げたくなったら逃げていいぜ」
「逃げないよ、あんたと違って誠実だから」
「そりゃ結構。守りがいのあるお姫様だ」
私は姫なんかじゃないし、こいつも王子や騎士なんかじゃない。でも、だからこそ、その呼称に意味があった。上半身を持ち上げ、男の顔の横に両手をつく。
きれいなかお。正しくない目。汚れきった手のひら。
男は何も言わず、私の頬を撫でる。かわいい、と男が言った気がして、はっと目を見る。好き、と続けられる声。違う。今のは、現実の声ではない。この……目の、力だ。理解した途端恥ずかしくなって、男の手から逃げ、ベッドに突っ伏す。
「逃げないんじゃなかった?」
「うるさい。見えちゃったんだもん」
「あれ、個性暴走してんの?」
「あのねえ、強い想いならたまに見えるの。ばか」
「そんなに照れることかね。なんだってお前はそう、ピュアなんだ」
「マジで思ってると思わなかったんだよ!!」
「信用ねえなー。ちょっとは信じてくれた?」
信じるも何も。個性を把握した上でわざと考え続ければ嘘も吐けるだろうが、そんなにタイミングよくそのことだけを考えるなんて不可能だ。ふわふわと頭を撫でられ、いてもたってもいられなくなる。嘘でもいいと思っていたのに、これじゃ馬鹿だ。ため息はシーツに吸い込まれていく。
「」
「……なに」
「何が見えたか知らねえが、お前に惚れちまったのは本当だ。たぶん、これから……お前を巻き込むこともあるだろう」
「……」
「もし俺と来るってんなら、覚悟は決めた方がいい。こんなこと、言わなくても分かってるだろうけどな」
「はんざいしゃ……」
「俺も覚悟決めたんだよ。は犯罪者だからな」
「そーだった」
「そのへんのヴィランやヒーローなら俺がどうにかする。一人でいるよりはマシだと思うぜ」
「はー……なんかいいこと言ってる」
「ときめいた?」
「ずっとときめいてるわ」
「そりゃ光栄だ」
やっとの思いで顔を上げ、うつ伏せから横向きになる。私が足手まといになるということではないのか。もっと鍛えて、実践的な動きができるようにならないと。ちまちま盗みをやっていた頃とは違うのだ。こいつとこれから何を盗むか分からない。そんなことをすれば、ヒーローの目に怯えながら暮らす羽目になるだろう。それをこいつは分かっている。
「酒さえ飲めればいいかな……」
「結局酒かよ」
「んふふ。迫がいればなんでもいいよって言えばよかった?」
「本気で言ってくれんなら大歓迎だ」
今までのように自由な生活はできなくなるかもしれない。でも、もう、私はこいつに落ちきってしまった。だから構わない。逃げたくなったら逃げればいいし、そんな心境になる頃には私も誠実さをいくらか失っているはずだ。
「すきだよ」
呟いて、服の襟を摘まむ。目が合う。また男の感情が一瞬見えたので、咄嗟に目を閉じる。やさしく重ねられる唇には、魔力でも宿っているのではないかと思うほど。
この調子でどんどんこいつの考えていることが見えてしまったらどうしよう。奇妙な悩みを抱えながら、私は長い一日におやすみを告げた。