わたしをだめにするだけのきみ
二缶飲んで楽しくなった私は男に宥められつつ眠りについた。こうやっていつでも楽しければいいのに、と思ったことは覚えている。いつもそうだ。いつも私は、自分が楽しくあれるかどうかを第一に気にしてしまう。
デートなら服を調達しなければ。焦りと共に目覚め、暗い室内に目をやる。横にいたはずの男がおらず、はっと体を起こす。
「迫?」
声に反応がない。出かけているのだろうか。カーテンの外はわずかに明るく、夕方であることが分かる。とりあえず電気をつけようとベッドから下り、ドア付近に向かうと、シャワーの音が聞こえた。朝も入っていたのに、律儀なやつだ。
私が一人になれないということは、迫もそうなのだ。不意に当たり前のことに気づく。元々一人が気楽な質じゃないのか。私のせいではないのでどうでもいいが。
電気をつけてテーブルに戻る。長時間寝たおかげでだいぶ体が楽になった。テレビをつけると夕方のニュースがやっている。好きとかなんとかは置いておいて、とにかく今日着るものをどうにかしなくてはならない。昨日の服は濡れてしまったので洗濯機に入れたし、部屋着の類、ラフなものしかここには置いていない。ドライヤーの音がしたので、煙草を一本取り出し、火をつける。
数分後、リビングに入ってきた男は私を見て少し驚いた顔をした。
「起きてたのか」
「うん」
いつの間にか根元まで燃えてしまった煙草を灰皿に押し付ける。
「朝も入ってたのに」
「そりゃ、デートの前だしな」
「私も入った方がいい?」
「俺ぁ気にしねえよ。好きにしな」
「じゃあいいや……あ、私、服盗むなりしてくる」
「服?」
「着るもんない」
「あるぜ。ほら」
男が指を鳴らす。え、と言う間に、出現した服がテーブルに広がった。
「……嘘でしょ?」
「嘘じゃねえ」
恐る恐るビニールに包まれたそれに触れる。袋越しでも分かる上質な生地。黒のノースリーブと白いワイドパンツだ。見ていると男が向かいに腰掛けた。
「開けていい?」
「もちろん。気に入らなきゃ他にもある」
「は、な、なんで?」
「着てくる服の系統がバラバラだろ。それは俺の好み」
「……とりあえず開けるわ」
こんなに物を用意されるのは初めてなので、喜びよりも驚きが勝る。本当に? 疑問で頭がいっぱいになる。しかも包まれているということは、店から直に盗んできたわけではなさそうだ。二つともの袋を破き、中身を取り出す。
「かわいい」
シンプルだが普段着るものより質がよく、大体誰が着ても綺麗にまとまりそうだ。
「そりゃよかった」
「こういうの好きなんだ」
「に一番似合う」
「そ……そう」
「他のは帰る時にやるから、着るなり捨てるなりしてくれ」
「え、ありがと……どうしたの?」
「何が?」
「いやなんか……なんだろ……優しくない?」
「普段から優しいんだけどなあ」
そうかもしれないが、そうではない。男は苦笑し、テーブルに肘をついた。
「ま、これを優しさだって思うのもの可愛げだよな」
「喧嘩売ってんの?」
「いや? 俺は嬉しいよ」
「…………あっち向いてて」
「はいはい」
意味は分からないが、とにかく私に似合うと思って用意してくれたらしいので着替えることにする。他のものは分からないが少なくともこれは好きだし、よく見ているなと思う。
着替え終わり、テレビを見ている男の前に立つ。
「似合う?」
「ああ、似合う」
「んふふ」
「こんな綺麗なお嬢さんとデートできるなんて、光栄だよ」
「あ、先に顔洗えばよかった」
「聞いてる?」
「私がいつもかわいいって話?」
「敵わねえな、ったく」
「……あんたがどういうつもりでやってんだか知らないけど」
トップスだけ脱ぎ、タオルを手元に引き寄せる。
「私は嬉しいし、優しいって思っときたいの。思っといて損はない」
「どうかな。あんま信じやすいと取り返しのつかないことになるぜ」
「信じやすい? 行動に対してだけでしょ」
「それならいいけど」
こんな素性の知れない男を信じきるほど、馬鹿ではない。それでも好きなのはきっと、こいつがこれまで私を裏切る行動を取っていないからだろう。服をくれるだとか車を用意してくれるだとかが、彼自身のための行動であっても構わない。そういうもんなの、恋ってのは。なるほどな、と思いながら、リビングを出た。
車に乗り込む頃には六時を回っていた。雨は止んでいるが、たぶんまた降るだろう。
「よかった、ベンツとかじゃなくて」
いつも盗むようなものに比べたら当然ベンツも高級だが、個人的には遠慮したい。
「ベンツもものによるだろ」
少しの間ののち、男は答えた。
「そうだけど、ベンツってだけで嫌じゃん」
「盗むのには向いてねえな。目立つし、乗り心地もよくねえ」
「確かに」
一応色々考えた結果なんだなと少し驚く。たぶん、服がスカートとか、ドレス系でないのもドライブだからだろう。足を組む。器用で、頭のいい男だ。
冷房の効いた車内に流れるジャズ。私は音楽にはあまり興味がなく、流行りの曲もクラシックもほとんど分からず、聞いたことがあるなという程度だ。静まり返っているのも心地が悪いので、音楽が流れているだけでもありがたいが、全く馴染みのないジャズというのがまたいい。
「ねえ」
「ん?」
「目的地がないなら、海が見たい」
「海か、いいぜ」
「ディナーの予約は?」
「八時」
「してあるんだ」
「そりゃな」
「王子様みたい」
「王子ってガラじゃねえよ、俺は」
「私だってお姫様なんかじゃないよ」
「そりゃいい。城から連れ出す手間が省ける」
「なんでお姫様って言うの?」
「言いたいからだよ」
「私のことお姫様だと思ってるからじゃないの?!」
「おー、急にどうした」
「まあでも、迫は王子様じゃないしな」
「だろ?」
「シラフだと恥ずかしいわ」
「何が」
「いい歳して自分をお姫様だとかのたまうのが……」
「別に、言いたいなら言えばいいだろ。自分を姫だと思ってるお前はかわいいよ」
「シラフなんですけど」
「面白いしな」
「喧嘩売るな!」
「はは、冗談だよ」
冗談だったら許されるとでも思っているんだろうか。まあおかげで照れなくて済んだけれど。
軽口を叩きあっている間に、窓の外は完全に暗くなった。目を凝らすと海が見える。
「浜辺まで行くか?」
「いや、通り過ぎるだけでいい」
「海好きなんだな」
「好きだよ。私は、大抵のものは好き」
「タピオカは?」
「きらい」
「即答かよ」
「よく覚えてんね」
「そりゃ、初対面でいきなり言われたからな」
「私やばい人じゃん」
「車突っ込ませた時点でやべーやつだと思ったよ」
「あの時は愉快だったからなあ」
窓を開け、湿った空気を浴びる。橋の骨組みの間から見える海は黒く、昼に見るそれとは全く違う。近づいたら引きずり込まれてしまいそうだ。鞄から煙草を取り出し、手で風を避けながら火をつける。ターボライター、どこに置いてきたんだっけ。窓枠に肘をつき、流れていく景色を眺める。
「私の母親、すごい愉快な人なんだ」
「どういう風に?」
「いつも一人で楽しそうだし……酔っ払って楽しい時の私が通常って感じ」
「そりゃ確かに、愉快だな」
「でしょ? 人生がミュージカルなのかもね」
「プリンセスか」
「そう」
あの、はしゃいでいた子たちは今、ご飯でも食べているのだろうか。それとも、勉強。うたた寝かも。友達とカラオケ、喫茶店、買い物……。
「羨ましい。私は、あの人みたいにはなれないから」
吐き出した煙が風にかき消される。吸い口についた口紅。だから、酒を飲むのだ。馬鹿みたいに。
「若いねえ」
「若いもん」
「……俺は、がでよかったと思ってるよ」
「なにそれ」
「遠慮なく車突っ込ませたり、嫌いな飲みもん買ってみたり、わけわかんねえ男についてって、挙句惚れちまったり」
「悪口?」
「だったら言ってねえよ」
「ふーん」
「そういうの全部お前だろ。俺はあの出会い方してなかったら、気に入ってなかったよ」
「わけわかんねえ女に惚れることもなかったのにね」
「結果オーライだ。あと、お前は充分愉快だよ」
「うれしくない」
「褒めてんのに」
「そうかなあ」
「ま、とにかく、ママみたいになる必要はないってこと。憧れるのはいいけどな」
「まさか慰めてくれたの?」
「なんだよまさかって。たまにはいいだろ」
「いやいつも慰めてよ」
「落ち込んでたら慰めてるよ、いつも」
「記憶にない」
「最近気づいたけど、酒で記憶なくすタイプだな」
「そうだよ。しかも、ほとんど常に酔ってる」
「そりゃ結構。ほんとに下まで行かなくていいのか?」
「うん。お腹空いた」
「じゃ、向かうか」
頷いて、強めに煙を吸い込む。煙を吐きながら後続車を確認し、吸い殻を投げ捨てる。海が先ほどの半分くらいの大きさになっていて、時間の経過を知った。
私は母にならなくていい。もちろん父にも。こいつが年上だからか、やたら腑に落ちて、それこそ愉快な気分になる。正しくなくたって生きていけるのだ。たまたま私の生き方が周りとは違うというだけ。
「ありがと」
「ん?」
「なんでもない」
「どういたしまして」
「聞こえてんじゃねえか」
「はは」
食事をとり、その間にワインを三杯飲んだ。苦手な類の酒なので既に酔い始めている。煙草を理由にさっさと店を後にし、エレベーターに乗る。
「おなかいっぱい」
「相変わらず小食だな」
「まだ飲むしね」
「なるほど」
降りていく箱の中から、ネオンを見下ろす。いい店だった。貧乏舌の自覚があるので、あまりはっきりおいしいと言えないのが悲しいところだ。ワインは確実においしかった。ボジョレーよりは……。
「どこ行くの?」
「飲みたいんだろ? バーなら近くにある」
「やったぁ」
「あんま飲んで車で吐くなよ」
「うーん……うろうろしてから乗ればへいき」
大丈夫かこいつという顔をする男をよそにエレベーターを降り、エントランスを抜ける。食事中も降らなかったようで、道路はほとんど渇いている。立ち止まって後ろを向くと、男と目が合った。
私を好きだと言った男。そういえば一日で答えを出さなければならないのだ。じっと見つめていると男はどこからか例の玉を出し、指を鳴らす。
「うわっ。お花」
「ピンクの花だ。いいか?」
一輪の花は再び玉になる。なんだか手品が始まってしまった。愉快な男だ。
「サングラス外していい?」
「透視使われちゃ面白くねえな」
まあそうだろうなと思い、両手をするすると移動するそれをサングラス越しに眺める。突然男がその両手を開くが、そこには玉はない。透視を使わないとなると推理するしかない。たぶんどこかのタイミングで服の袖に滑り込ませたのだろう。
「えー右ポケット?」
私が男のズボンを指さすと、そこから玉が出てくる。「残念、こっちは黄色だ」男の言葉と共に黄色の花が現れ、どんだけ仕込んでんだよと思う。
「じゃあ左も違うでしょ」
「どうかな」
現れたのは白い花だった。それなら尻ポケットに仕込むなんてことはないだろう。花が差し出されるので考えながら受け取る。もう片方の手を何気なく自分の尻ポケットに入れると、指先に何かが当たった。
「ん? うわ!」
いつの間に。驚いていると男が指を鳴らし、手のひらにピンク色の花が乗る。
「なんで?!」
「もう一個。右のポケットだ」
「ええ? ほんとだ。マジでいつ? さっきトイレ行った時はなかったのに」
「さあ、いつだろうな」
探ってみると確かに右ポケットから玉が出てきた。さすが自称エンターテイナーと言うべきか、男は特段喜んでいる風でもなく、いつもの人を食ったような笑みを浮かべる。指を鳴らす音。
「えっ?!」
そこに出現したのはパステル調の花束だった。片手で持てる大きさで、今手品に使われていた三種類の花をメインに、小ぶりの花でまとめられている。
「は、はなたば」
「欲しいって言ってただろ?」
「言ったっけ?!」
「おいおい……まあいいけど」
「えー、花束だ……めっちゃかわいい」
なんだか面食らってしまって、馬鹿みたいなことしか言えない。いいにおい。そういえば言ったような気がする。そうだ、それで来る前に連絡しろって言われたんだ。
「気に入った?」
「うん、ふふ……お花もらっちゃった」
「喜んでもらえてよかったよ」
「ありがと」
礼を言うと、男は驚いた顔をした後、呆れたように笑って肩を竦めた。
「なに?」
「かわいいやつだなって」
「んふふ」
「帰るまで持っとこうか?」
「いい。見せびらかす」
「子供みたいだなあ」
「うるさいな。そこはかわいいって言って」
「かわいいよ。いつもな」
「んふふ」
すっかり上機嫌になった私は、胸のあたりで花束を抱え、歩き出す。この感情が恋かなんてどうでもよかった。これから先、どこへでも、と言う声を思い出す。とにかくこいつと一緒に行きたいと思った。どこまででも。単純だと笑われるだろうか。取り返しがつかなくなると窘められるかもしれない。こうやってぐずぐずに甘やかされて、だめになってしまったとしても、それでも、私は……。