スクランブルド・ミー

 目が覚めた時真っ先に感じたのは、ファンデーションやらなにやらが目の周りにこびりつく不快感だった。シャワーを浴びたい。今何時だろう。ため息を吐きながら、男の胸元に頭を押し付ける。昨日は……酔っぱらって、どうなったんだっけ。断片的な記憶を繋ごうとするも、あまりはっきりとは思い出せない。コンビニで吐いたのは覚えている。それから、こいつに抱き上げられて、そこで寝てしまったような。
 頭がひどく痛む。正真正銘の飲みすぎだ。一人ならままあるが、その状態で迫と会うのは初めてだった。絶対に余計なことを口走ったし、色々と情けない姿を晒したに違いない。そもそも何故私が抱き上げられているんだ。呼び出したのか。頭が痛い。
 とにかく顔を洗いたいと思い、慎重に体を起こす。私を抱きしめて寝たらしい男の、横顔。こうして見ると普通のおっさんなのになあ、とぼんやり見つめていると、その瞼が震え、男が目を開けた。「あ」動くタイミングを逃した私を視界に入れ、男は一度顔を片手で覆った。
「……
「ん」
「こっち」
「え、うわっ」
 存外強い力で腕を引かれ、バランスを崩して倒れ込む。かぶさるように抱きしめるので、息が苦しい。
「ねぼけ……てる?」
「……ん?」
「顔、洗う」
「んー……ちょっと、待って」
 どうしてしまったんだ、この男は。よく考えたら普段は私の方が起きるのが遅く、こいつの寝姿を見ること自体少ない。顔を上げて呼吸を楽にする。なんだか一気に目が覚めたし、動悸も治まらない。
「記憶ある?」
「え? ああ、いや、ところどころ抜けてるけど」
「だよな……」
「なんで?」
「……いや。あー、起きるか」
 何か言われたんだろうか。男が全身に力を入れたために、枕になっている腕が一度硬くなる。それから弛緩するさま。ため息が頭上から聞こえ、ようやく体が解放される。このまま洗いにいってもいいものか悩んでいると、男が頬を撫でるので見上げる。
「腫れちまってる」
「え?」
「目。冷やしときゃ治るかな」
 目。化粧の不快感で気づかなかったが、言われてみれば腫れているような気もする。男の手が頬に落ち着く。
「……ごめん、私、泣いてた?」
「なんだ、そこも覚えてねえのか」
「マジかあ……すみません……」
「なーに謝ってんだよ。泣くことぐらいあんだろ」
「絶対めんどくさかったでしょ」
「おじさんはなあ、そんなことでめんどくさがるほど狭量じゃないんだよ」
「めんどくさがりの権化なのに……?」
「優先順位が人と違うって言ってくれ」
 男は肘をつき、顔を背けてあくびをした。男の言動を振り返ってみて、確かにめんどくさがりではないかもしれない、と思う。私はめんどくさがりだが、人に指摘される機会があったら男の言葉を借りよう。
 再び目が合って、男に頭を撫でられる。会いたかった。唐突に男の声が思い出される。でも、本当に言われたのか、都合のいい夢だか分からない。
「ねえ」
「ん?」
「もしかして、意外と私のこと好きなの?」
「好きでもねえのに迎えにいかねえよ。好きでもねえ男にキスすんのか、お前は」
「いや……え? まあ……そういうことも、なくはない、かもしれないけど」
「はー、やだねえ。これだから若者は」
「利害が一致したらやるでしょ迫だって」
「なんだよ利害の一致って。まだ個性あんの?」
「ない……えっ、私のこと好きなの?!」
 勢いよく体を起こし、男の何度目かのあくびを見る。
「おじさんは馬鹿だから、健気に片想いされてるうちにその気になっちまったんだよ」
「ええ……私も迫のこと好きなんだ……」
「え、誰がどう見てもそうだろ」
 当然のように言っているが、私にとっては当然ではない。私が本気でこいつに恋していたとしたら、話が変わってくる。もしかして、恋。脳内で検索をかけても何もヒットしない。これまでを思い返しても、自分のことなのでよく分からないし、単に気に入っているというだけだと思っていたから、考えたこともなかった。
 考えていると男も体を起こし、大きく伸びをした。
「風呂入ろうぜ」
「え、ああ……」
「そんなに嬉しかったの?」
「うれ……ど、動揺してる」
「マジのやつじゃねえか」
「こっちは真剣なんだよ」
「初恋みたいな反応だな」
「そうだったらどうすんの?」
「まあ、嬉しいかもな」
「まあってなんだよ」
「いや、なんか意外で」
「まさか一緒に風呂入んの?」
「え、今?」
「ていうかなんで急に好きとか言うの?!」
「落ち着け落ち着け。そりゃ言うつもりなかったのに急に聞かれたからだ」
「適当にはぐらかせよ」
「悪い。寝ぼけてた」
「しっかりして」
「老いたな、俺も」
 まさか、本当に寝ぼけていて口を滑らせたのだろうか。そんな間抜けなことをこいつがするとは思えないが、真偽のほどは分からない。男が足を組む。それから不意に思い出したようにポケットを探り、玉を取り出して指を鳴らした。そこから私の鞄が出現し、持っていてくれたのだと気づく。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 中から煙草とライターを取り出し、テーブルに移動させる。鞄を床に置くと男が言った。
「心の準備できてなかった?」
「当たり前でしょ」
「じゃ、そうだなあ。一日あげるから、よく考えな」
 スプリングが軋む音。ちらと目を見ても、騙そうとしているようには見えない。試そうとしているようにも。
「……何を?」
「俺と来るかどうか」
「どこに」
「これから先、どこへでも」
「束縛が激しい」
「意外でもねえだろ」
「いや意外だよ」
「そうかな? 褒め言葉と受け取っとく」
「……それ昨日も言われた? なんだっけ?」
「お、思い出したのか。偉い偉い」
「すぐ子供扱いする」
「子供っぽいとは思ってるぜ。子供だとは思わねえけどな」
 子供っぽい自覚はある。そういう言われ方をしてあからさまに不機嫌になってしまう時点で、どうしようもない。
「てか一日は短くない?」
「気づかなかったの?」
「わざとかよ」
「ピュアだねぇ」
「うるさい」
「時間かけたって、結論は変わらねえよ。そういうもんなの、恋ってのは」
「あんたは私といたいの?」
「そりゃそうさ。じゃなきゃ言わない」
「……私があんたといたいって結論出すと思ってる?」
「思ってるよ」
「じゃあ、今そういうことにしたって一緒じゃん」
「一緒じゃねえな。今のお前は混乱してる。混乱の元凶と話してて、まともに考えられるとは思わねえ」
「考えた結果、もう会いにはこないかもしれない」
「そうなったら、俺も考えるよ」
「何を」
「方法を」
「逃がす気ないじゃん」
「そうなんだよ、困ったことに」
 それは恋なんだろうか。困っているのはこっちだ。自分から聞いたとはいえ、二日酔い真っ只中の朝になんてことを言うんだ、こいつは。
 目元を擦ると崩れた化粧の残骸が指に付着する。汚い。
「迫」
「ん?」
「一旦キスさせて」
「なんだ、一旦って?」
「一旦は一旦でしょ」
「へえ。いいぜ、おいで」
 嘘をつくとかじゃなく、わざと隠すから質が悪いのだ。男は片足をベッドに乗り上げ、こちらに体を向けた。ご丁寧に両腕を広げて私を待っている。一人分の距離がこんなに遠い。私の力が生物にも適用されるものなら、楽だったのに。
 両手で顔を覆い、大きくため息を吐く。
「くやしい」
「え、なにが」
「迫のくせに……」
「なんだそりゃ」
 もう一度息を吐き出し、手をベッドにつく。少しずつ男の方に這っていくが顔は見れない。もしかして本当に初恋? まさか。彼氏がいたことくらいあるし、あいつらを私は好きだった。はずなのに。
 こんなことなら母に見てもらえばよかった。顔を上げ、男の目を見る。男は片手をつき、もう片方の手で私の額を撫でた。
「顔ぼろぼろでしょ」
「化粧崩れてるだけだろ」
「最悪」
「はは、そういう顔してる」
「もっとさいあく……」
 目を閉じる。きちんと、唇が重なる。後頭部に回された手のひらが首に熱を分ける。
 ああ、世界は終わってくれない。あんたのせいで。