半月とロンド

 車を走らせ、昼間から海に向かった。ただ、水着ではしゃぐ学生だとか、波の動きを眺めるために。
 喫煙禁止の立て看板の前に立ち、煙草をくわえる。潮風と太陽が目に痛い。幸い引っ張り出したライターがターボだったので、風が気にならない。遠くから女の子の声が聞こえ、声の主を探して視線を動かす。
 母と話してから既に一週間。ぼんやりしていると、日々はさっさと進んでくれる。長すぎて嫌になることもあるが、こんなに経っていたのかと驚く回数の方が圧倒的に多い。年齢のせいもあるだろう。きっと学生の時なんかはもっと日常の密度が濃く、一日一日がとんでもなく長かった。盗めば大抵のことは解決するので、私は今、期間も決めずにニートライフをエンジョイしている。吐き出した煙が目に染みて、サングラスをすこし上げ、手の甲で瞼を押さえる。
 母は、私がこうして時折思い出すタイプだと知っていて、ああいう言い方をしたのだろう。変に鬱っぽくなったり、引きずってストレスになったりはしないが、本当に時々、心にのしかかってくる。あの話の真実はたぶんその時が来ないと分からない。でも、その時なんて来てほしくない。
 顔を上げる。太陽が反射してきらめく海面。白く細い、波の縁。溶けてしまいそうなほど熱いコンクリート。熱中症になりそうだ。目を細め、まぶしく混ざり気のない情報群に想いを馳せる。
 元々長居する気はなかったが、昨晩の酒が残っているのかしんどくなってきたので、十分かそこらで車に戻った。ここ最近で一番夏らしい日だ。こんな日はビールを飲むしかない。軽く伸びをし、シートベルトを締める。

 最早歩き慣れた道を行く。一人で宅飲みもいいかと思い、映画を借りてきてそれを見ながら二時間弱、ビールを飲み続けた。そこで終わらせておけばいいものを、今日だけで何台乗り換えたか分からないが、車を盗んで、よく行く場所に赴いてしまった。女一人で酒を飲んでいるとやはり目立つ。都心部の繁華街ならともかく、少し外れた駅の個人店だ。
 馬鹿ほど焼酎を飲み、楽になるために二度吐いて今に至る。絶賛酔っ払い中である。むしろよくこの状態で男の家に行こうと思ったなというレベルだ。
 立ち止まり、電柱に手をついて深く呼吸をする。手探りで鞄からペットボトルを取り出して、ゆっくり頭を後ろに倒しながら水を喉に流し込む。歩くのがいけない。もう一回くらい吐いたらだいぶ抜けるだろうが、吐くものもない。胃に何か入れるか。あと少しでコンビニがあることを思い出し、再び歩き始める。
 コンビニで買ったものをドア付近で食べ、そのままコンビニのトイレに吐いた。無駄すぎる。最悪だ。口の中がすっきりするタブレットも買ったのに全部吐いた。だからもう一個買った。今はその大きい粒をごりごりと奥歯で削っている。なんだこれ。水を飲むと冷たすぎて思わず天を仰いでしまった。
 スマホを取り出し、名前の登録がない番号一覧を開く。目当ての数列を見つけ、それをタップする。
『もしもし』
「さこぉ」
『おー、酔ってんな』
「むかえにきてぇ」
『どこにいるんだ、お転婆姫は』
「ろーそん……」
『あー……なるほど。ちょっと待ってな』
「切らないでよお」
『分かった分かった』
 がさがさと音がして、男が着替えようとしているのが分かる。
「おっさんワイヤレスイヤホン持ってないんだっけ」
『持ってねえな』
「んふふ」
『笑うなよ』
 地面に座り込み、電柱に寄り掛かる。私も持っていないし、持っていたとしてもこう毎日酔っぱらっていたんじゃすぐになくすだろう。通り過ぎる人間が私のことをちらちらと見る。
?』
「はぁい」
『着くまでは起きててくれよ』
「寝ないよ、道端で」
『そりゃ偉い』
「ばかにしてる」
『してねーよ。心配してんだ、俺は』
「えらーい。ふふ」
『お前はいつでも元気だな』
 靴の音。ドアと、鍵を閉める音。靴の音。
 こんな酔っ払いのために、こんな時間に、わざわざ着替えてまで、迎えにきてくれる。それをちゃんと嬉しいと思えることに安心する。背負うものくらい選べるのよね。母の声。こいつはきっと、私より大人だから。
 頭に流れる曲が、口から漏れたのが分かる。歩きながら、男は黙って聞いている。たまには私のことだけ考えていて。ラブソングもきらい。私の言葉を代弁してくれやしない。酒で焼けた喉から出る、掠れた声。私がお姫様なら、どうして王子様は来てくれないのだろう。笑い上戸のはずなのに、目の奥が熱い。
『お、見つけた』
 声が重なり、顔を上げる。曲がり角の前、ここから十歩くらい先に男はいた。目を逸らし、電話を切る。あいつの前で泣きたくない。そもそも何が悲しいのか、どうして泣きそうなのかも分からなかった。
 私の下にたどり着いた彼は、目の前にしゃがんだ。
「待たせちまったな」
「……待ってない」
「寂しかった? 俺も」
「うるせーんだよぉ」
 マスカラとアイラインの黒が手のひらに塗られる。俯いた私の頭を男が撫で、それでもう、どうしようもなくなる。思い出されるもの全てに涙が溢れて止まらない。手がうなじのあたりに移動し、もう片方の手が、腕に引っかかっていた鞄の紐を外そうとするのでそれに従う。息を整えることができずに男が鞄を圧縮するところをぼんやりと眺める。玉が男のポケットにしまわれ、そこから順に視線を上げていくと、目が合った。
 滲んだ視界で、男を見つめる。男の指が涙を拭う。腕を伸ばし、男の首に回す。ぶつかるように唇を押し付ける。
 キスひとつで、世界すら終わらせられる気がした。
 ジーンズに路上の雨が染みている。息を分け与えるような長いキスを終え、鼻を啜る。背中を撫でる腕が腰に回り、両足が膝をついた男の足に乗せられ、それから、膝裏を抱えられる。
「よいしょっと」
「おっさん」
「はいはい」
 横抱きにされて、ぐちゃぐちゃの顔を男のシャツに押し当てる。
「なに泣いてんだろ……」
 一度泣いてしまうと、張り詰めていたものが緩んで、何もかもが馬鹿らしく思える。泣いている自分が、一番。
「泣きゃいいさ。理由なんてなくてもな」
「……」
「俺に会いたすぎて泣いちゃった?」
「ふざけんな」
「はは、残念」
「なにが残念だ、うそつき」
「嘘じゃねえ。会いたかったぜ、俺は」
「……あいたかった」
「会いたかったし、会えてよかった。電話来た時だって、元気に酔っ払ってて安心したんだ」
「ふふ……ばかみたい」
「褒め言葉と受け取っとくぜ」
「ほめてねー」
 笑える。ほんとうに、馬鹿みたい。人生が大変なことになったって、こいつを失うような危機が訪れたって、私は乗り越えてみせる。
 月が笑いながら私たちを見ている。私は、先ほどと違い、愉快な気分で歌を口ずさんだ。ラブソングもたまにはいいかも、と思いながら。