あくる日のジオラマ
何日かぶりに戻った自宅には、相変わらず芳香剤の匂いが充満している。梅雨特有の、蒸し暑く不快な空気。そうして、私一人の生活が再開する。
常に一人なのに、あいつの家にいると感覚が麻痺してしまう。一緒に逃げたあの日から、迫と過ごす時間はずっと私を守っている。救われたとは思いたくない。あいつもそんな風には思われたくないだろう。
ひどく静かな部屋の中、私の呼吸だけが隙間を埋めていく。
ジムに行った帰り、コンビニでアイスを買う。何しろ今の私には現金がある。嬉しいので、ひと眠りしてから飲みに行こう。金が足りなくなったらまた盗めばいい。ここ数ヶ月は鍛えているおかげか体が軽いし、今まで大して伸ばしてこなかった、念動力の方の個性を伸ばす訓練にもなる。遠くに見える自転車を試しに引っ張ってみると、想像より簡単に引き寄せられてしまった。立ち止まり、手のひらを見つめる。
幼い頃、母に繰り返し言われたことがある。私たちの持つ個性、透視は、鍛えれば思考すら読めるようになると。ただそれも、調べたところによると素質が大きく関係するようで、遺伝するとも限らず、「そういう個性」として発現することの方が多いようだ。母もそのタイプらしいが、それでもかなりの年月鍛えてようやく表層の考えが読める程度だ。私は残念ながらそこにすら至らなかった。今も……暴走しているのか目の前で情報が爆発することはあるが、コントロールはできない上、いつそれができるかも分からない。母の教えを元にどうでもいい人間で実験してはいるけれど。
一時間の仮眠ののち、久しぶりに家の近くのバーに入った。大抵若者で賑わっているのだが、早い時間ということもあってか客は一人しかおらず、静かだ。
「あっ、エミさん?! 久しぶり!」
「春ちゃん。久しぶり」
「サングラスで分かったよ。相変わらずオシャレだねえ」
「ふふ、ありがとう」
ずっとサングラスをかけていると、どうしても理由を聞かれる機会は出てくる。この間のバーの客もそうだ。個性に関して隠したいことがある人間もいるということを、理解できないのだ。私の場合は顔を隠すためだったり、暴走への対策なので構わないが、身体の一部を何かで覆っている場合、多くは異形系の個性だろう。周りにそれで苦しんでいるやつがいなかったわけじゃない。
春ちゃんは、演劇系の学校に通っているらしい。あっけらかんとした子で、プライベートにも踏み込んでこないので話していて楽だ。数ヶ月ぶりなのに覚えられているとは。分かりやすい特徴は厄介だ。
「ボトルあるけど、ロックでいい?」
「宝山だっけ?」
「うん」
「じゃあ、それで。春ちゃんも飲んで」
「やったぁ! 本日一杯目、いただきまーす」
奥からオーナーが出てきたので、会釈をする。大体、あの店は立地的に訳ありもいるだろうに、初対面でいきなりサングラスのことを聞くなんて。幸せ者と言っておくか。
ロックグラスが置かれ、それを持ち上げると春ちゃんはそこに彼女のグラスを当てた。
「にしても久しぶりですねぇ。忙しかったの?」
「うん、まあね。元気にしてた?」
「元気元気! そーだ、ちょうどおみやげ持ってきたから、よければ」
春ちゃんが屈み、カウンターの下の棚から箱を取って差し出してくる。饅頭だ。それを一つ手に取り、礼を言って袋を開ける。
「どこ行ってきたの?」
「名古屋!」
「名古屋かあ。おいしいものいっぱいあるよね」
「そうそう。でもおみやげは無難なやつにしちゃった」
「いいんじゃない」
人のためにおみやげを選ぶだけ、いいんじゃない。そんなこともう何年もしていない。下手をすれば十年以上。薄皮から餡が零れ、口の中でばらばらに溶けていく。そもそも旅行に行かないからな、と言い訳をし、母への手土産を決めなければいけないことを思い出す。あの人は子供みたいなところがあるから、誕生日ならそのための贈り物が必要だ。
「そういえばね、泊まってたホテルで騒ぎがあったの」
「え?」
「ニュースにもなってた。なんか、電気系統がやられたとかでさ……たまたまヒーローが近くでパトってたから、おおごとにはなんなかったんだけどね」
「ふうん……大丈夫だった?」
「あたしはぜんぜん! チェックアウトするタイミングだったから。でも、電気使えなくなってたらしいよ」
「怪我がないならよかった。最近多いね、個性犯罪」
「ねー。あれもだ、結構前だっけ、中学生の子が友達を刺したとかって」
「ああ、あったね。血に関係する個性だったって見た気がする」
「痛いのやだなぁ。まあ、何があってもオールマイトがいるし、大丈夫だと思うけど」
のんきに酒を呷る春ちゃんに苦笑し、テレビ画面で流れる洋画に目をやる。時間を気にしないでほしいという名目でいつも何かしらの映画が流れているが、たぶん単にオーナーの趣味だろう。ヒーローが台頭する前の古い映画も多い。コーヒーを前に葉巻を吸う主人公を見て、煙草の存在を思い出してしまった。
オーナーや春ちゃんに同じだけ飲ませ、店を出る。雨が降っているが、家までなら大して濡れないだろうという程度なので、構わず歩き出す。
ヒーローを多く輩出している名門、雄英高校の教師になった、No.1ヒーローオールマイト。強い憧れを抱いていたわけではないが、やはりあれはヒーローの中のヒーローだ。太陽と言って差し支えないだろう。時に人を焼き殺してしまう、灼熱の星。近づいてはいけない。許されない。私など、視界に入る前に炭になってしまうだろう。
このままこの生活を続けていたら、私もヴィランと呼ばれることになるのだろうか。小さい窃盗で捕まるのだけは勘弁だな、と思う。それならいっそ、大がかりな盗みをしたい。あいつと一緒に。
▽
数日後、誕生日プレゼントを持って実家に向かった。一人暮らしの女にホールケーキなどをあげるわけにもいかず、とはいえ残るものはあげつくしたので、高級なお菓子の詰め合わせだ。本当にさっさと男でも女でも作って私から離れてほしい。いや、あの女と付き合うなんてきっと苦行だろうし、だから父が死んでから一度も特定の相手を作らなかったのだろう。まあ単に母自身にそのエネルギーがなかったのかもしれないけれど。
母は、私と会う時は個性を使用しないよう意識しているらしい。迫のように使う時と使わない時を明確に分けられる個性ではなく、母も私も、常に垂れ流しになっている退屈な映像から目を背けられないのだ。だから私はサングラスをしているし、母は抑えられるように特訓して私には使わないよう努力している。私も母ほどの力がついたら、そうしなければならないのだろう。
「おかえり、」
「ただいま。はい、誕プレ」
「ええっちょっとはこう、セッティングしようとか思わないの?!」
「うるせえなあ。なんで毎年毎年凝らなきゃいけないんだよ」
「ママはね、何歳になっても乙女なの。あなたもそう! 覚えておいて!」
「はー、愉快な女」
「誕生日くらい祝ってほしいのよ! 一年に一度よ?! が忙しいのは分かってるから、よっぽど譲歩してるのに!」
「災難だな、父さんは」
「言い方ってもんがあるでしょ!」
別に私は忙しいのではないが、自由を満喫するのに"忙しい"ということにしている。何歳になっても乙女な母親にかまけている暇はないのだ。
無視してリビングに行くと、例年通り大きな花束が生けてあった。向日葵を中心に黄緑の小花などでまとめられているが、誕生日にもらったのか、既にあまり元気がない。一応連絡した時間に着いたので、紅茶のポットとカップがテーブルに並べられている。鞄を椅子に置き、その隣に腰掛ける。
「愛しい我が子は何を買ってきてくれたの? まあ! ミュレのお菓子詰め合わせ?!」
ここは舞台ではない。
「ありがとう、! これでママはぐっすり眠れるわ」
「どういたしまして……」
紅茶をカップに注ぎながら、小声で答える。そんなものがなくともちゃんと眠れるくせに。
母が内情を知らないのをいいことにのらりくらりと会話をし、数十分後。ちょうど一杯飲み終わったので、電源のついていない大きな画面を見る。母は何を考えているのか、立て続けに質問をするのをやめ、頬杖をついた。
「にさ、話したっけ。ママね、我慢できなくてを占ったことがあるの」
「え……」
母の占いは、基本的には透視を使っているので、相手の言われたい言葉を選んでいるだけのインチキなものだ。だが、占いの力は本物らしい。自己申告なので信用していなかったのだけれど、普段と違う神妙な口ぶりに、心臓が跳ねる。
母はたっぷりの間の後、続けた。
「特別な占いをすると、翌日熱が出るの。よく知ってるでしょ。パパがむこうにいってしまってからは、あなたのこともあるから極力断っていたのよ」
「それは……前に聞いた」
「それから、あなたとパパのことは占いたくなかった。分かる?」
「まあ」
「でもね……パパがいなくなってしばらくして……ああ、私は一生一人なのかもしれないって、思った。実感したのよ」
穏やかな表情のまま、母は言葉を紡いでいく。この人にとってそれは、終わったことなのだ。ただの思い出。純粋な記憶。揺れ動いていたあの頃、のこと。
「には何も背負わせたくなかった。私の存在が重荷にならないように、話さなかったんだと思う。でも今日あなたを見て……もう大人なんだ、って。背負うものくらい、自分で選べるのよね。だから話すわ」
「……何を占ったの?」
母は笑う。少女のように。向日葵のように。いつまでも、愛する人に寄り添うために。目が合って、私はそれに畏れを抱く。
「あなたの人生は、これから大変なことになる。愛する人を失うかもしれない、そんな危機を何度も迎える運命にあるの。覚悟を決めた方がいいわ。あなたにとっては悲しいことだと思うけれど、ママとよく似てる。違うのは……危機の大きさと、回数。いい? 」
「……」
「あなたはパパの誠実さとママの自由な精神を、どちらも受け継いでくれてるでしょう。きちんと忘れることのできる子よ。こんな話しておいて何だって思うかもしれないけれど、ただの占いだって割り切ってくれていいの。でも、覚悟を決めるタイミングは早い方がいい」
「死ぬの?」
口をついて出た言葉に、私自身少しだけ動揺する。考えないようにしていても、誰を指して言ったのか、自分が一番よく分かっていたから。
「分からない。あなた次第かもしれないし、その人次第かもしれない。あれから何年も経ってるから、既に多かれ少なかれ運命は変わっているはず。だから……もしかしたら、覚悟なんて決めなくてもいいのかもしれない」
「……そう」
「無責任なこと言うわね。きっと大丈夫よ。はママとパパの子なんだから、絶対幸せになるわ」
「あはは……無責任だ」
「あなたが望むなら、いくらでも見てあげる。でも、そんなことしなくたって平気よ」
「母さんと父さんの子だから?」
「そう!」
つい、笑いが漏れる。血の繋がりを感じざるを得ない適当さだ。私は父についてほとんど知らないが、父とも似ているのだろう。何せ個性を半分ずつもらっているのだ、見た目だってなんだって、もらっているに違いない。
「それから、いい人がいるなら会わせてね」
「いないよ、そんなの」
「あら、不誠実! その人に心の中で謝っときなさい」
ごめんごめん。繰り返すなと言われてしまうかもしれない。あいつも、私によく似ている。
一杯で帰るつもりが、妙な話をされたので遅くなってしまった。まあ特に用事はないので全く構わないけれど。
ドアを開け、ぬるい空気を浴びる。
「元気でね」
振り返ると、母がなんの曇りもない笑みを浮かべて私を見ていた。
「母さんもね」
「もちろん!」
手を振り、母の視線を感じながら、私はそこを後にした。テレビに出ているような有名なヒーローだとかタレントにも名前を知られているらしい、大物占い師の占い。空は暗くなっていて、今日は酒を飲まずに帰ろうと思う。私にはまだ、一人の時間が必要だ。