こぼれるオリーブ
洗濯ものを取りこんで室内に戻り、窓を閉める。天気予報では夕方から降るかもしれないと言っていたが、空を見る限り降りそうにない。とはいえ朝と比べれば雲も出てきているので夜は降るのかもしれない。最後に取りこんだものを同じようにソファーに重ね、コーヒーを淹れるためにキッチンへ。
厄介なことだ。あれから一週間ほど経ったが、コスティが何やらゼタと仲良くしている。それだけならもちろん何とも思わない。問題は先ほど受信したメールにあった。どう考えてもゼタの差し金で、文面も今までのように幼いものではなかった。こげ茶色の液体がぽたぽたと垂れていく様子を眺めながら、そういえば音楽をかけていなかった、と思い出す。どう断れば穏便に済むだろう。
温い風は少し湿気ているような気がする。この時期に雨が降るなんて、と思う。随分久しぶりだ。
市場は今日も賑わっている。ここにいると食べ物の匂いで食欲が刺激される。夜は外食か、家で作るにしても軽いものになりがちだが、気が向いた時は市場を覗く。人を避けながら食材の数々を見ていると、空腹のせいもあり判断力が鈍るようだ。家にトマトがあったはずだから、それとメインになりそうなもの。飛び交う声の中に目当ての料理があって、見ていたのとは反対側に移動する。
「おじさん、ムサカ一つ」
「すぐ食べる?」
「いえ」
「じゃトマトもどうだ?」
「残念だけど、家にあるの」
「そうかい。はい、二百ジェニー」
「はい。ありがとう」
「まいど!」
財布を鞄にしまい、受け取った紙袋を手に歩き出す。これだけでもいいが何か買おうか。遠いからなかなか来る気にならないし、もう少し雰囲気だけでも味わってから帰りたい。六時か。前に向き直る。
「おや?」
と、後ろから声をかけられて振り向いた。シーマさん、と呟く。懐かしい顔だ。何年ぶりだろう。いや、去年店に行った覚えがあるから二年は経っていないか。
「久しぶりだね。夕飯かい」
「ええ。シーマさんも?」
「娘に付き合わされただけ。あそこにいる」
「お疲れ様です」
「あんたはいつ見ても変わらないね。最近どうだい? 仕事の方は」
「おかげ様で特に問題もなく。そちらは?」
「こっちも変わらず。今年に入ってからバイトの子が増えたくらいよ」
「よかったですね」
「ゼタとはうまくやってる?」
「まあ、彼女も変わってませんから」
「またちょっかい出されてるんじゃないのかい」
「それは、まあ……」
「今度店においで」
「ええ。また」
シーマさんは娘の方に歩いていく。それを見送り、もう帰るかと思い市場を抜けるために来た道を引き返す。確かにゼタは昔から私含め周りの人間にちょっかいを出しては楽しんでいた。一緒にバイトしていた時から七年ほど経ち、さすがに落ち着いてはきたものの根本は変わらない。そんなに楽しいならいっそコスティと付き合えばいいのに、なんて思ってしまう。仕事に支障を来すことはないから別に構わないけれど、まあ一人でいる時まで後輩のことを考えていたくはない。
帰り道は暗く、空を見上げても雲があるかどうか分からない。けれど星が見えないということは雲で覆われているのだろう。さっさと帰って昨日買った小説の続きを読みたい。それにどうせ明日会うのだから早めにメールの返事もしなければならない。……気が重い。
部屋着に着替え、今度は忘れずにCDをかける。ムサカを温めている間に一つだけ残っていたトマトを切り、今朝のサラダの残りに乗せる。オリーブオイルがそろそろなくなりそうだ。レンジが終わりを告げた。
要するに夕飯の誘いである。CDがバラードに移ったタイミングで思考を目の前の食事から切り替える。前に断った時はお詫びという名目があったから断り文句も考えやすかったが、今回は完全にプライベートだ。一度くらい付き合ってあげてもいいか、という気もする。しかしそれでゼタが楽しむのも面白くないし、何よりコスティが変な勘違いを起こしやしないかと心配になるのだ。告白されたわけでもないのでこちらからその気はないと言うのもおかしい。距離を置きたい、でもはっきり言うことで傷つかれると仕事がしづらい。トマトが崩れてフォークから零れる。小さく息を吐く。そういえばおみやげに地ビールをもらったんだった。
彼は仕事を楽しんでいるだろうか。ふと遠くにいるはずの男の姿を思い出す。名前しか知らない彼のこと。なんとなくあの喫茶店には寄らないまま一週間が過ぎてしまった。そもそも仕事が終わると買い物をしたり友達と食事をしたりで、そちらに気が向かなかったのだ。誰かに言い訳をする。おいしいけれど思ったよりも苦いし、重いビールだ。瓶を持ち、残りをグラスに注ぐ。
私は彼に会いたいのだろうか。会ってどうしたいのだろう。……でも、あの笑顔を見ることができたら。できたら……分かるのだろうか。
音楽の切れ目に、雨の音が降る。