不安ばっかりおかわり自由
「しばらく来れないんだよね」
席につくと彼はまずそう言った。何を返せばいいのか分からずにいると彼の手がアイスコーヒーに伸びる。結露が滴り、トレーと机上に足跡をつけた。
「仕事で海外行かなきゃなんだ」
「大変ですね」
「人使いの荒い上司でさ」
「お仕事、何をされているんですか?」
「なんだと思う?」
「……美容師?」
「美容師って仕事で海外に飛ばされるの?」
「さあ」
結局何の仕事をしているのか分からないまま会話が終わるが、言わなかったということは言いたくないのだろう。しかし海外まで行かなければならないとは、絶対に働きたくない職場である。人使いの荒い上司という言葉で終わらせられるのは、彼が寛大だからなのか、それとも慣れているだけなのか。
冷めてしまったコーヒーが濁りを残して通っていく。おかわりをいただこうかと考えていると男の視線を感じ顔を上げる。目が合う。そして、端正な顔が爽やかに咲く。思わずそれに見とれてしまうが、近くの席に人が座る気配で我に返った。その様子を彼はおかしそうに見ている。
「なに?」
「いえ、じろじろと見てしまって……すみません」
「別にいいよ。最初に見てたの俺の方だし」
「……しばらくとは、どのくらいの期間なんですか?」
「そうだなー、二週間ぐらい? 俺も行ってみないと分かんないんだよね」
「期間も分からずに海外へ?」
「楽しいよ」
「そうですか……」
変な人だ。たぶん元々アクティブなタイプなのだろう。だからこうやって私と長々話すこともできる。まだ十分ほどしか経っていないけれど。
「君は? 仕事」
「IT関係です」
「へえ。プログラムとか」
「できないことはないですが、専門ではないです」
「会社このへんなの?」
「まあ、徒歩圏内ですね」
「そうなんだ」
ようやく彼が私から視線を外し、ずっと手にしていたアイスコーヒーを氷ごと飲み干した。氷をかみ砕く音がする。どうして向こうが答えなかったことを私は律儀に答えているのだろう。知られても困ることはないだろうけれど。そこで店員が声をかけてきたので、おかわりを注文する。
腕時計を見れば午後四時。さすがに夕食をとるには早すぎる。ここまで来て彼の誘いを断るのも何だが、しかしこれから夕食の時間まで何をするべきなのか分からない。
少しの間沈黙が広がった。彼はグラスの底に残った水分を揺らしている。気まずいと思っている様子はない。
「あの、夕飯の件ですが」
「うん」
「……それまでどうしましょう」
「君の希望は?」
「特には」
「君、ここで会う時結構このくらいの時間にいるよね。その後何してるの?」
「ええと、買い物をしたり、映画を見たり……家に帰ることが多いですけど」
そこでコーヒーが運ばれてきた。彼は頬杖をつきその様子を見ている。それにしても我ながら面白くない生活だ。店員が去っていくと同時に彼の視線と笑顔が向けられて、直感する。私はこの人がこれから言うことをきっと受け入れる。
「じゃあ映画見よう」
「……お好きなんですか?」
「普通。詳しくないから、どんなのがいいか教えてよ」
「私もサスペンスものくらいしか見ないので、そんなに詳しいわけではないんです」
「サスペンス? そういうの好きなの?」
「まあ、それなりに」
「今何かやってるのかな」
「やってますよ。あまりおすすめはしませんが」
「見たの?」
「はい」
「えー、話分かってるんじゃつまんないな。ちょっと待って、調べるから」
「あ、はい。ありがとうございます」
彼がスマホを取り出したので、なんとなく私も手に取る。なんだか映画を見ることになってしまったけれどいいのだろうか。何度も顔は見たしフレンドリーすぎて忘れそうになるが、この人と話すのは初めてなのだ。スマホの通知を全て消す。……どうしよう。この人一体、何が目的なんだろう。
「一番近いの、駅前だよね」
「そうですね」
「ファンタジーとアクションならどっち?」
「……ファンタジーですかね?」
「五時の回だな。それ飲んだら行こうか」
「分かりました」
口をつけたカップの中の黒い液体は、いつもより苦い。目的なんて普通のナンパなら大抵一夜を共にすることだろう。それかただの暇つぶしか。彼はきっと前者ではない。しかしそれなら暇つぶしなのだろうか。……違うような、違ってほしいような、独特の不安にため息を吐く。