かつて見たもの
あの時、俺は着飾った彼女の姿を見て、言ってしまいそうになった。すんでのところで抑えたものの、もしかしたら聡い少女には気づかれていたかもしれない。どうかしましたか、と静かに問う声に含まれる感情を知る術はなく、またその必要もなかった。一瞬の夢から意識を戻し、彼女の問いにいいえと返す。
俺は死ぬまで、という小さな箱庭から逃れられない。
受話器を置き、背もたれに体を預ける。二時半か。帰る時間を言わなかったということは今日は夕飯を作らなくてよさそうだ。午後五時までに連絡がなければ、ということになっている。
主と自分の間には様々なルールがあった。それは向こうが最初に提示してきたものであったり、共に過ごすうちに増えていったものだったり。初めこそ窮屈に感じていたが、一度ならルールを破ってしまったとしてもあの少女は逆上したりしないし、一人の時間はむしろ一般の使用人よりも多く与えられているだろう。それに、ルールがしっかりしていた方が何かと便利だ。
印刷機から吐き出された紙を取る。改めて文面に目をやり、主からのものとして不備がないか確認する。まあ本より先方は主自身が返事を書くとは微塵も思っていないだろうが。紙を台紙に貼り付け、真ん中の線で折り畳む。それを封筒に入れて糊付けし、切手を貼れば作業は完了だ。後は出しに行くだけ。
先日、テオファニスという男が死んだ。家と交流のあったデュカキス家の嫡男で、どうやら主を気に入っていたようだ。ここに来て色々と文句のようなことを述べては主を困らせていた印象がある。あの少女はほとんど話を聞いていなかったようにも思うけれど、迷惑がっていたのは事実だろう。はっきりしているのは、テオファニスは俺を嫌っていて俺も同じだったということ。
主との決め事の中に、「余計な詮索をするな」というものがある。言われずとも雇い主にそんなことをするつもりはないのだが、テオファニスの詮索で辟易したのか、昔それを言ってきた。ある程度は答えるつもりでいますけど、という言葉は本心だったのか分からない。ただ、あの人はあまり嘘を吐くことを好まないので、たぶん本当のことだ。少なくとも本人は本心だと思っている。
その時、心で思うのは自由だとも言われた。なので普段は好きに考えさせてもらっているのだが、目下の疑問は最近現れる男のことである。
「お答えしましょう」
「……と仰いますと」
「あなたが疑問に思っているであろうことについてです」
「お気遣い感謝します」
「あれはヒソカさんという人です。人を殺します。なので、あまりあなたは近寄らないでください」
「かしこまりました」
「服を台無しにした日に出会いました」
「左様でございますか」
「ふふ。アレクの天敵ですね」
「……お気をつけてくださいませ」
「はい、できる限り」
名前は知っている。食の好みもなんとなく把握した。いつもあの様相ではないとこの間知ったし、するとまるで主に恋人が出来たように見えてしまうことも理解した。……それはいい。人を殺すということも聞いてはいる。しかし、素性が分からないのだ。主は仕事の都合で得体の知れない人間と接することがあるが、それは個人的なものでないからこちらも何も思わないで済む。ヒソカさんというのとどういう関係なのかは知らないけれど、依頼が来ていないということは個人的な関係であるということだ。これまでにそういう人間はいなかった。主の見る目を疑っているわけではない。ただ、あの少女は少しばかり世間知らずなのだ。主のためにならないと判断したらそれを伝えなければならない。
主の部屋のドア付近には細かい傷がついている。俺がそのことに気づいてすぐに、主は説明した。
「ごめんなさい。ヒソカさんです」
「気になるようでしたら、塞いでしまいますが」
「いえ、構いません。またそのようなことになるかもしれませんし」
「かしこまりました」
天敵という言葉は確かに正しい。今のところ、使用人の立場から見てヒソカさんは仕事を増やすだけの存在だ。料理も二人分用意しなくてはならないし、いついるのか分からないので毎度部屋に入ってから後悔する。仕事だから仕方ないとは言え、主と素性の知れない男が同じベッドにいるところを見たくはない。
そろそろ洗濯が終わっている頃か、と思い立ち上がる。郵便物もあることだし、干したら街まで出なければ。主の知り合いの素性など考えても仕方のないことだ。そこでふと思い出す。あの人が言ったこと。彼が帰った後、呟いたことを。
「嘘ばっかり」
嘘を嫌う彼女の目に映った男。……素性なんてどうでもいいのだ。