響く鈍痛を紅茶に浮かべて
大きい背中はしかし実際に大きいというよりは、あの時男が纏っていた雰囲気による錯覚だと考えた方がいいだろう。私の目に焼き付いている背中は、その後何度か見たものとの印象が違う。凄まじい殺気だった、まさか私が驚くほどの殺気を持つ人間がいるなんてと思ってしまうほどに。
私が惹かれたのはまずその空気、それから背中、血の滴る腕、そして惨状を作り出した理由がきっと仕事や私怨ではないという点。
「私のターゲットでした」
その光景を目にして最初に出てきた言葉はそんな間抜けなものだった。男はこちらを見て不気味とも思える笑みを浮かべ、喉を鳴らすようにして笑い声を上げた。
「残念」
たぶん、私は呆然としていたのだろう。慣れない出来事だった。というか、今までの人生でターゲットを殺されたのはあの一度きりなのだから、やはり状況がおかしかったのだ。そしてあまりに大きすぎる存在。ともかくいつもよく回る口も馬鹿になるくらいには思考停止していた私を、何かが襲った。一瞬遅れて風を切る音。しかし体に衝撃はない。足元のものか、風圧で血液が靴にはねていた。
「困りました」
「奇遇だね。僕もだよ」
血液の循環する音さえ聞こえるような気がした。目が合った瞬間どくんと大きく脈打った心臓は正しい。
しかしその時生き残りが現れた。つまり邪魔が入ったのだ。それらを片づけた時にはお互いに興が削がれた状態で、ただため息が出たのだった。
「私、と言います。=。一応殺しを生業としている者です。あなたは?」
「ヒソカ。通りすがりの奇術師さ。よろしく、」
「ええ。今度、ぜひ家に来てください」
車に戻った時、アレクが私を見て顔面蒼白になったのには笑ってしまった。あの男は自分で思っているよりも顔や態度に出る。テンションが上がってしまったことを反省してはいるが、そもそも戦うということをしない人間にあの興奮は理解できないだろう。だからそんなに怒らなくてもいいのに、と思うのだ。
次に彼が来るのはいつなのだろう。見送った背中を思い出す。私は彼の連絡先を知らない。私の名刺を渡してあるが、彼の方から連絡が来たこともない。ああやって気まぐれにここを訪れるだけだ。少しだけ寂しい。
「お嬢様」
考えていると部屋のドアが開きアレクが顔を覗かせる。私が閉じていた目をゆっくり開けたのを見て、男はこちらに歩いてきた。
「本日午後七時頃、デュカキス家のご子息が参られるそうです」
「あら、急ですね」
「どうやら急を要する依頼らしく」
「電話で済ませればよかったのではないですか?」
「それがお嬢様の顔が見たいと」
「相変わらずですね。私は構いませんよ」
「それでは私は仕度をして参ります」
「よろしくお願いします」
面倒なことになった。一体何年ぶりだろう。依頼らしい依頼をしてきたことのないあの人のことだ、きっと今回もあくびの出るくらい簡単な仕事を持ってくるのだろうけれど、何と言ってもあれと食事をするのは楽しくない。しかしまあ、仕事のない今富豪からの依頼は素直にありがたいので、文句は言えない。
たまにこうやって直接依頼をしに来る人間がいる。デュカキスは別だが、私自身の実力を見せろと言ってきたり、盗聴の恐れがあるので電話は、だったり。この屋敷が盗聴されていない保障はないのだけれど。
久しぶりに会った知り合いが変わっていなかったことを私はどう受け止めるべきなのだろう。仕事に関係のない話を全て聞き流していると、アレクがそれに気づいて助け舟を出してくれた。
「デュカキス様、ご依頼の件は」
「ああ。急ぎなんだ、の娘」
「そのようですね」
その呼び方はやめろと何度か伝えた覚えがある。頭の悪い男だ。それからその男が話したのはやはり簡単すぎる依頼だった。
「少々お待ちください」
ターゲットの参加する式典について調べると言って、アレクが席を外す。それを見送るとすぐに男が言った。
「お前まだあれを置いてるのか。優秀な護衛くらい僕がいくらでもやるのに」
「私に護衛は必要ありません」
「じゃ使用人でいいさ」
「アレクの何がそんなに気に入らないのですか?」
「だっておかしいだろう。が」
男はそこで口をつぐむ。視線を彷徨わせた後小さくため息を吐いた。
「それに僕は心配してるんだ、お前が強いのは知ってるが、一般人と二人で暮らしているなんて」
「あなたに私の強さが分かるとは思えませんが」
「お前最近有名になってきてるんだぞ」
「仕事が増えるのはいいことです」
「あ! そういえばの、あの奇術師と知り合いなんだって?」
「奇術師?」
「快楽殺人鬼さ。あれがこのあたりうろついてたって噂が出回ってる」
アレクはまだ戻ってこない。いっそこの男を帰らせることができればいいんだが。冷めた紅茶が喉に引っかかる。会話を終わらせようとしている意志が伝わらない、そして余計な詮索ばかりしてくる。これほど厄介な知り合いがいるだろうか。
名前も忘れたがこのデュカキス家の子供は、どうやら私を気に入っているらしかった。それは幼少期からのことで、つまり幼馴染ということになる。向こうの親は私を嫌っているのに何故こうして依頼を持ってくるのだろうか。仕事の腕は認められているということなのか、他に回すべきものをこの男が勝手に流しているのか。
「聞いてるのか」
「聞いてほしいのですか?」
「そりゃそうだろう。忠告だ」
「忠告? 本当にあなた、優しいんですね」
「お待たせいたしました」
タイミングよくアレクが資料らしきものを持って現れる。男は分かりやすく腹立たしいという顔をするが、アレクは気にすることなく資料を私に差し出した。さっと会場の広さなどを確認しつつ、頭の中にイメージを構築する。
「全員ですか?」
「それが効率いいだろうな。どれが誰か確認しなくていいし」
「それは効率がいいのではなく、思考停止ですよ。私が聞いているのは正確なターゲット数です」
「細かいなあお前。そこにマフィアが何組か来ると思うんだけど、トップを潰すのが目的」
「何組ですか?」
「父上が知ってる範囲では三組。増減するかもしれない」
「アレク、どうしますか」
「その程度なら受けていただいてよろしいかと。報酬も弾むとのことですので」
「そうですね。じゃあいつも通り前払いでお願いします」
「ああ、よかった。ありがとう」
それにしても急な話だ。式典は明後日。私のところに来たということは適当な殺し屋が見つからなかったのだろう。知らないけれど。
男はそれから夕飯を食べて帰っていった。せっかく彼が久しぶりに来てくれた日なのにあれのせいで気分が上書きされてしまった。一人、部屋の中で背伸びする。忠告だなんて本当に、どの口が言うのだろう。
奇術師。快楽殺人鬼か。あの人はそれなりに有名らしい。口元が緩むのに気づいて私はティーカップを持ち上げた。