不器用なのね
べっとりと血がついた手のひらを畏怖したのは、目の前の事実のせいではない。これから起こるであろう出来事のせいでも、ない。けれど、それなら私は何が怖かったのだろう。
「」
静かな声が私を諭すように響く、しかし本当は感情など込められていなかったことを知っている。知りたくなかった。何も。
「」
目を開ければそこにはいつもより幾分優しげな男の顔。その手は私の頬を撫でている。顔にかかっていた髪を耳の後ろに流すようにするので、くすぐったさに思わず笑う。時々爪が肌にひっかかるが、それさえも。ベッド際の時計に目をやるともうすぐアレクが起こしにくる時間だと分かる。もう一度目の前の男に視線を戻すと笑顔を見せた。
「うなされてたみたいだけど」
「そうですか?」
「うん」
「それで起こしてくれたんですね」
「そうだよ」
「ふふ。あなたは」
おかしい人だ。それを飲み込み、ただ笑う。人の気配が近づいてくるのに気づき、私は体を起こした。男はまだ私の髪をいじっている。そちらを見ると肘をついて何か楽しそうにしていて不思議に思った。まあ、楽しそうだなんて気のせいなのだろうけれど。
アレクが部屋に入ってくると少しだけ呼吸を止めたように見えた。口が動く。それから何も発することなく窓際に行き、カーテンをきっちり端で留める。
「おはようございます、お嬢様」
「はい、おはようございます」
「朝食は二人分でよろしいでしょうか」
「ええ、お願いします」
「お客様、何か苦手なものはございますか」
「甘いものが好きだなあ」
「善処いたします」
「ヒソカさん、駄目ですよ。好き嫌いはいけません」
「はいはい、分かったよ」
「ということなので、アレク」
「かしこまりました」
綺麗な礼をこちらに向け、彼は去っていく。それを見送り私はベッドを降りた。
一度席を外しただけで顔面が元に戻っていて、さすがに驚いた。すごい、と言葉にすると彼はいつもの笑みを浮かべる。この人のことは常に監視していなければならないのだろうか。例えば捕まえるには。
「僕を見ていてくれたんじゃないのかい?」
「いいえ。見ていた方がよかったですか?」
「寂しいな」
「なら見ていてあげてもいいですよ」
数秒、沈黙の中で目が合う。瞬きが一つ。彼が肩をすくめた。それと同時にアレクが入ってきてすぐに室内が食べ物の匂いで満たされ、空腹感を覚える。一瞬緊張感の名残が漂ったがそれもアレクの前では意味をなさない。こういうところだ。私はアレクを必要としているのだと思える。アレクは自分を見つめる主人に、何か用件でもあるのかと動きを止める。微笑んでテーブルに戻るとそれは再開された。
セットを終えた彼に自室に戻るよう伝えると、御用の際は云々といういつもの文句を並べてから戻っていった。そこから目の前の男に視線を移せば興味なさそうに皿を見ている。笑ってしまう。本当に子供らしい男だ。
「君はこういうものを食べるんだね」
「ヒソカさんは食べないんですか」
「そうだねえ」
「残さないでくださいね」
「どうして?」
「アレクの作ったものだからです。そしてあなたはお客様でしょう。残したとあっては支配人の顔に泥がつきます」
「じゃあ君の能力を教えてくれよ」
「フェアじゃありませんね。躾けなければなりませんか?」
「躾けね。君の躾けは興味があるな」
「いいでしょう。あなたが私のものになるのなら、いくらでも」
「おいしいかい?」
「ええ。いかがですか?」
「くっくっ、君は本当にいいね、。いただくよ」
ヒソカさんの指がフォークを掴み、サラダをつつく。見慣れない関節の太さに一瞬戸惑ってしまう。何度も見ているのに。何度も触れられているのに。まだ観察し足りないらしい。
口に運んだ野菜の味がいつもより濃くて、シェフの動揺を知る。