だってそこには何もない

 シャワーを借りると言って部屋を出て行った彼がなかなか帰ってこない。耳を澄ますが何も聞こえず、屋敷はいつも通り静寂に包まれていた。カーテンの隙間から光がこぼれてくる。
 アレクの身を案じている自分に驚いた。やはり近くにいた人間が死ぬというのは私にとってよくないことなのだ。昔とは違う。無事だと分かってはいたが、ベッドに横たえていた体を起こし部屋を出る。殺す価値。人を殺すのがいけないことだという常識の通用する人間はここにはいない。いけないからやるのではない。仕事であったり、快楽のためであったり。
 階段を下りる。そこでまだ彼の気配がシャワールームにあることを把握する。階段下の大きな時計がその中心で訴えているのはそろそろ五時になるという事実。アレクはもう寝ているだろう。迷いなく彼の元へ歩く。

「ヒソカさん」

 中に向かって声をかけると水音が止まる。考えてみたら彼がここでシャワーを浴びるのは初めてのことだし、私はこの人の普段の使用時間を知らない。しかし長く戻ってこなかったのはシャワーの前に屋敷内を散策していたせいだ。
 数分待っているとドアが開いて、髪を下ろした彼が出てきた。メイクもしていない。凶悪な顔だ、と思う。私の姿を認めると満足気に笑った。

「なんだい
「いえ、なかなか戻ってこないので、死んでいるのかと」
「残念。無事だよ、彼は」
「でもあなた、一度彼の様子を確認したでしょう」
「なんだ、ばれてた?」
「私の目は誤魔化せませんよ。とにかく、ふやける前に出てきたらどうですか?」
「くっく、分かったよ、お姫様」

 念の為アレクの近くに目を置いておいてよかった。それさえなければこの男がアレクを見に行ったことは分からなかったし、何も知らないままこうして姿を現すことになっていただろう。情報量は会話の質を左右する。殺しと同じだ。
 素の顔面のまま歩く彼を振り向く。目が合うと口の端を上げ、首を傾げた。

「朝食はどうしますか?」
「これから寝るんじゃないのかい?」
「私はそうしますけど」
「それに、シェフはまだ起きない。だろう?」
「ええ」

「はい?」
「シェフにばかり目を向けているようだと、客に食べられるよ」
「あら、面白い話ですね。どこの童話ですか?」
「食えない支配人だなあ」
「それはこちらのセリフです、お客様」

 二人分の靴音が静かな廊下に響く。部屋に着くと彼に後頭部を触られた。指はそのまま髪の毛をするりと通る。がちゃん、とドアの閉まる音がする。無視するのももったいないかと思いつつ、私は歩みを止めず、窓際に向かう。カーテンを開けると一気に部屋が明るくなった。それから振り向けばやはり熱を持て余しているらしい表情。なるほど。しかしそれでアレクを狙ったのなら筋違いだ。私はあれのために本気を出したりしないし、復讐もしない。

「やっぱり君の匂いは落ち着くな」
「ありがとうございます。それにしては期間が空きましたね」
「ちょっと遠くの方にいたからさ。寂しかった?」
「ええ、もちろん。あなたのいない日々は退屈です」
「素直だね」
「嘘を吐くのは苦手ですので」
「じゃ、目を誤魔化せないっていうのは、言い間違い?」
「いいえ。そのままの意味ですよ」
「君の能力は目に関係するんだ」
「その通りです」

 彼の唇が髪に触れる。目はそらされない。お互いに何も知らないと言うとフェアかもしれないが、私の方は彼の能力をなんとなく知っている。一部しか知らないし、彼の能力は知られたところで問題ないタイプのものだ。だからもっと彼の戦っているところを見たい。
 彼に私のことを知る気があるというのは驚きの事実だった。能力など知らなくても対等かそれ以上に戦えるのだろうから、あまり興味がないのだと思っていた。
 眼帯の上から長い爪が目をなぞる。めり込みそうになるそれをやんわりと制止すると手が離された。

「痛い?」
「いいえ」
「触られたくない?」
「ええ」
「くっくっく。なるほどね」
「満足ですか?」
「まあまあかな」
「それはよかったです。寝ましょうか」
「ああ、そうだね」

 腰に腕が回されてベッドに導かれる。顔を見上げて腕に力を込めるとそのまま横抱きにしてくれた。

「察しのいい男は好きですよ」
「僕も、甘えてくれる女の子は好きだよ」
「嘘ばっかり」
「本心なのにな」

 笑いながら私は彼の首元に唇を寄せる。いつも使っているボディーソープがふわりと香る。ベッドに下ろされると眠気に襲われた。とっくに普段の就寝時間を過ぎていたことに気づく。アレクに起こされる時間にはまだ眠いだろう。

「おやすみ、お姫様」

 男の手が頬を滑る。そして私は夢の中に沈んでいく。