白んだ闇に包まれて
シャワーを浴びた。熱いお湯はあれらを全て流してくれるようだった。しかし、打ち付けた背中と右まぶたの痛みは消えてくれない。タオルを床に落とす。
「服……」
呟いた声に返事はなく、私はのろのろと見慣れたネグリジェを掴む。下着も私の使っていたもので、いつの間にあそこから持ち出したのだろうと思う。想像以上に私は混乱していたのかもしれないし、ただ単にあの男が人間離れしているのかもしれない、どちらにせよ私の着るものはここにあってこれからの生活は保障されているらしいと理解した。
脱衣所を出るとすぐ壁に寄りかかりトランプを弄ぶ男がいた。こちらを見ない彼に一応微笑みを向けておく。
「シャワー、ありがとうございます」
「落ち着いたかい?」
「ええ」
どうやら広いこの家でまっすぐリビングに行くために待っていたようだ。歩き出した彼の背を追う。広いと言ったってマンションのワンフロア程度迷うわけはないし、たぶん監視の意味の方が強いのだろう。
促されるままタオルを手渡し、ソファーに座る。上質な家具と無地のカーテン、そしてまっさらなカーペット。これがこの男の趣味で、ここにちゃんと住んでいるのだと言われたら私は驚くだろう。生活感がなさすぎる。あそこから一番近い家だったのかもしれない。
正面の壁にかかっている時計は四時半を示している。あれは買ったのか、それとも貰ったのか。部屋には合っているが家主には合っていない。もうさすがに寝なければと思ってから、しかしすぐに思考をシャットアウトした。私には早く起きる理由がない。
「眠いんだろう、」
「それなりに」
「ああ、お姫様の髪を乾かしてあげなきゃね」
「あなたが?」
「もちろん」
「そんなことしなくていいんですよ」
「だって、僕以外にできる人間がいないだろう?」
「……なら、お願いします」
なるほど、そういうことか。男のやりたいことを理解して、答えるまでに間を空けてしまったことを少し後悔する。ああ、思考力が鈍っている。肉体も精神も、疲れきっていた。
温風の中、ブラシで丁寧に髪をとかされている。やはり不可能がないというのもあながち間違っていないのではないかと思わされる。目を閉じると背後の空気がほんの少しだけ緩む。隙と呼ぶには小さすぎる差異だったがそれは確実に私の心をも緩ませる要因だった。膝で重ねていた手を滑らせ、意味もなく腕を撫でる。
ドライヤーの音が止まり、目を開けた。どうやら私は随分と眠いらしい。何度か瞬きをしてようやく視界がクリアになる。
「ありがとうございます」
「お安い御用さ」
頭を撫でた手が背中に当てられ、それからもう片方の手はソファーと膝裏の間に差し込まれる。伸ばした腕で首にしがみつけば喉を鳴らす男。浮き上がった体の揺れが心地よい。
寝室はリビング以上に生活感がない。ここはしばらく使われていないのだろう。綺麗に整えられたベッドの掛け布団を半分ほどはがし、彼はそこに私を降ろした。これもそれなりにいいもののようだがやはりこの男は金持ちなのだろうか。スリッパを脱ぎベッドに足を伸ばして座る。そこは初めて人を受け入れたようにひんやりしていた。彼が腰かけると重みに沈む。
「ヒソカさん」
「なんだい」
「キスしてくださいませんか」
「素直な子は好きだよ」
「うそ、……」
言葉を続ける前に彼の顔が近づいてきて反射的に目を瞑る。人差し指の爪が頬を撫でた。冷たい唇は一度触れただけで離れてしまう。彼が笑っているのが分かる。
「足りない?」
「ふふ。充分です」
「なんだ、残念」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
彼の手が髪を通って離れていく。私がベッドに横たわるのを確認して彼は部屋から出て行った。
……長い一日だった。途方もなく。ああ。今はとにかく睡魔に身を任せよう。死神の用意したこの綺麗すぎる暗所で。