隻眼

 好き嫌いをしてはならない。悪いことをしたら謝らなくてはならない。強くなくてはならない。人を殺すことを愛だと思わなくてはならない。言うことを聞かなくてはならない。
 逆らったら、罰を与えられる。

「ヒソカさん」

 暗い室内はただただ静寂に包まれている。私は電気をつけようとしたのに何故壁際に追いやられてしまったのだろう。逃げようと思えば逃げられる、のに、何故逃げないのだろう。いや、私は本当に逃げることができるのだろうか? 冷え切った疑問と動いてくれない目玉、そして震えるのは唇か横隔膜か。吐き出す息が暗闇に飲み込まれていく。

 夕飯までいいところに連れて行ってくれと頼んだ覚えはなかったが、当然のようにレストランが予約されていた。そこで私はアルコールを摂取した。元来酒には強い体なので酔っ払うことはなかったものの、まだ少しだけ熱っぽい。まさかそのせいで動きが鈍くなったわけではないだろう。きっと男に薬を盛られたのでもない。ならば考えられる要因は一つだ。このままだとまずい。アレクシオスは……。

 気配が消えた気がして、咄嗟に腕を伸ばす。伸ばした先にはちゃんと人間の温度があって、間違いなくそれは私の知った匂いで、ただ、夢中で私はその体に抱きついた。すぐに背中に回されるのは硬い腕。見えていないせいではっきり形が分かる。唇を噛んだ。怖くない。怖くない。怖がってはいけない。でも、だったらこの行動はおかしい。私は怖がってはいけないのに。

「怖いのかい?」

 ようやく頭上から声が降ってくる。優しいような気のするそれには変わらず感情がない。ないのだと分かる。片手が離れて私の髪をほどいていく。

はいい子だね」

 服を握りしめる。目を閉じることができない。ほどかれた髪を通っていく指を、左手で掴む。男の手だ。力を緩めると逆に掴まれて、また背中に回させられた。いい子ね、。言葉は脳を揺らし、反響する。本当に? 本当に、私はいい子ですか?

「私……怖くありません、何も」
「嘘は嫌いじゃなかったっけ?」
「嘘……」
「君のお母さんは嘘つきだったんだろう?」
「……お、……お母様……は、違います」
「なんだ、君はお母さんを嫌いだったんだと思ってたよ」
「き、き、嫌いじゃ……嫌いなんかじゃない……嫌いじゃありません」
「じゃあ、なんで殺したの?」
「そんなのだって、だって……ああ、駄目です。くすり……私薬のまないと、アレクシオス」

 体を離すことができない。伸ばした腕は空をかき、そのまま力を失う。膝の力が抜けて、ずる、と体が滑り、床に座りこんだ。男はその私の前にしゃがみ、頬を撫でる。暗闇の中で目が合った気がした。

「君が殺したかったから殺した。それだけのことさ」

 いつの間にか私の左目からはとめどなく涙が流れている。ぼろぼろと零れるそれは全てスカートに染み込んでいるのだろう。人差し指で顔を上げさせられ、涙が首を伝って胸元へと滑っていく。瞬きの度に水滴が頬に一瞬の熱を与える。

「ちが……おか、お母様……テオ、ア、レクシオス……、ちがう……」
「かわいそうに。全部忘れれば楽になれるよ」

 頭が痛い。薬を飲まなくてはならないのに。どうして誰もいないのだろう。鞄を開けようとした手が通り過ぎて床に当たる。ひどく平面的だ。距離感が掴めない。まるで、片目しかないみたいに。
 息が止まる。男の唇にふさがれたのだと分かる。後ろに倒れそうになるがすぐに壁に背中がつき、それは叶わない。嗚咽の合間に角度が変えられて、段々力が抜けていく。上唇に舌が這うが中に入れられることなく離れた。頭が混乱している。駄目だ、強くなくちゃいけないのに。

「こんなんじゃ、戦えない……私……あなたを、殺すのに」
「僕を?」
「……だからあなたも、私を殺す」
「楽しそうな話だね」
「お嬢様! 失礼いたします」
「残念。ナイトのお迎えだ」
「お嬢様、……お薬を」
「……アレク……」

 一気に明るくなった室内で不気味に白いのは私の腕だ。男が立ち上がり、窓を開ける。

「またね、。楽しかったよ」

 私はちゃんと微笑むことができただろうか。