沈黙と人間の夜で成っている
女の振りまく甘ったるい匂いが脳を刺激する。店内に比べればマシなのだろうが、目の前に女がいては意味がない。
「熱心ねえ」
赤い唇の隙間から吐き出された煙は真っ直ぐ伸びていく。
「何の話だ」
「やだついに呆けちゃったの?」
「いつも言っているが、てめえに会いに来てるわけじゃねえ」
「野暮だわ。アレあげないわよ」
女の戯言にはいつまでも慣れない。小言を言いたくなるのを抑え、ため息に変換する。悪いのは八割方こいつの飼い主であり、あの男がいなければ俺とこうして話すことはなかっただろう。それにしてもさっさと金を出せと言いたくなるのは必然だ。女は唇を舐め、かわいらしさとは程遠い笑いを漏らした。
「であれは元気なの」
「まあな」
「うふ、うふ、よく元気でいられるわよねえ。やめれんのかしら」
「てめえのことを今でも慕っているらしい」
「あっはっは! 馬鹿な子。嫌ねえ。あなたいなきゃとっくにここのエースだったわ。いいのよ売ってくれても」
「間山や沢渡みてえな能無しになれって言いてえのか?」
「あんなに優秀なペットはなかなか捕まんないのよ。完璧な依存症だったのにあなたほんとに抱いてないのねえ」
「当たり前だ、抱く理由がねえ」
「馬鹿な男」
吐き捨てるようにそう言って乱暴に火を消した女は、立ち上がって簡易的な金庫へ向かった。消えきっていない吸殻から上がる煙に目をやる。女の話を聞いていると、どうもあいつはそこまで大量の薬を投与されていたわけではないらしいと分かる。どこまで本当のことだか分からないが、少なくとも綾女の方が何倍も薬物への依存が酷いように見えた。たぶんはセックス依存の方が強いのだろう。
事務所に戻ると何故か弟分が誰もおらず、一人でぼうっと煙草をくわえる親父が視界に入った。灰は長く伸び今にも落ちそうだ。ブラインドが少し開いていて、その隙間から外を眺めているように見える。
「戻りました。他のやつらは?」
ジュラルミンケースを持ったまま親父に近づき、灰皿を差し出す。聞かずとも取り立てに行ったことは想像できたが、それにしても親父が一人で残っているのは異常だ。親父の口が動き、落ちる灰を慌てて灰皿で受け止める。
「こう雨が続くと、しんみりしちまうなあ」
言いながら親父はようやく煙草をつまみ、灰皿に押し付けた。まさかずっと雨音を聞いていたのだろうか。何年経ってもこの人の考えていることは分からない。綾女と違い丁寧に消した後、勢いよく立ち上がり、俺の手からケースを奪い取る。
「あいつらもじき帰ってくるだろう。お前も帰っていいぞ」
「いえ、親父を一人にするわけにいきません」
「坊主に心配されるほど落ちちゃいねえよ。それよりお前、大事な娘が待ってるんだろうが」
「娘って……せいぜい猫でしょう」
「仮にも年頃の女を猫呼ばわりたあな」
「あれはそういうのじゃありません」
「後遺症は?」
「……前ほどでは」
「そうか」
幻聴、不眠症、嘔吐、順番に女の症状を思い浮かべる。ちらと壁の時計を見上げると十一時半を過ぎたところだった。何を言われても誰かしらが戻ってくるまではここにいようと思いながら、煙草をくわえた親父を見てライターを取り出す。今日は昼過ぎまで家にいたから、前ほどは拗ねていないはずだ。じゅっという音と共に白い筒は一瞬橙に照らされる。二日前、あいつにしては珍しく遠回しに強請ってきたので水族館なんて柄でもない場所に連れて行ってしまった。娘などとは思っていない、せいぜい猫だというのは本音だが、何にせよ俺は存外あの女に弱いらしかった。愛着だと言い切るのは容易い。しかし、やはりと言うべきか、同情が最も近い感情なのだろうと思った。あれよりも腐った環境で生きてきた人間は嫌と言うほど見たし、女だから、自分を慕うからという理由だけで情を向けてやるのもおかしな話だが。
「間山に拾われた方は、生きてたか」
「あれは特別生命力の強い女ですよ」
「違いねえ。日下、中里、沢渡と来て、今度は間山だ。飼い主を食い潰す星に生まれたな、ありゃ」
「うちにだけは来てほしくねえもんです」
「二匹目ゲットじゃねえか。よかったな」
「縁起でもない……」
親父は煙を吐き出しながら笑い、整髪料で固まった頭髪を撫ぜた。目尻には皺が何本も入り、瞼は年々重くなっている気さえする。歳を取ったのだな、と思う。あの化け物のようだと思っていた人も、こうして人間の男になっていくのだ。いつかは、あの女だって。
は迫田のことを気に入っている。時折あいつ以外の構成員にも会わせているものの、名前まで記憶しているのは迫田だけのようだ。一度覚えたことは忘れない代わりに、覚えられないことはいつまで経っても覚えられない。きっと元々そういう性質なのだろう。自身の興味が向くものにしか記憶の容量を割けないのかもしれない(ピアスを開けるための道具の名前などは一発で覚えていた)。
ただ、年若くまだヤクザの世界に染まりきっていない迫田を、あまりに会わせるべきではないだろうとも思う。は異常だ。ああいう類の人間は確かに多いし、慣れることはヤクザとしては重要なのかもしれないが、まだあいつには未来への可能性が残っているのだ。……まあ俺が何を考え、何をしたところで、あいつは勝手に染まってしまうのだろうが。
一体俺はあいつらの何なんだ。馬鹿みたいに考えてしまった自分にため息を吐きながら、自宅のドアを開けた。