愛玩動物に幸あれ
イルカの映画だった。シャワーから戻った時広がっていた光景を見て、思わず服の裾に指をかける。水族館というところに私は行ったことがない。だけどいたるところで流れていたテレビのおかげで存在自体は知っていたし、愛玩動物と見なされていると認識していた。左京は時折ひどく退屈な映画を借りてくる。たぶん私に脳がないせいでそう見えるのだろう、私とは逆に真剣な表情で画面を見つめる左京のことを、私は恐れている。彼の座っているソファーに近づくと勢い余って膝をぶつけた。
「お兄」
「なんだ」
腕を組んだまま彼はこちらを見る。私に気づいていなかったのだろうか。その眼鏡に反射した光が映像に合わせて揺れる。私は口を開くけれど笑いさえ出せず、可愛らしい動物に目をやった。
「イルカ」
「あ?」
「好き?」
「特別好きだと思ったことはねえな」
「あたし好きだよ」
「そりゃ初耳だ」
「かわいいもん」
かわいいもん、と脳内で言葉が反響する。そんなの知ったこっちゃない。イルカがかわいいのと、私がどう思うかは関係がない。でも、左京がイルカを好きかどうかとその二つは、深く関係している。だから私はイルカをかわいいと思うし、好きだと言う。ピンクじゃなくても。左京は画面に視線を戻し、ため息を吐く。無駄だって? そうだ、私の行為は全て無駄だ。媚びたって薬の一つもくれない人なのにね。つられて笑いを漏らすと、座れと低い声が言うので、それに従って背もたれを乗り越える。
「髪はちゃんと拭け」
「拭いたよお」
「水滴が」
「わかんない! ねえお兄、水族館行ったことある?」
「さっきから何かと思えば……行きてえのか」
「行きたい!」
「はあ……」
いつものように眉間にしわを寄せた彼は、組んでいた腕を解き、ローテーブルに置いてあった端末を手にした。近くのコンビニまでついていったことはあるが、ほとんど外に出ていなかった私にとって、水族館に行くなんていうのは一大事だった。テレビに目をやると、女の人がイルカに餌をやっている。いいな、かわいくて。かわいいものはそれだけで愛されると身をもって知っている。
「大人しくできるか?」
「できるよ! 大人だもん」
「どの口が言ってんだ」
「やだなあ、言わせないでよ」
「分かったから髪を乾かせ」
「やったー! 楽しい!」
「そんなに楽しい場所じゃねえけどな」
「ね、イルカってどうやって生きてるの?」
「……お前も見ればいい」
「わかった!」
ご機嫌になってしまった私はソファーを下りて、洗面所に向かう。一体何が面白いのか分からない映像だったけれど、あの人が言うなら見てみよう。ドライヤーのコードを引っ張ってコンセントに刺す。順調だ。でも「まともになんてなってやらない」。映画に飽きたら、煙草をもらおう、と思う。たぶんあの人は怒るだろう。ガキの癖にって? 笑い声がドライヤーの音にかき消される。ひどい人だ。ひどくて、おかしい人。ばっかみたい、いつかの姉が私を嘲笑う。あんたのことなんて愛しちゃいないのよ。女ならなんでもいいんだから。吐き出された煙にあたしがむせると、彼女は嬉しそうに喉を鳴らした。でもあたしは媚びを売るしかできないのだ、……お姉も。丸いピンクの缶を思い出す。
「イルカは超音波で会話しているらしい」
リビングに戻り、隣に腰掛けると左京が言った。
「ちょうおんぱ」
「人間の耳には聞こえない音だ。それで物の大きさや性質を把握している」
「すごい」
「分かるのか」
「わかんない」
「だろうな……」
「でもあたしにできないよね?」
「お前だけじゃなく、人間にはできない」
「じゃあすごい」
「人間にできることがイルカにできなくてもか?」
「えー、でも人間よりかわいいじゃん!」
「そりゃまた別の話だろう」
「大事なことだよお」
イルカが女の持つ輪の中を通る。色だって鮮やかじゃないし、何より大きすぎる。でもたぶん私は昔こいつをかわいいと思ったことがあるのだろう。そういう類の感覚だった。大体、今の私は愛玩動物が好きじゃない。単純に羨ましくも思う。かわいいと言われるものを持っていて、誰からも愛されている彼らを。ソファーの上で膝を抱える。
「いいなあ」