薄ら笑いが足首に絡みつく
つめてえ。女が手に触れようとした時やはり私は思い出した。いちいち耳に残っている男の声。思わず彼女を制止する。
「すごい冷たいらしいから気を付けて」
「……ほんとね」
「ずっと触ってるとまずいかもしれない」
「そうね。まあ、凍傷にはならないと思うけれど」
結局すぐに私の手は包み込まれ、制止にあまり意味がなかったことを悟る。凍傷。そういえばそんなことを言った気もする。つまり私の意志で発された言葉ではない。考えていると握られた感覚がして彼女を見る。
「ノブナガと会ってたの?」
「うん。暇だったから」
「彼とどんな会話をしたか覚えてる?」
「そうだな。寒いならそんな格好するな、とか」
「他に彼は何を」
「うーん、ぼーっとしたやつだって。冷たいとは何回か」
「……じゃあ彼が、行くなって言ったのは?」
「行くな? そんなこと言われてないと思うけど」
行くななんて、彼が言うはずない。けれど確かに言われたような。そもそも彼女に見えたのだからそれは事実なのだろう。なら、私が覚えていないだけ?
「、あなた私が分かる?」
「え? ……パクでしょ?」
「流星街のことも?」
「そりゃ、そんな簡単に忘れないよ」
「……あなたもしかして、ほとんどとしての意識が……なんて言えばいいのかしら」
それきり彼女は黙ってしまった。パクノダのこと。流星街のこと。忘れるはずがない。でも直前のことですら危うい私がその記憶を欠けさせていたとしても不思議ではない。確かなのは私が彼と交わした会話を覚えていなかったということ。彼女が読み取れたということは記憶自体はあるのだ。だから記憶にはあるのに私自身が思い出すことができなかった、それが問題。「私としての意識」。どこからが私で、どこからが「私」なのだろう。
「時々、私の名を呼ぶのに気づいてる?」
顔を上げた彼女と目が合った。悲痛な顔。悲痛、不安、焦燥? どうして、この人が、こんな表情を。目をそらしたいのにそれは許されない。そして思考が固まったまま口は開く。
「あなたを呼ん」
「答えて」
「……え?」
「今、私はに聞いているのよ。あなたは、たまに私の名を呼ぶ。ノブナガのところでもそれを何度かしているの。覚えていないとあなたは思ってるかもしれないけど」
「名前……」
「思い出して。記憶はあるのだから」
ようやく、目をそらすことができる。今、私に、という女に、いや、私に、彼女が話しかけてくれたからだ。意識を揺さぶる名前。もしかして今、私は彼女を呼び、そして先ほど彼のことも呼んでいたのだろうか。そうか。何も言っていないのに相手が反応したのは私が呼んでいたから。なんだと言った彼を思い出す。思い出せる。ノブナガ。呟くように漏れた声が聞こえる。
「」
「……うん」
「私が流星街と言った時真っ先に見えたのは、天使だったのよ」
「天使? そんなわけ……」
「無意識のうちに引っ張り出しているんじゃないかしら」
「天使に関する記憶をってこと?」
「が思い出せないと思っていることも記憶はされてるのよ。あなたの中で天使が大部分を占めてしまっていて、思い出すことができないのかも」
「……天使……」
天使。碧眼の男。光。私に力を与えた、哀れな天使の成れの果て。ああ、あれを受け入れてしまったのがいけなかったのだ。彼はもう、すぐ近くまで来ている。
「まさかこんなことになっているなんて。何が起こっているのかさっぱりだわ」
「私も……ごめん」
「でもちょっとはが戻ってきたみたいね」
「そう?」
「それはそうと、冷たいのも天使の影響?」
「……分からない」
「最近他に変わったことは?」
「変わったこと……っていうのは、何と比べて?」
「過去のあなたと」
「……ああ、そういえば長く寝れなくなったかな。あと酒を飲むのが楽しくなくなった」
「……あなたが昔言っていたけど……天使、飲まず食わずだったらしいわね」
「そう……そうだ」
「寝ているところも見たことがなかったって。もしかして、」
人類の三大欲求とされる、性欲食欲睡眠欲がない。天使が微笑む。だからこれは君が食べなよ。心配などいらなかったのだ。天使である彼はずっとそうやって生きてきたのだから。ならそれらを失った私は今、一体何者なのだ? ねえ、君は。私これから、かいぶつになっちゃうのかな。これを君にあげる。忘れないで、僕は、ずっと君の傍にいるから。指先に金属が触れる。
彼はもう、すぐ近くまで、来ている。