凍土の内で蕩けさせてあげる

 明け方目が覚めたので外を見るとよく晴れていた。背骨が音を立てる。最近あまり長時間眠っていない気がする。暗くなってから店に行けばいい、そういう約束だったはずだ。

 爽やかな風が素足に心地よい。そういえばひらひらした服で飛び回るなというようなことを言われた。従う義理などないしそもそも何故男についての説教をされなければならないのだろう。思いながらも部屋に戻り、着たばかりのワンピースを脱ぐ。よく考えたら今日は街中を歩く可能性が高いのだから靴もはいた方がいい。こう飛んでばかりいると靴をはかずに出かけることに慣れてしまう。
 アポを取っていないと窓を閉めてから思い出す。ケータイを確認するが当然連絡など来ていない。まあしかし仕事さえなければ家にいるだろう。個人的に何かしているのかもしれないけれど私はそのあたりのことをよく知らない。いつからかあまりプライベートな付き合いをしなくなってしまった。昔はそこそこ会っていたし、家にもよく行っていたと思う。酒を飲むのが楽しかった頃の話だ。支度を終わらせ、再び窓の外に出る。白んだ空には細かい雲がいた。

 目的地に向かうために地上を歩くことはほとんどない。上からの道しか覚えていないし仕事の際もそういう風に集合場所を伝えてもらっている。だからこそ適当な指示では困るのだけれど。腕時計を見ると七時を回ったところだった。


 驚いた顔だと本当にぼけて見える、この男。数秒の間の後周囲に私以外の人間がいないことを確認し彼は大きくため息を吐いた。

「来るなら来るって言いやがれ」

 何度も言われたセリフだ、と思った。お前のオーラは云々と男は続けたが気に留める必要のないことだった。靴を脱いで部屋に足を踏み入れる。何故か土足厳禁の家、ここに来るだけなら靴などはかなくてもいい。たぶん私にとってそれが楽なのだ。
 一昨日ぶりの雑然とした部屋。そうだ、私は一昨日もここに来た。

「こんな朝っぱらからよお」
「寝てた?」
「そりゃな」
「寝てていいよ」
「何しに来たんだ、おめえ」
「暇つぶし。夜に用事がある」
「はあ……別に構わねえけどよ」

 すらすらと言葉が出てきて自分でも戸惑う。私は暇つぶしのためだけにわざわざ目的地から遠いこの部屋に来たのか? ベッドに座った彼が突っ立ったままの私を怪訝そうに見る。

「何突っ立ってんだ?」
「なんでもない」
「そうかよ」

 仕方なく彼の隣に座る。仕方なく。仕方なく? スプリングが軋む。テーブルの上にはビールの空き缶や食べ物のゴミ。寝てていいよと私は言った。そして。

「あ?」
「え?」
「え、じゃねえだろ」
「……私、何か言った?」

 目が合うといつもより少し長い間見つめられ、私は思考を巡らせる。そこでやっと頭が働くことが久しぶりだと気づく。私は今何と言ったのだろう。彼が私から視線をそらし長い髪をかきあげる。

「一昨日」
「うん?」
「三ヶ月ぶりっつったか」
「そうだな」
「前に会った時も思ったがお前……いや」
「何?」
「……お前、そんなぼーっとしたやつだったか?」
「知らないけど」
「知らねえだあ?」

 いや違う。知っている。言葉が、勝手に出てくる。片手で口を押さえた。本音。本音を言いたい。「このまま放っておくと本音を言わせてもらえない」。考えなければならないのだ。本音を話すためには。ぼーっとしたやつ、私はたぶんどんどんぼーっとしたやつになっていっている。少なくともこの男からはそう見えている。それはきっと問題だ。本音って、なんだ?

、おめえよお……とりあえず寝たらどうだ」
「眠くないよ」
「いーから寝ろ」
「あなたはどうするんだ」
「あー? お前が寝んなら寝るが」
「どこで?」
「ベッド以外にあると思うか?」
「一緒にってこと」
「悪かったな。床よりマシだろ」

 まあ特別断る理由もない。重みでぎしぎしと鳴るベッド上を移動する。うつ伏せに寝転がり平たくなってしまっている枕を抱きしめた。顔だけ上げて彼が隣に横になるのを眺める。細長い、と思う。髪がシーツの上で揺れる。手首の骨。袖がまくられ露になった腕。肩、鎖骨、首、そうして視線を順番に上げていくと目が合った。……私は、枕に顔を埋める。

「つめてえ」

 声にもう一度、彼の方に顔を向けた。いつの間にか私の腕を掴んでいる、彼。思考を回す前に彼は続ける。

「寒い癖にそんな格好すんじゃねえよ」
「寒くないけど」
「……つーかお前から冷気が漂ってくる」
「何言ってるんだ」
「お前……この冷たさ、尋常じゃねえぞ」
「いいよ」
「何が」
「いい。大丈夫、別に」

 腕と手首、そして頬に当てられた手はそこからまた手首へ。彼が何も言わないので左手だけを彼に預け体を少し起こす。空いた右手で端でぐちゃぐちゃになっていたブランケットをたぐり寄せ、体ごと彼の方を向く。視線。目を伏せる。私の腕がそれだけ冷たいのなら私は男の熱を感じられるはずだ。はずなのに。大丈夫、一体何が大丈夫なのか、自分でも分からない。たぶん彼も分かっていない。だからそれは離されない。