あなたのいなくなった世界で

「本当に消えてしまう」

 不意に天使の声がした。

「悲しいよ、

 その声には一切の感情が含まれていない。ああ、あなたは私の中でまで完璧に天使なのか。「天使」が完璧な天使性を持っているということ。結局天使なのかなんなのかも分からないまま消えていった彼。死ねない体を持て余してあなたは何を考えていたのだろう。見慣れた、見慣れすぎたいつもの微笑みが、私を見ている。
 そんなあなたを私の心に縛り付けてしまって、ごめんなさい。

「たしかに」

 幼い声が背後から絞り出す。続きを頭に思い描く。たしかに、私は、あなたが大切だった。

「でもじがをおさえつけてまで」

 落ちてほしかったの?
 私はあなたとはいられない。彼がいる、そしてみんなも。天使の表情は崩れない。私はこの顔しか見たことがなかったのだろうなと思う。程なくして私の口から声が漏れた。

「おやすみ」

 光が天使を包み込む。変わらない笑みが白く染められていく。眩しさにたまらず目をつむる。育てなかった自我とは裏腹に、彼への思いや彼との思い出だけが制御しきれないほど膨張してしまったのだ。あれを受け入れたのが悪いんじゃない。あれが消えたことにショックを受けて思いを膨らませすぎたのが悪いのだ。
 ぱき、ぱきん。
 耳に響いたのは崩れていく音。割れている音。金属音。そしてすぐ完全にそれが割れたことが分かる。私は目を開けた。


 顔を上げる。
 膝をついてこちらを伺う男の顔が視界に入る。随分と久しぶりに見る気がした。この一か月ほどはずっと一緒にいたというのに。何を言ったらいいのか分からないといった表情をする彼に、笑ってしまう。

「なに、その顔」
「……、」

 彼が何か言おうとした時、彼の手の中にあった金色が薄れて消えていった。帰るのだろう。いるべきところへ。はっとしてそちらに目を移した彼は数秒それを見つめた後、再び私を見て、それから大きく脱力した。

「馬鹿野郎」

 そう言って彼は、床にあぐらをかいて両手で顔を覆う。こらえきれなかったのであろうため息。ベッドから降り、彼の首に腕を回した。

「ただいま。ごめんね」
「……うるせえ」
「ふふ、うん」

 少しして体を離される。なんだかとても気分が明るい。自然と笑みが漏れるというのが不思議で仕方なかった。私の肩に手を置いたノブナガの顔を見てさらに楽しくなってしまう。笑うなとばかりにこちらを見る彼は全く怖くない。

「なんで泣くの。泣く子も黙る盗賊団員だって言うのに、もう」
「てっ……めえ、俺がどんだけ心配したと思ってんだ! あれ壊したら死ぬかもしれねえと思ってたんだぞ!」
「ごめんって。でも久々にあなたとちゃんと話せて、私それどころじゃないんだよ」

 やはり自我が無意識下に押し込められていたということだろう。これまでのことを思い出すことはできるが、それを正しく自身の記憶として見ることができない。この人と会うのも十年以上ぶりな気がした。考えていると容易く足の上に抱きかかえられ、体が密着する。なんだか大きな子供みたいだ。腕の力が強い。ああ、しばらくしたら全ての感覚を取り戻せるのだろう。……この人の温かさに私は溺れていたい。

「ノブナガ」
「……なんだよ」
「ありがとう。解放してくれて」
「もう二度と変なのに捕まるんじゃねえぞ」
「守ってくれるんじゃなかったの?」
「当たり前だろ」
「でも私の方が強かったよね」
「ああ?!」
「冗談だよ。もう力もないし」

 そう言えば彼は黙ってしまう。能力を失うのは想定内の出来事だ。あれを壊し、心の中から必要以上に肥えてしまった天使を追い出したということはつまり、体内の天使性を追い出すということでもある。もちろんあれとの記憶を全て失ったわけではなく。何も言わない彼の代わりに再び口を開く。

「私やっぱり普通の人みたいに弱いと思うの。それに飛べもしない。でもあなたがいる」
「……ああ」
「あのね、記憶も感情も、すぐ全部は戻ってこないと思う」
「そうだな」
「ぜんぶ戻るまで付き合ってくれるよね?」
「それで終わりみてえな言い方すんな。そっから先もだろ」
「……ありがとう。待ってて」
「ああ」

 腕の力が緩み、肩口から顔を上げる。もう涙はそこにない。しかし段々彼の顔がにじんでいく。もしかして私泣いているのだろうか。まさか。いや、でも。今度は私が笑われる番だった。俯くと彼の手が頬に当てられ、そこに知らない何かが流れていく。

「泣く子も黙る盗賊団員さんよお」
「……なに」
「初めて見た。お前が泣くの」
「私もこんなの初めてだよ。泣いたことぐらいはあると思うけど、なんていうの、こう……びっくりしてる、今」
「あっはっは」
「笑うとこじゃないよ」
「お前だって笑ってたろーが」

 笑いながらもノブナガは両腕の服の袖を目じりに当ててくれている。瞬きをする度にこぼれていくもの。鼻をすする。これが涙。嬉しいのか、悲しいのか、どうして涙を流しているのかよく分からない。でも泣きそうになっても泣けなかった時よりはいい、と思った。ノブナガの手に自分の手を重ね、顔を見上げる。そうしている内に涙が治まっていく。彼は笑うのをやめて私を見ている。……本当に心配をかけてしまった。なんとなく目を合わせていられなくなって私はやはり彼にもたれかかった。あやすように背中を撫でられる。あたたかい、ような、気がする。
 どくん。
 私も、彼も、何も言わない。部屋の静寂のせいで耳元の心音が一層大きく聞こえる。……同じリズムで撫でられていたらなんだか眠くなってきた。あれを追い出すのに精神力を使ったせいかもしれない。

「寝れそう」
「寝ていいぞ」
「……疲れないの?」
「疲れたらベッドに移す」
「そう」

 安心して目を閉じる。体から力を抜く。子供じゃないんだから、と頭の片隅で誰かが言う。だってせいちょうできなかったんだもん、と誰かが反論する。そのまま私の意識はそこに帰っていく。