わたしを呼んで

 窓の鳴る音だけが部屋に満ちている。私は立ち上がりワンピースをベッドに置いて、窓の鍵を開けた。彼は何も言わない。がっと何かにつまずくような衝撃を何度か受けながら開くと、ようやく外の空気が入ってくる。もうすぐ日が昇る。

「おい」

 外に出ようとしたところで呼びとめられ、彼の方を向く。目が合う。けれど何も説明はない。彼が目をそらす。一体なんだと言うのだろう。

「どうしたの」
「……飛んでっちまうのかと」
「……」
「そもそもいつまた天使になるかも分からねえんだぞ」
「……そうだね。ごめん」

 いつ、また、天使になるのか。それは確かにそうだ。しかも私は自分が何故窓を開けて外に出ようとしたのか分かっていない。つまりそういうことなのだろう。……呼びとめてくれなかったらたぶん、能力を使っていた。ああそうだ。私は普通に過ごしてはいけない。意識することをやめたら今度こそ戻ってこれなくなるかもしれないのだ。空気を入れ替えるため網戸だけ閉めてベッドに戻る。
 ワンピースをたたんでクローゼットにしまうと彼が呟いた。

「そういやそんなこと言ったっけなあ……」

 その言葉に一瞬なんのことだろうと思うが、すぐに思い当たる。……彼の言葉からひらひらした服を好んで着るようになったというのは、本当のことなのだろうか。あれはきっと彼女の推測だ。けれどそう考えるとしっくりくる。何も思い出せないのにしっくりくるというのはおかしな話かもしれないが。
 彼の隣に座る。足元で金属が音を立てている。ふと視界に入れるとそれは一層騒ぎ出した。心音と混ざり合って、脳に訴えかけてくる。待ってくれ。大切な人を待たせるのが好きだね。君は僕に、僕は私に……。ああ。ああ。いけない。駄目だと分かっているのに目が離せない。
 助けて。

?」

 体が動かない。冷や汗のようなものが背中を伝ったような気がした。どうしてここまで強く引っ張られるのだろう。一度あれの手を取ってしまったから? もう逃げられないって言うの? 嫌だ。私はまだ……。

! おい、大丈夫か?!」

 名前は意識を揺らす。私の中の全員それに揺さぶられている。乾ききった瞳から金属がいなくなった。
 はっとする。顔を上げると怒ったような、必死の形相で私を見ている彼がいた。彼の指先が腕に食い込んでいる。

「……ノブナガ」
だな? 分かるか?」
「……うん。ありがとう」
「ああ」
「やっぱり、駄目だ」
「あ?」
「今しかない。……よね」
「……今しかない?」
「壊すの」

 私の言わんとすることが分かったらしい彼が視線を下に向ける。私はもうあれを視界に入れることもできない。手をぎゅっと握る。今しかない。意識して話せる今しか。彼がベッドから降り、私の前にかがんだ。その時窓から入った風が首元を通って、嫌な汗を連れていく。今まで冷や汗なんて流したことがあっただろうか。あれが気のせいだとしても、そんな思いをしたことが。


「……ん?」
「別のこと考えとけよ。……テレビでも見てろ」
「あ、うん」

 リモコンを放られ慌ててキャッチする。言われるがままに電源ボタンを押すと、ぷつ、と音がして、部屋が一気に騒々しくなる。彼の手が足に触れる。冷たくないだろうか。冷たいのだろうけれど。テレビでは朝のニュースが流れている。……そうだ、私は仕事をしていたのだ。もうはっきり思い出せない。私は血を浴びただろうか。人を殺しただろうか。この手を、汚したのだろうか? 小さく息を吐く。

「ねえ」
「あー?」
「私が何言ってもやめないでね」
「当たり前だろうが。やめろっつったらさすがに殴るぞ」
「うん」
「なんのニュースやってんだ」
「え? ああ……タクシーに自転車が衝突して重傷だって」
「ご苦労なこった」
「……大変そう……」
「死んだのか」
「入院してるらしいけど……自転車が歩道走ってたのが悪いみたい」
「馬鹿な奴だな」
「なんか、色々起こってるんだね」
「なんだそりゃ。……ああ、お前テレビとか見ねえのか」
「うん」
「そういやウボォーが飲みに誘えっつってたぞ」
「あ、ほんと?」
「なあ

 金属音が止み、その声に私は思わず彼を見下ろす。私の足首に手をかけたままの彼はこちらを見ない。やはり外すことも壊すこともできないのだろうか。けれどそれなら怒っていてもおかしくない。間を空けて彼は私の目を見た。視線に少し、たじろいでしまう。

「確かに俺はずっとお前の飛び回ってるとこが気に入ってたが」
「……うん」
「だからって飛び回ってないのが嫌いなわけじゃねえ」
「うん」
「もし能力を失ってもお前はお前だ。分かるよな」
「分かるよ」
「さすがに一般人より弱くなるってこたあねえと思うけどな」
「……まあ、それはそうだね」
「あーだから……なんつーか」

 彼が俯いて頭に手をやる。それをじっと見つめているとため息が聞こえた。それから再び顔を上げる。

「これから先、お前が変なのに狙われるようなことがありゃ俺が守るから心配すんなよ」
「……」
「あんだよ! うるせえな」
「ま、まだ何も言ってない」
「似合わねえってことぐれえ俺が一番分かってるっつーの」

 大げさに息を吐く彼の姿に、じわじわと熱が広がっていく。これはなんだろう。心臓が痛い。痛い? これはとうの昔に消えてしまった感覚だと気づく。苦しい。こんな苦しさも。……熱、だなんて。

「ありがとう」
「ああ?」
「やっぱり、あなたが、教えてくれるんだね」

 だっていつもそうだった。怪物になることを否定してくれたのも、ただ飛んだだけで褒めてくれたのも、きっと他にもたくさん救われたのだ。思い出せなくても分かる。私はこの人に認めてもらいたくて……。
 未だうるさく泣いている心臓を押さえる。やっと戻れるのだと思った。訝しげに私を見る彼と目が合う。その顔に笑みがこぼれる。すると彼の目が見開かれ、いつものとぼけ顔になる。

「笑顔なんて何年ぶりだ、お前」
「分かんない。ねえ、名前呼んで」
「名前?」
「たぶん、それで大丈夫だよ。みんな名前を呼ばれるのに弱いの」
「みんなって」
「私と、あの子と、天使」
「……お前の中の?」
「うん。今まで……ずっとそれで戻ってこれてたから」

 そう言うと彼は離していた手をアンクレットに当てる。足首との隙間から指が差し込まれ、そこに力が込められたのが分かる。それを見ていたらもう片方の手が私の手を握った。



 風が朝の空気を運んでくる。いつの間にか昇っていた太陽に室内が照らされている。テレビの音声が流れる。そして彼の声が脳を揺さぶった。

「戻ってこい」