それはいまもむねのおくに

 こうして見ると見事にオールインワンばかりだ、と女は思った。それも裾の広がったふわふわしたものがほとんどだ。ずらっと並ぶハンガーにかけられたワンピースやドレスたち。しかしその中で彼女の目を引いたのはぼろくなってしまった布だった。整頓されたクローゼットの片隅に置かれた、大きな違和感を放つそれに思わず手を伸ばす。

「なんかあったのか」

 男が呟く。初めはあまりあさるなと言っていた彼だったが、女の目的を知ると大人しくベッドに座るのみになったのだった。傍らには「天使」がいる。
 男の言葉にいえ、とだけ返した女は、手の中のそれを広げる。想像よりも小さい。だがそれが子供用のワンピースだということは見ればすぐに分かった。そして胸元のリボンから、これは天使が幼少期着ていたものだと思い出す。どうしてこんなものを? 女の疑問はオーラに変わった。
 流れ込んでくる記憶。それを作った人間のこと、名を縫い付ける母親らしき女、赤ん坊、裾をめくり名前を確認する大人。薄汚れた空気……着ている少女はゴミ山に座り、また飛び回って、幼き彼らを見ている。今はもう大人になってしまった少年と会話する姿が、殊更ゆっくりと流れる。ああ。女は理解した。ふわふわしたものばかり好んで着るのも、これを大事にしまっているのも、全て……。

「……ノブナガ」
「あ?」

 数分後、女はかすれた声で男の名を呼んだ。

は、本当に……」
「……なんだよ」

 男が戸惑いながら先を促す。しかし女の目にはワンピースしか映っておらず、続きが出てくることはない。そのまま女はワンピースをたたみ、元あった場所に戻した。

「パク?」
「……なんでもないわ。それよりどうするの?」
「どうするったって……もう何すりゃいいんだか……」

 ホームに盗品を持ち帰った後、天使は男に帰ろうと言った。驚く男を余所に男の手を引き、彼の重力を操ってここまで来てしまったのだった。数時間後それを追いかけてきた女が着いて、何か天使の記憶を引き出せそうなものがないかと考えた結果開けたのがクローゼットである。
 男は息を吐き天使の足元に目を移した。そこには変わらずアンクレットが巻き付いている。触ろうとすると強力な何かに弾かれてしまい、もう触ることさえ叶わない。まさにお手上げ状態だった。武器を使おうがオーラを使おうがその何かは破れないのだから。天使は静かに目を開けてそこに座っている。呼吸音は聞こえる。瞬きもする。けれどやはりそれは死体のようだった。

「名前を呼べば反応はするが、何も言わねえ。名前以外じゃ反応すらしねえしな」
「そうねえ……でも、何も言わないのに、帰ろうとは言ったのよね」
「そういやそうだ。……なんでだ?」
「それだけこの子の意識が強かったってことかしら」
「ここにそんな思い入れがあるとは思わねえがなあ」
「……あんたって、馬鹿?」
「ああ? んだよそれ」
「もし帰ろうっていうのが意志の強さの表れなら、さっきのワンピース、使えるかもしれないわ」
「どういうこった」
「少しは自分で考えなさいよ」
「分かるように説明しろっつーんだよ」

 苛立ち混じりの言葉に返答はない。女は顎に手を当て、もう一度ワンピースを手に取った。それを男に渡す。一瞬、天使の視線がそちらに動いたような気がした。

「これをどうしろって」
「それ見覚えないの?」
「はあ?」

 女に言われ、ようやくしっかりと視界に入れる。昔着ていたような、いやそもそもこのサイズでクローゼットにあったのなら昔のものだろう、何故昔の、しかもぼろくなったものを、そこまで男の思考がたどり着いたところで女は脱力した。

「まあ覚えてないのも無理はないわね。昔のことだもの」
「だがこれ昔こいつが着てたもんだろ? なんだってとっといてるんだ」
「大事だからよ。じゃなきゃこんなぼろくて着れもしないもの、置いておかないでしょう」
「……お前これの記憶を見たのか?」
「ええ」
「それで何が分かった」
がそれをとても大切に思っているってこと。本人に聞いてみたら?」
「こいつに? そりゃ、お前」

 男の視線が隣の天使に向けられる。瞬きを一つ。この状態の女に何を聞いても無駄だろうと言いたいのを我慢する。帰ろうと言ったのとワンピースに関連があるのなら、無駄だとも言いきれないのだ。男は女の名を呼ぶ。天使が顔を上げ、男を見た。それを眺め、不思議なものだと女は思った。会話の中に出てくる名前には反応しないのに、男に呼ばれた時は反応するなんて。呼ばれているのが分かるということだろうか。

「これはそんなに大事なもんなのか」

 男に差し出されたワンピースをじっと見つめる天使。そしてそこに手を伸ばす。男の手からそれを受け取り、緩慢な動作で胸に抱いた。表情は変わらないが、大切にしていることが分かる。男はため息を吐いた。幼い頃自身が着ていた服を大事に抱える女。……唐突に、この状態がずっと続くのではないかという焦燥感に襲われ、天使から目をそらす。

……」

 呟かれた名前のあまりの弱々しさに、男の前に立つ女はぎょっとする。この男は、かなり参っているようだ。分かってはいたがこうも態度に出されると驚いてしまう。
 しかし次の瞬間、女をそれ以上に驚愕させることが起きた。

「ノブナガ」

 天使が声を発する。二人の視線を一身に受けた天使は瞬きをする。羽が。女が呟いた。背中で揺れていた光源が段々と消えていく。やがてそれが完全に消え去った時、「天使」は一度目を伏せ、数秒後はっとしたように目を開けた。
 無言のまま目の前を見つめる女。窓が揺れ、そちらに視線が向けられる。それから手の中のワンピースへ。

「わたし」

 深呼吸。ああ生きている。こいつは天使ではないと男は思った。ようやく現状に思考がついてくる。女は、小さく嘆息した。

「思い出さなきゃ……」