露と落ち露と消えにし彼の心
仕事の詳細が送られてきたのはそれから三日後のことだった。決行は二週間後で、二十三時にホーム集合。対象は緋の目。
これから二週間は共同生活を送ることになるらしい。自身のケータイで内容を確認している男を盗み見る。この三日は特に不都合はなかったし、たぶんここから先もそうなのだろう。室内は男の持ってきたテレビの音で満ちている。私は元々一人でいる時には静かな方がいい性質だったのでテレビなどは置いていなかったのだが、単にこんなに何もない部屋では退屈するからと彼は言った。退屈か。
「二週間か」
ケータイを閉じて彼が呟く。ちゃんと顔を上げて彼を見ると、何か考えているような表情をしている。顎をなで、ちらと私の方を見た。
「わりいな」
「なにが?」
「二週間っつったら結構長いぞ」
「……そう?」
「結局どうにもできねえしよお」
そもそも仕事で力を使うことで天使に近づくのなら、今こうしてこの人を留めておく必要もないのではないか。そうなるのが遅いか早いかの違いだ。二週間もあればかなり進行するだろう。けれどそれで仕事に支障がないのなら構わない。……構わない? 私は、それが嫌なのではなかったか? いや、そんなはずは。
「仕事終わったら、お前がなんと言おうとアンクレット壊すからな」
「ほんとに」
「ほんとに、だ、。……さすがにこの三日じゃ分からねえけど、何もしなくても天使になっていってるんだとしたら、判断力も鈍ってるのかもしれねえだろ?」
「……そうだね……」
「まあ会話にあいつが出てくることはほぼなくなったがなあ。うわごとっつーか……ぼーっと俺を呼んだりはするしな」
「それは……その、ごめん」
「怒ってるわけじゃねえけどよ」
「うん」
きっと放っておいても侵食は進む。こうして意識することと能力を使わないことで、どこまで食い止められるのかは分からない。それにたとえ食い止められていたとしても、それは決して治っているわけではないのだ。つまりこれ以上元の体に戻ることはできず、いつかは天使になる。
昨日彼は私に昔話をした。流れでそうなっただけで、特別昔話をするつもりはなかったらしいけれど。小さい頃のことだ。こうなっていなくても覚えていなかっただろう。
当然のことながらこの部屋にベッドは一つしかない。その上私は普段二時間程度の睡眠しかとらないので、彼とは睡眠時間が合わないのだが、この三日間はとりあえず一緒に寝るようにしていた。寝るというか、寝転がるというか。結局眠っている時間はいつもと変わらない。
たぶん十歳くらいの頃の話。私は何故か彼が寝ているところによく現れたそうだ。目を覚ますとそのまま隣で寝始めたから困ったと言われた。相手をするのが面倒で寝る場所を変えたりもしたが、それでも見つかってしまい諦めたとも。……恐ろしい奴だ。そして恥ずかしい。忘れた方がいいことも世の中にはある。まあしかし、それも何年か後に終わったらしい。彼は気づいたらそういうことがなくなっていた、きっかけは覚えていない、というようなことを言ったが、きっと私が天使と出会ったからだろう。
なんだかお前はよく追っかけてきたよなあ。そういや昔は鈍臭くてすぐ転んでて……。
知らない人の話をされているようだった。それを話す彼は楽しそうで、こちらとしても聞いている分には楽しいのだが、自分のことだとは思えなかった。鈍臭くて、それでもふらふらとついてきて、そうかと思えばいなくなり、心配になったところで現れる。彼の話の中の少女はそんな感じだった。思い出せない。心配してくれていた少年も、眠っている少年も、その後ここに至るまでの彼も。この人がどういう風に生きてきたのか、少なくとも数年前までは近くで見ていたはずなのに、全く分からない。だからなんだ、と、誰かが言う。思い出せないと困るのか? と。答えは否だ。覚えていることに意義を見出せない。このまま全てが消え去っていくことに違和感はない。おかしいことではない。
青い瞳を見つめる。薄い笑みが囁く。天使になると困るのか?
「」
「ん?」
「そろそろ飯食うか?」
「あ……もうそんな時間か」
言われて時計を見ると、八時になるところだった。彼はテーブルに置きっぱなしだったゴムで髪をまとめ、立ち上がる。いつも金を払っているということを言えずにここまで来たが、元々盗賊なのだから特に問題ない。むしろこれが正常だ。彼は私が立ち上がるのを待ってから玄関に向かった。
私に、味が分かる時期はあったのだろうか、と考える。あったとしても、その時期にちゃんと味わって食べていたかどうかは別の話だ。あそこから出て食べるものを選べるようになってからはもうあまり味が分からなかったので、好き嫌いもない。そうして気づいたらものを食べる習慣もなくなっていた。
この人は見た目から想像するよりもよく食べる。細く見えるが意外とがっしりしているのかもしれない。観察していたら目が合った。
「……食わねえのか?」
「食べるよ」
「見られてっと気が散る」
「……ごめん」
天使の内臓は一体どうなっているのだろう。こうしてものを摂取していれば排泄はできるが、腹が空くこともなければ満たされることもない。もしかして錯覚なのか? そうだとするとおかしいのは体ではなく、脳だということになる。
やはり味はしない。温度もない。これが最後だ、と思った。この二週間が過ぎて、そうしたらそこが終わり。
終わりだ。