ゆっくりと息絶えるような

 部屋に戻るとベッドに座った彼が顔を上げた。帰ってもよかったのにと頭の片隅で思う。それからきっとこの人がいなければ、私はまた天使の元へと帰ってしまいそうになったのだろうとも、思う。あまり考えすぎるなと言われたのに結局思考はそこへ回帰する。根拠はないが、この男がいなかったらもうとっくに天使になっていたような気もする。男と目が合って、私は碧眼を思い出す。
 人の目を見るのが得意じゃないんだ。僕と目が合うと、見たくないものを見てしまうみたいで。

、座れ」
「……うん」

 やはり現実に引き留められる。声に従って彼の隣に腰掛けた。何か言われるだろうと思ったが少し待っても彼は黙ったままだ。そういえばその「何か」を恐れて私は部屋を出たのだった。言われたくないことを言われると思った、けれど言われたくないこととは、私がなのか、天使がなのか、分からない。仕方なく私は口を開く。

「ごめん」
「謝る相手は俺じゃねえだろうが」
「……でも、私はノブナガの忠告を聞かないから。ごめんね」
「はあ、お前よお……」

 足の間に立てた得物に両手を乗せ、彼は私から目をそらした。その横顔は見慣れたもののはずなのに、いや、見慣れたものだと認識できたのに、そこから唐突に生まれる感情の波は私の知らないものだった。波を奥へ押し込む。ああこうやって私は感情を失っていくのかもしれない。
 昔から、こうやって、呆れたようにため息を吐いていた。この人は私と一緒にいた。そんなことは忘れてしまえと声がする。思い出す必要もないようなことだ。……だから私は忘れることにする。

「あいつに言わなきゃよかった」
「え?」
「シャルにお前のこと話したのは俺だ。……まあもっとも、言わなくても仕事はあっただろうから、結局同じことだったかもしれねえけどな」
「シャルが、来なくていいって言ったの嘘だよね」
「……さあな。あいつの考えてることはさっぱり分からねえ」
「ノブナガ」
「ああ」
「怒る必要なかったのに」
「俺だって別に、必要に応じてキレたんじゃねえっつーの」
「……変わらないね」
「そりゃ、ガキって言いてえわけか」
「まあ、そうだけど、違うよ」
「はあ?」

 私は何故変わらないと言えるのだろうか。それは過去のノブナガと現在のノブナガ、どちらの記憶もあるからだ。ほとんど昔のことを思い出せないのに、思い出そうとすることもできないのに、記憶自体はあるというのはこういうことなのか。
 確かにああやってすぐ怒るのは子供っぽいかもしれないが、子供だと言いたいわけではない。むしろその変化のなさは私の好ましく思う部分であり、私の中のこの人はそうあるべきだと思っている。こう思うこともできなくなるのだろう。いつか。そのいつかとは、明日かもしれないし、数年後かもしれない。けれどたぶん……。

「ねえそういえば、寝なくていいの?」
「なんだ急に」
「ここ来てそれなりに経ってるから……」
「おめーが寝てる間に少し寝た」
「……そう?」
「お前も女だからなあ」
「女だからなに?」
「あんま居座るのもよくねえとは思うんだが、一人にすると天使のことばっか考えんだろ?」
「……たぶん……でも、仕事までここにいるのは」
「まー、そりゃそうだけどよ」
「ノブナガが……いてくれれば、緩和されるのは、確かだけど」

 横目でこちらを伺う彼は続きを待っているらしい。私はきっと彼がいてくれることで意識を保っていられるのだ。それでもそこまでしてもらうわけにいかない。……と思う。

「大丈夫だよ。一人でも」
「何言ってんだてめえ。俺がいても大丈夫じゃねえんだから、一人で大丈夫なわけねえだろうが」
「でもそこまで……しなくても……」
「お前はどうしたいんだ」
「私は……それは、まあ……ここに住むの?」
「あ?」
「いてほしいって言ったら、ここに」
「……あー、そりゃそれが一番手っ取り早いがなあ」
「シャワーとか、着替えとか、あと食事とか、私は責任持てないよ」
「ガキじゃねえ……いや、住むのか俺は」
「何か他に問題があるの?」
「はあ……」
「……なに?」
「住むわけじゃねえからな。仕事までとりあえずいるだけだ」
「え、うん」
「いいんだな?」
「……私はいいけど」
「分かった」

 そう言うと彼はケータイを取り出し、時間を確認したかっただけなのかすぐにしまう。それから立ち上がってまた私を見た。一人分の体重がなくなったことでベッドが浮き、一瞬姿勢が不安定になる。

「一時間しねえで戻ってくる」
「どこ行くの?」
「必要なもの取りに帰るんだよ」
「あ……そっか」
「大人しくしてろよ」
「さ、騒がないよ」
「そうじゃねえ。ったく……じゃあな」
「あ、うん、また後で」

 猫背な痩躯が遠ざかっていく。やがてドアが閉まり、階段を下りる音が聞こえる。唐突に風が強くなった気がして窓を見るとやはりがたがたと鳴っていた。そういえばあれもどうにかしないといけないものなのだ。私と一緒に、古くなってしまったもの。
 他人との共同生活なんてあそこを出てから初めてだ。誰かしらが一晩泊まっていくことはあったけれど。
 ベッドに上半身を預け、力を抜く。また取り残されてしまった、と思う。けれど彼は戻ってくる。取り残されてなどいない。大事な人を失うわけではないと分かっているのに。……もう失いたくない。