あのときのかいぶつへ

 腕をつかむ手のひらは相変わらず冷たく、女から触れられたこと以上に男に驚きをもたらす。反射的に女の顔を見ると何か懇願するような表情をしていて、それにも男は少し動揺した。この女は自分に何を期待しているのだろうと考える。考えたって分からないということは百も承知だ。懇願しているような、何かに怯えているような、実際のところどういう感情なのか男には分かっていなかったが、ともかく少女だった頃には見せなかった顔であることは間違いなかった。それをこの数日で二度も見てしまった、と男は思う。
 手をそちらに出して、一度離れた手のひらを握る。冷たい。小さい、細い、白い。簡単に折れてしまいそうな指。けれど折れたところですぐに治るのだろう。

「ノブナガ」
「あ?」
「……なんでもない」

 どうやら今度は意識して名前を呼んだらしい。が、男がそれに応えると躊躇うような間を空け、俯いた。見ていると女は視線を彷徨わせて、ため息に似た吐息を漏らす。会話をしていなければあまり乗っ取られたと感じないのは、「天使」にとってまずいことを言われたら反応するようになっているということだろうか。うわごとのように男を呼んでいる時もあったが、あれは天使の話し方ではない。女が顔を上げる。あの、と呟く声は柔らかい。

「自分でも、何が起きてるのか、よく分かってないんだけど」
「ああ」
「でも……意識してないと、勝手に喋っちゃうってことは分かる。……制御しきれなくなったら、たぶん、私が消えるんだと思う」
「……かもな」
「それが……それを、怖いとか嫌だって思えるうちに、なんとかしたい」
「なんとかしなきゃなんねえの間違いだろ」
「……そうだね」

 女はまた落ち着かなさげに視線を彷徨わせた。繋いだ手に力が入る。自分が消えてしまうという恐怖すら、もう受け付けなくなるのかもしれない。それは女にとって大きな不安だった。感情が希薄になっているのが天使の影響かは分からないが、どんどん何に対しても心が動かなくなっていっているのは事実。
 もうほとんど傷もできないだろうと言った天使を思い出す。やはりあれは返り血ではなかったのだ。つまりこのまま完全に天使とやらになってしまうと、不死身になるのか。
 私このままかいぶつになっちゃうのかな。

「私、もう人間じゃないのかな……」

 少女の声と女の声が重なる。男は顔をしかめて女の手を引いた。消えかかっている自意識を精一杯表情に出した女は、それでも抵抗することなく男の腕に落ちる。そんなわけがないと否定した過去、少年はただ純粋にそう思っていた。今、明らかに人体としては異質な女を抱きしめながら、けれど男は様々な思いを一言でまとめてしまう。

「そんなわけねえだろ」
「……でも」

 女が、でも、ともう一度呟いて、結局黙る。女は明らかに、人体としては、異質なのだ。そしてそれを自覚している。だから男の言葉をただの慰めとしか思えないのだろうと結論づける。

「お前は余計なこと考えなくていい。なんとかしてやるから」
「……なんとかって?」
「そりゃ、今考えてるとこだ」
「ばか」
「うるせえ」
「あの、ありがとう、ノブナガ」
「……俺は何もしてねえだろ」
「そんなことないよ。……ほんとに」

 女は、男の体からいくら体温を奪おうと一向に熱を持たない両腕を伸ばし、男の服の端を掴んだ。それからしっかりと抱きついて、肩に入っていた力を抜く。男の視界で金属のきらめきがちらつく。外したら駄目になると女は言った。もしその駄目になるというのが死を意味するのだとしたら? しかしこれを外さなければ女は完全に人間ではなくなるかもしれない。そもそも症状の元凶がアンクレットだという証拠もない。漏れそうになる舌打ちを、背中に回された女の腕の感触で堪える。
 その時男のケータイが鳴り、女は体を離してそれをとるよう促した。

「ノブナガだ」
『もしもし? のことなんだけどさ』
「なんか分かったのか?」

 男がちらと女に目をやる。女は窓の方を見つめていた。

『結構前パクがあいつの記憶見てたの覚えてる?』
「覚えてねえな」
『その時パクが天使見たって言ってたの思い出して、パクに連絡したんだよ』
「ほお」
『そしたらパクも最近に会ってたみたいで』
「あー、それは本人に聞いたが。つーか今んとこいる」
『ええ……もっと早く言ってよ。なら状況はノブナガの方が分かってるんじゃないの?』
「ああ? 俺はパクに直接話聞いたわけじゃねえんだぞ。いいから何聞いたか言えよ」
『……今もいるんだろ?』
「そりゃな」
『今から行く』
「ちょっと待て。おい、シャルのやつが来るっつってるけどいいか?」
「え? いいけど……」
『じゃそういうことで』

 女の解答が聞こえたのか一方的に電話を切った相手に、今度は舌打ちを堪えきれない。女は戸惑いを隠せないといった表情でじっと男を見ている。
 振り回されている。女にも、天使にも。男はケータイをポケットにしまい、ため息を吐いた。女を中心として何人もの人間が動いているこの現状、一体誰が望んでいたと言うのだろう。
 かいぶつになんてなりたくない、と、少女の声が言う。だからなんとかするしかないのだ。男はもう一度アンクレットを見た。