少し眠るだけ
ある雨の日、天使は消滅した。全てを失った男はそれでも笑みを崩さず、ただ少女から目をそらしたのだった。
口の中で呟かれた謝罪の言葉が少女に届いていたのかは分からない。
いつか死んでしまうのかと尋ねたことがあった。数秒考えた後彼は、死ぬということはない、と答えた。
「死ぬっていうよりは、消える」
「おなじじゃないの?」
「……君からしたら同じことかもね。でも消える方が、少なくとも僕は悲しいよ。完全にこの世界からいなくなってしまうんだからさ」
「なんでいなくなっちゃうの?」
「悪いことをした。今だってそうだ」
「わるいこと……」
「罪滅ぼしのつもりだったのにな」
「どういうこと?」
「……ごめんね、」
今でも彼の言ったことはよく分からない。死ぬのと消えるのでは何が違うと言うんだろう。時々考える。死んだってこの世界からいなくなってしまうじゃないか。
結局私は彼の消滅に一瞬しか立ち会えなかった。既に半分以上が消えかかっていた天使に微笑まれたことは覚えている。失うということ。大事な人がいなくなるということ。私にとって初めての経験だった。失ってから私はあれを大事だと思っていたことに気づいた。……彼を大事だと思うことすらも侵食だったのだと言われてしまえば、言い返せないけれど。
天使が私を呼ぶ声を覚えている。手に触れた感触、冷たさ、そして青い瞳。消えてしまうだなんて嘘だ。こんなにも心に残っておいて。忘れないでと声がする。わすれない。わすれられない。忘れたくない? どこまでが自分の感情でどこからが侵食の影響なのか、もう分からない。
「起きてるのか」
「……ん?」
「お前、目閉じてるとマジで生きてんだか不安になるな」
「呼吸してるのに」
「そりゃそうだが。やっぱ寝れねえのか?」
「そうだね……」
また呼んでしまったのだろうか。とりあえず体を起こし外の闇に目を向ける。室内の照明が窓に反射して眩しい。この人が来てから何時間経っただろう。ベッドに腰掛けた彼がこちらに手を伸ばす。すぐ頬に触れるそれに温度はない。どうして。小さいという表現をした天使を思い出す。それは偶然だったかもしれないけれど、きっと彼も私の手の温度が分からなかったのだ。
「」
顔を上げる。漏れ出す記憶とは違う声だ。天使とは、違う。瞬きを何度かして、ようやく焦点を合わせることができる。
「、起きてるか」
「……起きてるよ」
「今まで目つぶって何考えてた」
「色々……昔のこととか」
「天使か?」
「うん」
「あんま考えすぎんな。勝手に出てきちまうのかもしんねえが、なるべくそいつのこと考えねえ方がいいと思うぞ」
「……それは、分かるんだけど、気を抜くとすぐ……なんていうか」
「浮かんでくんだろ?」
「そんな感じ」
「それ外さなきゃどうしようもなさそうだな」
彼の手が離れていく。視線は私の足首へ。アンクレットか。これを外すなんてできるわけがない。じっと彼を見ていたら視線が戻ってきてそのまま見つめられる。なんだかいつもよりも思考の復帰が遅い気がする。
「壊すぞ」
「……え?」
「それしか外す方法思いつかねえ」
「駄目、これは、外しちゃ駄目なんだって」
「だからてめえ、どう考えたってこれはまずいだろうが」
「ここにいるから。傍にいる」
「はあ?」
「僕が……私が……傍にいるって、言ったんだ」
「おい、! しっかりしろ」
「……あ、……え?」
「ったく……性質が悪いな」
「ごめん、私、何言ってた?」
「そんなん思い出さなくていい。どうせお前の言葉じゃねえだろ」
「でも」
「いいか、おめーのそれはぜってえ外すからな」
「だ」
「駄目じゃねえ。それは外す。言ってみろ」
「……は……はずせない」
「てめえいい加減にしろよ、天使だかなんだか知らねえがの体乗っ取りやがって。おい聞いてんのか」
「ちょ、ちょっと待って、天使はここにはいないよ」
「ああ?! じゃ、たまに出てくるじゃねえ奴は誰なんだよ」
「……ええとそれは、私が無意識に喋ってる時のこと?」
「そうだ」
私の体を乗っ取っている? 天使が? 彼がそんなことをするとは思えない。いや、でもこれは侵食なのだ。侵食? その根拠は? 私の無意識を操っているのは天使だ。いやでも。でも。でも!
「!」
「は、はい」
「考えすぎんなっつってんだろ。お前のあれは天使で、元凶はその輪っか、そう考えるのが自然で分かりやすい。だからそれを外すって理屈が分かってりゃいいんだよ」
「どうしてもこれを外すつもり?」
「……お前と同族にしたくはねえんでな」
「このままなら不死身になる。飲食も睡眠も必要ないし、もうほとんど傷もできないだろう。便利な力だよ」
「うるせえ。、おい、意識保っとけ」
「あ、え……うん」
「あー、めんどくせえ。なんだってお前はこんなことに巻き込まれちまうかなあ」
ずっと意識を保っていることは私にとって難しいことなのだ、と思う。大きくため息を吐いた彼から目をそらす。考えるな。思考はやめず、ただ、天使のことを考えすぎてはいけない。目の前のことに集中するのだ。私は隣に座る彼の手に縋る。窓が音を立てた。