君の渇望は我が遺志を焼く

「なんで来たの?」
「来るっつったろ」

 問えば当たり前のように返ってきた言葉。来るなんて言われただろうか。いやそれよりも、私が聞きたいのはその時来ると言った理由の方だ。
 風は先ほどよりも若干治まってきたようだ、と窓の音から判断する。彼の前にあるカップからは湯気が出ている。熱いのだろう。コーヒーを淹れ終わった彼に温度が分からないということの説明を求められたが、それについては言葉の通りだとしか言いようがない。冷たいとか、温かいとかの感覚がないのだ。最近ではもう水とお湯の違いも分からない。納得のいかないらしい彼にそんなようなことを言うと、ああ、だか、はあ、だか、とにかく曖昧な返事があった。
 ベッドは相変わらずぎしぎしと軋む。彼は床にあぐらをかいて座っている。私自身は裸足で生活しているがここに来る人間は土足なので、床は常に汚い。……どう考えても、足裏の汚れを気にするのならみんなに靴を脱いでもらうべきだ。それか私が靴を履くことを習慣づけるか。効率の悪い生活をしている、と、思う。

「お前コーヒー飲めなかったよな」

 彼の言葉に、窓から視線を戻す。微妙な差ではあるが室内の暗さに一瞬目が慣れない。まずい、早く頭を働かせなければ。瞬きの間に彼が顔をしかめてこちらを見た。

「なんだその顔」
「……どういう顔?」
「アホみてえな顔」
「なに、それ」
「そのまんまの意味だ」

 阿呆。ぼーっとしているのとは違うのだろうか。一旦視線を手元に下げ、それから元の質問に立ち返る。コーヒー飲めなかったよな。それをすする音。私は……。

「私コーヒー飲めなかったの?」
「……ああ?」
「あ……ごめん。コーヒーは飲まないけど、なんで?」
「……お前は飲みもしねえのにコーヒーを置いてるのか?」
「ああ、いや、それはパクが」
「パク? 来たのか」
「うん。……ちょっと色々……」

 あれをどう説明したものか。記憶を調べてもらうために会ったというのはあるが、その後の天使云々。というかこれは他人に話してもいい類の内容なのか。それに話すと言ったって、私が正確に事態を説明できるとは思えない。私は立ち上がりメモ帳を取った。彼の視線がついてくる。ついでに、金属音も、絡みつく。
 パクノダが来た日、たった数日前のことですら鮮明に思い出せないのだと、読み返してみて衝撃を受けた。そういえばノブナガがここに来る前も私は力を使いそうになった。でもあれは忘れたというより、天使がそれを押しのけて出てきたような。そのページの最後に、重要なのであろうことが、たぶん彼女の字で大きく書いてあった。それをじっと見つめていると彼が覗きこんでくる。

「名前?」
「……名前を忘れない……」
「自分の名前忘れるってのか?」
「まさか。……いや、あながち否定できないかも」
「ちょい見せろ」
「面白いこと書いてないよ」
「見られちゃ困るのかよ」
「うん。……ん?」
「あ?」
「あ、……ええと、私今なんて言った?」
「はあ? お前、こないだもそんなだったがなあ」

 彼はそう言って呆れたようにため息を吐く。気を抜いていたわけではない。それでも会話をしているとどうしても無意識とやらが働いてしまうらしい。こないだとはつまり、彼の家に行った時。たまに相手の名前を呼ぶ。時々私の名を呼ぶのに気づいてる? それを確か彼にもやっていたのだ。そうしている間に彼がメモ帳を私の手から奪い取った。あ、と声が漏れる。

「なんだこりゃ。日記か?」
「……みたいな感じ? 記憶が、なんていうか、はっきり昔のこととか思い出せないんだよね」
「……なるほどな。そういうことか」

 小さな舌打ち。何に苛立っているのだろう。じっくり読んでいるのは、天使について細かく書いてあるところだ。現状私の体に起きている異変と私の記憶の中の天使、それらから私はこのままだと「天使」になりかねないというようなことが書いてある。

「そういやそれ、昔からつけてたっけか」
「え?」
「アンクレットってそれのことだろ?」
「ちが、違わないんだけどこれは」
「外れねえってんだな」
「そう」
「天使様から外すなってご命令でもあったか?」
「あった」
「……それを外すとどうなんだ」
「私が……駄目になる」
「これ以上どう駄目になるっつーんだ、おめえはよ。おい

 腕。
 腕を掴まれる。意識がはっきりとする。彼と目が合う。今私は。今、私は何を。きっと天使が何か口走ったのだろう。あるいは無意識が。気を抜いていたつもりは、ないのに。思い出せ。何を言ったのか、何を言われたのか。下手な洗脳よりきついわね。そうだ、これは侵食。誰にも止めることのできない、天使の侵食だ。。彼の口が動く。意識を保っていたい。私はいなくなりたくない。お願い。お願い!

「お願い。名前、呼んで」

 私の腕を掴んでいたその手、骨ばった、細い指を、私の腕から外して握る。一瞬驚いた顔になってから彼は手を握り返してくれる。不意に泣きたくなった。でも、涙なんて、出るはずがなかった。