そこに意味はあるか?
思考することをやめてはいけない。私が私であるために、私をこの体に繋ぎとめておくために。目を開ける。暗闇の中、白い両手が視界に入る。いずれ完全に睡眠を必要としなくなるのだろうと目が覚める度に思う。体を起こしてカーテンを掴んだ。
昔のことを思い出そうとする。彼らと過ごした日々を。けれどやはりもやがかかったように見えなくなってしまう。頭痛を伴う場合もある。思い出すことを、制限されている。パクノダの言葉を思い返すことができる、今はまだ。彼女に言われ、思い出せることやその日起きたことをメモ帳に書いている。まともに食事をとっていないことも言われるまで気づけなかったのだから恐ろしい。なるべく食べた方がいいのだろうと思い、思い出したら食べるようにはしたが、これに意味があるのかは分からない。
アンクレットにホックのようなものがないことは確認した。小さい頃だからつま先から足首まで通したのだろう。ただの輪っかであるそれを外す術などない。ないはずだ。
外が曇っているせいでカーテンを開けてもあまり光が入ってこない。おまけに風も強そうだ。私は言うことを聞かない窓を動かし、外に出た。スカートも髪も大きくなびいている。時々吹く、飛ばされそうになるほどの突風。片手で邪魔な髪を押さえもう片方の手で柵を握った。
どうして、私は外に出てきたのだろう。少しして不意に疑問が浮かぶ。空を見上げる。あなたは私をどうしたいの? 渇いた目を休ませるため閉じる。次に開けた時、たまたま眼下の街並みの中を歩く男が見えた。
「ノブナガ」
呟いた声は風にかき消されてしまう。柵を握る力が、知らず強くなる。そして思い出す。力を使わないようにしようと言われたことを。だからあそこに行くには、玄関から出て街を歩かなければならない。けれど誰に言われたんだ? 本当に使ってはいけない? 一体何故? 足首ではちりちりと音がしている。
!
彼女の声が頭に反響し、我に返る。今私は何を考えた? 息を飲む。ここにいてはいけない。窓を開け、室内に戻る。彼を探しに行こうか。でもあのあたりまでどう行けばいいのかも、彼がどこまで歩いたのかも分からない。窓の鍵を閉める。ベッドの上のケータイを手に取る。電話番号が表示されてからはたと気づく。上から行けばいい話じゃないのか? テーブルに置いてあるメモ帳が目に入る。いや、パクノダと話したじゃないか。そうだ。能力を使うと悪化するかもしれないから使わないで様子を見ようと。ため息を吐く。全く、こんな調子では一瞬も気を抜けない。
『もしもし』
「もしもし。だけど、ノブナガ?」
『ああ、どうした』
「ええと……今家から見えた、んだけど」
『向かってるとこだからな』
「え、……うちに?」
『まずかったか?』
「全然。分かった」
何故ここに来るのだろう。電話を切った後思う。……そんなのは来てから聞けばいいことだ。テーブルにケータイを置き、ベッドに腰掛ける。立ったまま電話をかけるほど慌てていたとは。慌てていた? 何に? そもそも私はどうして彼に電話をしたのだろう。見えたからと言って会う理由などない。そういえばこの間だってわざわざあそこまで行く必要はなかった。勝手に出てきた言葉。ならばそれは天使の意志なのだろうか。私の中に天使がいて、現状それに侵食されているのだとしたら。いや、行動が無意識下で行われているのだとするとむしろ、自分でも気づいていないような思考がそのまま言葉や態度に出てきている可能性が高い? 考えれば考えるほど分からなくなっていく。
思考をやめてはいけないというのはこれほどまでに、疲労を伴うものだったのか。
「よお、」
数十分後、律儀にインターホンを鳴らした彼を迎え入れる。この部屋に来たのは何年ぶりだろう。遠い昔のように思えるが、覚えていないだけだろうか。
「おめえよくそこから見えたな。見えてすぐ電話してきたんだろ?」
「え? 見えるよ」
「……まーいいや。ここも変わらねえなあ」
「そうかな。あ」
「あ?」
「……コーヒーしかないけど、飲む?」
「なんだ、今の間」
「うーん……あの、私温度が分からないみたいで」
「温度が分からねえって」
「だから自分で淹れた方がいいと思うよ」
「……お前、そりゃ体が冷たいのと関係ある話か?」
「……そうだね」
彼は頭をかいた後、得物をベッドわきに置いて台所に移動した。数日前にパクノダが使い、洗ってから置きっぱなしだったやかんに水を入れる。私はこれも彼女が置いていったドリップコーヒーを一袋取り出してそれとコップを用意した。私はコーヒーを飲まない、が、それも飲む必要がないからだったらしい。飲み物の類がないことに驚いた彼女に言われて初めて、最近家で何かを飲むことがなかったと気づいた。コーヒーはその時に買ってきてくれたものだ。まあ私はまだ一度も飲んでいないけれど。
「お前は?」
「いい」
「そうか」
どうせ今は味も温度もほとんど感じられないのだ。食べるという行為は生活に組み込んでおきたいからしているが、飲むことはそんなに重要視できない。それに食事だって味が濃いか薄いかくらいしか分からず、ただ「味がある」ということが分かるうちにこの症状に気づけてよかったと思う。温度に関してとは進行具合が違う。
「何もねえな」
彼が冷蔵庫を眺めてそう呟いた。確かに何も入っていない。今は基本的に食べる時にコンビニかスーパーに行くという風にしている。もしちゃんと三食食べるようになったらその時は自炊するかもしれない。必要もないのに食事に金を払うのは無駄な出費だが、逆にそんなものを盗む気にもなれないので金を払っている。どうでもいいこだわりだと自分でも思う。冷蔵庫が閉まる音。やかんの底で水分が熱されている音。誰も食べないのにお菓子など置いておくのも腐らせるだけだと思っていたが、あるものを食べるくらいのことをした方がいいのかもしれないし、こうして人が来た時に困る。
お湯が沸いて、彼が火を止める。