キルミーダーリン
明日の朝戻ります。ケータイの画面に表示されている文字を何度か読み返す。何かあったのだろうかという思いと、一応一晩話さなくて済むという思いが交互に浮かぶ。八時頃には戻れると言っていたのにな。彼がそういう宣言を破ったことはほとんどなかった。あるにはあるが、それも弟子時代にあった気がするなという程度。つまり結婚してからは一度もない。しかも、メールでのやり取りなんて久しぶりにした。いつも何か用事がある時は電話をくれる。昔メールは苦手だと言っていたのはたぶん本当のことだ。なら何故今回はメールなのか。電話できないところにいるから? 電話だとまずい事情があるから? 考えすぎかもしれない。単に私が寝ていると思ったとか、そういうことかも。何かあったんですか、なんでですか、何時頃ですか、色々書いてどれも消す。分かりました。電話じゃなくてよかった。
当たり前の話かもしれないが、全然寝れない。考えなきゃいけないことが多すぎて、頭が寝ようとしてくれない。何をどう言えばいいのだろうか。そもそも全部知るのが本当に彼にとっていいことなのか。どこまでだったら被害は最小限で済むか。全部言えばいい話なのだろう。たぶん私は彼に言えと言われれば隠しきれない。そこだけ正直でどうするんだ。怒られたくないなあ……。
いつの間にか疲れて寝たらしい。目が覚めると、朝の五時だった。結局二時間くらいしか寝れなかった。彼の気配はない。まだ帰ってきていないようだ。少し安心して煙草を吸いに出る。何時に戻ってくるのかは分からないが、二度寝したら確実に昼は過ぎる。ニコチンの摂取で眠気は多少軽減されるのだ。健康に悪そうな解決方法だと分かってはいても、他のことをして眠気が覚めたことがないのだから仕方ない。今日の煙草はなんだかおいしくない。
ウイングさんが帰ってきたのはそれから一時間ほど経ってからだった。
一目見て、すぐに何かあったなと分かった。オーラが忙しない。表情が硬い。目が合わない。なんだ一体、何があったんだ。おかえり以上の言葉を発することができず、ただソファーから見守っていたら、彼が私の近くまで来たので思わず立ち上がる。やばい。こんなウイングさんは見たことがない。
「これを」
「えっ」
彼が何か差し出す。受け取ると、昨日落としたイヤリングだった。
「君のお友達からです」
ウイングさんの声が震えている。怒っている。指先が冷えきっている。
やばい。やばい。なんてことを。あの野郎……!
「ごめ……」
顔を上げた私の目に入ったのは、どれが一番の感情なのか分からないほど複雑な表情をしたウイングさんだった。出かけた言葉が止まる。目が合う。泣いた痕がある。この人が泣いた?
「私では、駄目でしたか?」
絞り出したような声。
私は息を飲んで、叫ぶ。
「ちが」
「それなら何故……私が気づけなければ隠すつもりだったんですか? 話すと言っていたのは……どうして……どうして気づかなかったんだ。君が夜中出かけるのはそのためだったんですね。友達だと……」
ウイングさんが顔をそらし、深呼吸する。その姿がぼやける。違うのに。嘘じゃなかった。でも私が浮気をしたのは事実だ。何を言えばいい? 何を……。うつむくと、こぼれた涙が毛先や床に吸い込まれていく。彼の両手が強く握りしめられているのが見える。
「ごめんなさい」
嗚咽が混じる。
「ご、め、なさい……」
「……どうして謝るんです」
他の男に恋をしたこと。それを捨てられなかったこと。今まで黙っていたこと。あなたに許されないことは分かっていたんです。体を許した相手が何人かいること。心を奪われなかったことを盾に、最近までその関係を切れなかったこと。全部悪いことだと分かっていたのに、私はそこに足を踏み入れてしまった。心臓が騒ぐ。呼吸が正規のリズムで行えない。謝る理由なんていくらでもある。それなのに喋ろうとするとつっかえてしまって結局何も言えない。呼吸を整えようとしても涙のせいでうまくいかない。手の甲でそれらを押さえこむ。端からまた流れていく。ため息が聞こえた。ごめんなさい。ごめんなさい。お願いだから私を捨てないで。
「それが落ち着いたら全部話してくれますね」
「……はい」
玄関に置きっぱなしだった荷物を持って、彼は自室に戻る。私は手の中のイヤリングを見た。つまり落としたのではなく、あいつに盗られたということなのだろう。落として気づかないわけがない。でもあいつが盗ったのなら、私では気づけない。家の場所がバレているのだからウイングさんを特定するのも難しくない。あとは渡せばいいだけだ。なんで、よりによってあんな奴を……。床に膝をついてぼろぼろと涙をこぼす。握ったイヤリングの装飾が手のひらに刺さる。……死んでいく。