ジェントルマンショコラ

 たどり着いた駅のベンチに腰を下ろして、煙草を取り出す。手が震えてうまく火をつけられない。やっとのことで吸い込んだ煙は涙を助長する。結局満足に吸いきることもできず地面に落とす。
 何やってるんだろう。空を見上げる。薄く雲がかかっていて、ところどころにしか星が見えない。そんなことまで私の心に傷を増やす要因になる。私が悪いわけじゃない。私が悪い。忘れたい。何もかも。深呼吸する。嗚咽が多少緩和される。ケータイを持ち上げる。着信音を聞いた瞬間、安堵だとか後悔だとか、期待だとか、絶望だとか、ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情が私を襲った。

『もしもし』
「たすけて」
『今どこ?』
「えき」
『ん』

 たったそれだけの会話で氷が溶けていく。だって彼になんて言えばいいのか分からない。男に捨てられたから慰めてください? 自分以外の人間のところから泣いて帰ってきたのだとしても、その妻を責めることはたぶん彼にはできないだろう。でも今面と向かって彼に真実を告げる勇気は私にはない。彼を頼ることはできない。潰れるのは私の方だ。なんてこと言って、結局は単純にその後怒られるのが分かっているから帰りたくないのだ。子供みたいなことをしている。ああそうだ、反抗期の家出少女が出会ったのは快楽殺人鬼だった。

 呼吸が落ち着いた頃改めて煙草を吸っていた私の前に、奴は現れた。黙って私の隣に座り、煙草の先端あたりに目をやる。私がそちらに視線を動かすと、目が合った。真顔を歪ませていつものような笑みに変えるヒソカを見て、私はまた近くの植木に目を戻す。あれだけ流したのにまだ出てくる。息が震え、煙草の火を消した。煙草がおいしくないと感じたのは初めてかもしれない。ニコチンが風景を揺らす。目を閉じて呼吸を整える。鼻がつまっている。普通に呼吸したいのに、どこかでリズムが狂う。ファンデーションが手につくのさえどうでもよくなって、両手で顔を覆った。
 さっき、煙草に火をつける直前、知らない奴が目の前で二本指を立ててきた。ライターを向けると逃げるように去って行った。女だと思われていることに焦りだか怒りのようなものを感じる。別におかしなことではない。こんなところで一人で座っている方が悪いのだ。でも植木のそばでしゃがんでいる女の子がここからは見える。私はベンチで煙草を吸おうとしていただけだ。顔を覆っていた手を離し、鞄からティッシュを引っ張り出した。

「見んな」
「見せてよ」
「やだ」

 太ももに肘をついてこちらを見ていたヒソカは、肩をすくめ前の景色に目を移した。鼻をかみベンチ脇にあった缶のゴミ箱にそれを投げ入れる。ついでにぬれた手もティッシュで拭く。声を出すとまだ続きそうだなと思う。たぶんまだまだ出てくる。枯れるものならさっさと枯れてほしい。ものすごくストレス解消になっている気はするけれど。
 手持無沙汰になり、また煙草を手に取った。ライターの音に反応してヒソカがこちらを見る。何も言わない私に、視線を移動させることもしない。そこまでして何を見たいのか分からない。慣れたものは慣れたが、こういう時見られると一種の気まずさは感じる。そろそろ泣きすぎて頭が痛い。
 吸い終わると突然腕をつかまれ、驚いて顔を上げる。見たくなかった、真剣な顔。腕を引かれるままに立ち上がり、歩くとすぐ近くに止まっていた車に乗せられた。車を持っていたなんて知らなかった。別に知らなくていいことだ。

 しばらく走ると見覚えのある景色に変わった。こいつの家に向かっているのだ。当たり前のことかもしれない。危機感の足りない頭で思う。手を出されたら殴るくらいの元気は残っていた。
 マンションに入ってから部屋に着くまで、ヒソカは私の手を離さなかった。私もそれを振り払うことができない。人間の温度に少し驚いてしまった。身長のせいで親に連れられている子供のようだ。

「真っ赤」
「目?」
「顔も」

 エレベーターの中は密室だ。繋いでいない方の手でヒソカが私の頬をなでる。その冷たさに、自分の顔がどれだけ熱を発しているか分かった。恥ずかしくなってうつむく。頭に手が乗る。そして目的の階に着く。
 部屋は前に来た時よりも随分片付いているように見えた。元々あまり生活感のない部屋ではあったが、それが如実になっているというか。酒やら食べ物やらがテーブルに乗っていないせいもあるのだろう。ソファーに座らされ、上着を脱いだ。

「水飲む?」
「あ、うん。手洗っていい?」
「いいよ」

 キッチンからの声に応え、立ちあがった。キッチンでは何やら色々なお酒らしきものが並べられている。水をもらい飲みながらそれを順に確認していく。前に飲んだのとは違うウイスキーだ。これは生クリーム……?

「駄目だよ、見ちゃ。あっちで待ってて」
「え? ああ、ごめん」

 言われるままにソファーに戻り、ヒソカを待った。三時になろうとしている。そういえば伝線していたんだった。ストッキングの隙間をいじる。いつから伝線していたんだっけ。そろそろ爪切らなきゃな。そのうちにヒソカがグラスを持ってきた。白っぽくジュースみたいな見た目だ。ジュースというか、違うな、カフェオレのような。ソファーが重みに沈む。

「お待たせ」
「ありがとう。何これ?」
「飲めば分かるよ」
「……チョコ? あとコーヒー」
「ジェントルマンショコラ」
「え?」
「甘いの好きだろう?」
「うん」

 チョコレートリキュールだろうか。ウイスキーは入っているのだろうが、あまりアルコール臭さはない。デザート感覚で飲める。これとは別にグラスを二つ、いつものワインを持ってきていて、ヒソカは自分の分だけそこに注いだ。

「おいしいかい?」
「とても」
「疲れてたんだね」
「びっくりするくらい泣いたもの」
「シャルナーク?」
「よく分かったわね」
「君らが会うの、いつもあのあたりじゃないか」
「そうかも」
「いないの?」
「……旦那?」
「うん」
「いるわよ。ほんとは帰らなきゃいけないんだと思う」
「ねえ」
「なに?」
「キスしていい?」
「……えっ?」
「もっとこっち来て」
「あ……あんたとは何もやらないわ!」
「キスだけで全部忘れさせてあげる。何も起こらなかった。ここは君の友達の部屋だから。飲んでたら泣いちゃっただけで男に何かされたわけじゃない。……でしょ?」
「……な、なんで……なんなのよ……」
「緊張してる?」
「そうじゃなくて……」
「目閉じて」

 頭が痛い。チョコのせいだ。生まれてはいけない感情が押し寄せる。また涙を流す。ワインの味がする。記憶がどんどんあふれてくる。だってあんなのあいつが、あんなこと、なんなの、でも私が、言い訳と、後悔と、色んな感情があふれ出す。息と共にたくさんのそれらがこぼれる。頭が痛い……。