アイスグリーン

 これが最後。これが最後になる。これで最後にする。だから許して。私は悪くなかったって言って。目の前の男に手を伸ばしてその緑に沈んだ。一瞬こちらの重みを突き放すような目をしてから、再び戻ってくるのは氷のように冷たい暖かさだった。
 考えてみたら私からもう会えないなんて連絡をする必要はなかった。いつも私が誘う側だったのだから、これから連絡をとらないようにすればいい話だ。でも、言い訳を述べる場があるなら、私はこの男にもう一度抱いてもらうことでけじめをつけたかったのだと言う。未練がないわけがなかった。それを断ち切るために会おうと思った。最低なストーリーしか生み出さないと、分かっていたはずなのに。

「どうしたの、今日? かわいい顔してる」
「なによそれ」
「ほんとだって。ねえ冗談でしょ?」
「それこそ冗談でしょ」
「俺はこんなに君のこと好きなのに?」
「好きって、なによ……」

 好きなんて言葉に騙されるほど。言葉をつむぐ前に息に変わる。いつもいつもこの男は行為の最中よく喋る。それに酔いそうになる。心と体が一致してしまいそうになる。そういう言葉づかいがうまい男だった。気分をよくしてくれるから金を払っていたというのもある。それがなんで本気で私を好きみたいな態度をとるんだか分からない。デートにしたってそうだ。性器でものを考えているとしか思えない。もっと頭の回る人間だと思っていた。私のことを何も分かっていないのだ。分かっていると思わせるような話し方をするだけなのだ。だから惑わされてはいけない。
 でも、頭が回る男だからと言って私のことを好きにならないと言い切れるわけではないことも知っている。

 ベッド横の照明が手元を照らす。シャルナークは座って私の髪をなでている。終わるのは怖い。それも自分の手で。そうやって繰り返してきたのに、何故思考の流れを変えられないのだろう。手つきが優しすぎて、彼の顔が浮かぶ。

「信じてよ」
「……なに?」
「君とはずっとセフレとしてやってきたかもしれないけど。これでも人間なんだからさ」
「でも信じるには今までが」
「俺のこと、逃げ場にしてくれてた」
「……それは否定しない」
「手放して後悔しないの? 俺はもう君と会えないなんて嫌だよ」
「なんでそんなこと言うのよ! 私だって、できるならこの関係を続けてたかった。けどこれが悪いことだなんて分かり切ってたじゃない」

 体を起こしてシャルナークと目を合わせる。なんであんたがそんな顔するの、泣きたいのはこっちの方だ、あんたと関係を持たなければよかった。色んなセリフが頭を駆け巡って、だけど顔を見たら何も言えない。私は人の目を見れない。強い口調がしぼんでうつむく。男の手がシーツを握りしめる私の手に重ねられる。
 嫌いなんじゃない。どちらかと言えば好きな部類に入る。でもそういう感情を抱く相手ではなかったし、抱けなかった。それでよかったはずだ。

「うまくいってないって言ってたのに」
「うまくいってないわけじゃないって言ったわ」
「顔に出てたよ」
「何も分からない癖によく言えるわね」
「分かるよ。君分かりやすいもん。よく見てればどこまでが本音だかぐらいすぐ分かる。時々すごい俺のこと好きって顔するっていうのも嘘じゃない。勘違いさせられるのが怖いと思うくらい。……君が旦那さんが一番だってことは分かってるよ。二番目でもいいよ。優しくしてあげる」
「……私のこと困らせてどうしたいのよ。この関係を続けてその先何があるの? 逃げ場なら最後まで逃げさせてよ。あんたの気持ちを否定したいんじゃない。ただ私はあんたがどう思ってようとこれで……」

 シャルナークが私を抱き寄せる。涙をこぼしてしまいそう。だから手遅れになる前にやめておけばよかったのに。ここにいるのがこの男じゃなくたって、私はこうやって背中にしがみつくように腕を回していただろう。頭の中の冷えた部分でそう思う。
 シャルナークがため息を吐いた。

「これは無理だなあ」
「え?」
「全然俺のこと好きにならないみたいで癪だったから、奪ってやろうかと思ったんだけどね。君って思った以上に俺に興味ないんだ」
「……なにそれ」
「忘れていいよ。全部嘘だから」

 その言葉でようやく状況を理解した。そういうことか。そういうことだったのか。強ばった体から力を抜くために息を吐き、言葉を吐く。

「最低ね」
「どっちが?」

 思わず笑い声が漏れた。こんな男のために心を揺らしていたなんて、私は馬鹿だ。体を離され、上がっていた口角を下げた。それでも嫌いになれない。どれだけ傷ついたか分からないのに。まあ自業自得なんだけど。ベッドから降り、服を着る。

「君の、全部諦めたみたいな目、気に入ってたよ」
「私もあなたのこと気に入ってたわ」
「だよね」
「お金置いとくから」
「いいよ。最後なんだろ?」
「最後だから私が払う」
「はは……払うって言うならもらうけどさ」
「じゃあね」
「ばいばい」

 涙を流さなくてよかった。最初と同じセリフを吐かれた。なんで一瞬でもあの男に気を許したのだろう。そのせいでいらない傷を負ってしまった。自業自得だった。完全に。大きく息を吐く。こんな深夜にホテル街を一人でうろつくことになるとは思わなかった。目障りなネオン。色とりどりの看板。ケータイを見るとまだ二時だ。どうやって帰れって言うんだ。
 全部捨ててしまおうかと思った。できないのを分かっていた。目の前がぼやけた。大粒の雨が伝った。止んでくれない。悲しかったんだろうか。すれ違い様、男の視線が刺さる。見ないでよ。好きで泣いてるんじゃないのよ。やめてよ! 私は走った。電車もないのに駅に向かった。転びそうになった。それでも、止まるわけにはいかなかった。