酸いも甘いも飲み干して
どうしようもなくなった時逃げ込む場所は決まってビスケ先生のところだった。男に会うのもウイングさんに会うのも難しくなった時。ビスケ先生は私の考えを改めるのに最適な人だった。
ビスケ先生とはまだ三年ほどの付き合いだが、とてもよくしてもらっている。師範代を目指す私を指導してくれたこともある。ハンター協会現会長ネテロさんの直弟子なので、そんなに気軽に稽古をつけてもらうことなんて普通できないはずなのだけれど、そのビスケ先生の弟子の弟子ということで可能になっているのだ。稽古の時はそれはもう厳しい人だ。まさに鬼教官。それがことプライベートな恋愛話となると目を輝かせてこちらの話に耳を傾けてくれるのだから面白い。結婚に踏み出せたのもビスケ先生のおかげという面が大きい。
ビスケ先生は豪邸に住んでいる。あまり節制などしたくない性格なのだろう。お金持ちの住む家だと一目で分かる。中に入れば宝石やら骨董品やら美しい装飾品が並ぶガラス張りの棚に、豪奢なシャンデリア。何度来ても気後れしてしまう。住む世界が違いすぎるのだ。
少女の姿をしたビスケ先生が出迎えてくれた。今日はその長い金髪をポニーテールにしている。
「ひっどい顔。今度は何があったのよさ」
家に入ってすぐ言われたのはそんな言葉。この師弟はどうしてすぐに顔色で分かるのだろう。それだけ私が分かりやすくひどい顔をしていると言うこともできるだろうが。
もちろんビスケ先生に具体的な情報は与えていない。ウイングさんにどう伝わるかも分からないし、何があったかちゃんと話さなくてもなんとなく察してくれるからだ。私が悩んでいると伝わるのは構わない。
「夫婦揃っていつまであたしの世話になるつもり?」
「え?」
「こないだウイングもあたしのとこ来たわよ」
「そうでしたか……」
「若いんだから本人同士で話し合いなさいって言ったんだけど、あれはほんと、肝心な時にへたれだわね」
そうか、ウイングさんが。そりゃ悩むよな。ため息が漏れる。ビスケ先生はそのままお茶を淹れに行ってしまった。上着を脱いで鞄と共にソファーに置き、腰を落ち着けて先生が来るのを待った。
アセロラティーが苦手だと何度言っても先生が出してくれるのはそれだ。真っ赤な水面を覗き込む。何度目かのため息を飲み込むために液体に口をつける。
「あんたはあたしに何も話さないでしょ」
「はい」
「でも旦那にまで何も話さないのは違うんじゃない?」
「……分かってます」
「分かってるでしょうね。だからそうやって時々ひどい顔をするの」
「そんなにひどい顔してますか」
「それでよくウイングに何も言われないものだと思うぐらいにはね」
「……ウイングさんは……」
「あたしからしたら二人とも若すぎる。達観なんてせず悩んでしかるべきだと思うわ。今いっぱい悩んでそれがあんたらの未来に繋がるならそうするべき。だけどそれに溺れちゃ元も子もないのよ。あんたは変に思考に足をとられる癖があるわね? しかも自覚がない。行動が空回りしてもなんでそうなったか分からない。だから繰り返す」
何も話していないのに。アセロラはおいしくない。占いでも始めたら稼げるんじゃないかと思う。ひどい顔をする原因がまるで全てバレているみたいな気持ちになる。こういう時じゃないと会いたくない。こういう時だってすぐに帰りたくなる。先生の、赤いワンピースの裾を見つめる。思考に足をとられているのは分かっているのだ。けれどたぶん本当には分かっていない。だから。
「ウイングはそんなに頼りない?」
「そ、そんなことないです」
「じゃなんで頼ってやらないのよ」
「だって……」
「あんたごときに頼られて潰れるようならそこまでの男だったってことだわさ。あんたはそこまで分かっててあいつの手をとるのを怖がってるんだろうからあたしが何言っても無駄かもしれないけど、覚えときなさい。あいつは絶対あんたを見捨てたりしない」
「……はい」
「ったく、なんであたしがこんなこと言わなきゃなんないのよ」
いい加減にしてとでも言いたげなビスケ先生に笑みを返し、ソファーに背を預けた。先生は私をじっと見た後、自分のカップを手にとる。心拍数が治まっていく。ふと窓から空を見上げた。