天使の深部
帰還してすぐカリバーンの部屋に行ったものの、しばらく待っても目を覚まさなかったので、プリトヴェンに任せて自室に戻ることにした。ゆっくり休んでとプリトヴェンに言われ、部屋を出る。
慰められるということが、これほど苦しいとは思わなかった。心配しているのか、出る直前に彼の浮かべた笑顔を思い出す。私は、もう子供ではない。あの人の中ではいつまで経っても、妹なのだろうけれど。
体を流し、報告書を書き終え、倒れるように眠りについた。ノックの音で目を覚ましたことで、想像以上に疲れていたらしいと気づく。今日は兵たちに休みを言い渡しているし、私も報告書を団長に届ける以外やることはない。時計を見ると昼食の時間を過ぎたところだった。この中途半端な時間に人が訪ねてくる用事に心当たりがなく、ぼんやりと考えながらベッドを下り、一応体裁を整える。
「さあん」
ドアノブに手をかけたところで、間延びした声が聞こえ、肩の力を抜く。ドアを開けると、その向こうにいたアリアが嬉しそうな顔をした。
アリアの用件は、街で食事でもどうかという旨だった。アリアの隊もたまたま休みだったらしく、朝から誘いたいと思っていたが、私が討伐帰りなので悩んでいたとのこと。目が腫れていることには触れずにいてくれた。シャツのボタンを閉め、適当に髪をまとめる。随分懐かれたものだ。
アリアに連れてこられた喫茶店は、様々な国に行ったことのある店主が経営しているらしく、見たことのない料理ばかりだった。よく来ているというアリアにコーヒー以外の注文を任せ、窓の外を見る。
カリバーンは、目を覚ましただろうか。夜にでも見舞いに行くか。腕と足以外──内臓などは問題ないと聞いているが、せっかく街まで来たのだし果物か何か買っていってやろう。
「こういうとこ、来ないんですか?」
考えていると、注文を終えたアリアが言った。
「来ないな。まず街に用事がない」
討伐の帰りが朝以降になった日は隊長判断で休んでいいことになっている。ただ、隊員の希望があれば夕方以降訓練をおこなうし、そうでなくとも会議などの予定があることが多いため、よほどの用事がなければわざわざ街まで出向いたりしない。有事の際に動けるように地理は把握しているが、喫茶店などに入ることはまずないので、なんだか新鮮だ。
「さん忙しそうですもんねえ。ちゃんと休んでます?」
「健康状態は維持している」
「ええ?! そうじゃなくって、なんか、癒されたりとかあ。お休みの日なにしてるんですか?」
「……自主訓練と……事務仕事」
我ながら休日とも思えない過ごし方だ。特に問題ないのだが、アリアは案の定頬を膨らませた。
「じゃあ、趣味とかは?」
「……本を読むのは好きだよ」
「へー! 意外!」
「そうか……? 君は?」
「趣味っすか? ひみつ!」
「なんだ、人に言わせておいて」
「えー、とくべつですよ」
「いや、言いたくないなら」
「歌うことです!」
「言うのかよ」
「えへ。あ、ありがとっす」
頼んでいたコーヒーとなんらかのジュースが運ばれてきて、息を吐く。テンションの高いやつだ。
「さんは、おとーさまと仲良いっすか?」
ひとくち飲んで、またアリアが口を開く。
「……どうだろう。不仲と思ったことはないけど……あまり一緒に過ごすこともないから」
「あ、そっかあ。ママは?」
「母は、私が九つの時に亡くなった」
「えっ、ごめんなさい」
「え? ああ、ごめん。気にしなくていいよ」
「じゃあ……ごめんついでに聞いてもいいすか?」
「ついでってなんだ。構わないけど」
「どんな人だったんですか? さんのママ」
「どんな……」
母のこと。これまでの人生のうち三分の一程度しか接していない、記憶の中のあのひと。その割合は、私が生きた年数が長くなるほど減っていく。窓の外に目をやると、母子が手を繋いで歩きながら、笑っている。母が作ってくれるスープの温かさと、それを飲む父の姿。その映像には、どう頑張っても音声がつかない。でも、よく笑う人だった、と、思う。
「やさしい人だったよ」
分からないけれど、たぶんそうだったし、何より、そういうことにしておきたかった。思い出から現実に意識を戻し、コーヒーを口に含む。
「……さん」
顔を上げると、アリアが悲しそうに私を見ていて驚いてしまう。
「どうした?」
「いえ……いいなあって思って」
「……いいな」
「あはは……そう。ごめんなさい」
「……謝る必要はないが……」
親と仲が悪いのだろうか。言葉を選んでいる間に料理が運ばれてきて、口を閉じる。そこから視線を戻した時には、アリアは普段の楽しそうな笑顔を浮かべていて、完全に機会を逃してしまったことが分かった。
結局その後もアリアが話題を提供し続けたので、何も聞けないまま店を出た。あまり抱え込まない性格に見えるが、今日が駄目でも、どこかのタイミングできちんと聞くべきかもしれない。
「帰りますかあ」
横でのんきに伸びをしながら言ったアリアに、肩を竦める。
「え、なんすか?」
「いいや。私は果物を見ていくから、ここで」
「果物? あっ、カリバーン様のお見舞いの?」
「ああ。一応な」
「仲良いっすねえ」
「よくない。なんだ、君まで」
「ええ? 幼馴染って聞いたのに」
「幼馴染なのと、仲がいいのは別の話だろ」
「仲悪い人のお見舞いに果物持ってかないすよお」
「まあ、仲が悪いとは言わないけど……上官ではあるからな。こっちにも色々あるんだ」
「なあんだ。じゃあ、言ってもいっか」
「……いっかって?」
「うわさ! 知らないんすか?」
流れからして嫌な予感しかしない単語に、顔を顰める。反対に嬉しそうな顔をしたアリアは、口を開いた。
「さんとカリバーン様、愛し合っ」
「うっ待て!! それ以上聞きたくない……」
「ええーいいじゃないっすかあ、嘘なんでしょ?」
「聞くだけで鳥肌が立つ……誰に聞いたか知らんが、おぞましい妄想をするなと言っておけ」
「手合わせの後、楽しそうに話してたって」
「楽しげにはしていないし、仮にそうだとしても誰にだってそうだ」
「さんて厳しーんすよね?」
「あのな、勝てない相手に厳しく当たれるほど馬鹿じゃないんだよ」
「えー、まー勝てないなら、まあ、そっかあ」
「あいつは弟みたいなものだし、名誉のために言っておくとあいつも私をそんな目では見ていない」
「血は繋がってないんだから、どうなるか分かんないじゃないすかあ」
「有り得ん。おぞましい。有り得ない」
付き合っていられない。元々そういった話は得意ではないが、噂の相手があいつだ、精神力の消耗が激しい。
果物屋に歩き出した私に、当然のようについてきたアリアは、理解できないという声を出した。
「かっこいいのにい。何がそんなに嫌なんです?」
「あいつの顔以外を好きになる人間の気持ちが全く分からない。嫌味しか言わんし、全部いけ好かないし、背が高い」
「身長?! あたしのことも?」
「いや、ごめん。それが腹立たしいのはあいつだけだ」
僻みだし。
「ええ、嫌いなんすか?」
「嫌いとかじゃ……尊敬はしてる」
「それもう好きなんじゃないすかあ」
「有り得ない。何度も言わせるな」
「あっもしかして好きな人いるんですか?」
「は? どうしてそうなる」
「えー、しょーじきあたし、好きとかってよくわかんなくってえ」
「私にもわからんが」
「でも、カリバーン様のことは好きじゃないんでしょ?」
「カリバーンのことが好きじゃないのは分かる」
「うーん、そっかあ。ざんねん」
ようやく理解してくれたらしい。どいつもこいつも、浮つきすぎだ。自分の隊にそんなふざけた噂を流すやつがいたら喝を入れてやりたい。ジャクソンは同じ勘違いをしてはいるが慕われていないから吹聴していないだろう。
討伐以上に疲れてしまい、見舞いに行く気分でもなくなったが、今日を逃したらいつ行けるかも分からない。心配ではあるのだ、弟だから。
果物屋に辿り着き、金を先に渡してその分を適当に包んでもらう。アリアは退屈なのか、隣の花屋を覗いている。
「なあ、アリア」
「はい?」
「今年十八だったか?」
「あたし? そうっすよ」
「そうか」
「なんで?」
「いや……私も、そのくらいの頃は恋愛感情など理解できなかったなと」
「え、今は理解してるってことじゃないっすか」
「どうだかな」
「ええ! てことじゃないすか!」
「違う。どうだか分からないって意味だ」
「おや、様。まだまだ若いわねえ」
「はあ……若くないから困るんですよ」
「若いわよぉ」
果物屋の店主は笑いながら籠に入った果物を渡してきた。見舞いと言ったからか透明な袋に包まれ、リボンまでかかっている。
「ありがとうございます」
「ふふ、こちらこそ。ね、そこのお嬢さんも」
「え?」
「好きって気持ちはね、考えなくたって分かるのよ。焦んなくっていいわ」
「そうなんすか?」
「おばさんはそうだった。様は?」
「え……」
店主の優しい笑みを見るが、いい答えが思い浮かばず、籠の持ち手を握りしめる。
「……どうかな。考えたくないです」
「あらぁ、前途多難みたいね」
「そうかもしれないですね。じゃ、ありがとうございました」
「頑張ってねぇ」
店主の言葉から逃げるように店先を離れる。感情にケリをつけろと言われているみたいだった。その気は全くないのだろうが、胸に突き刺さる。
「さん」
黙って私についてきていたアリアが、あとすこしで寮に着くという時、不意に立ち止まった。振り向くと、困ったように笑う彼女と目が合う。
「あたしね、音楽関係の家の出なんです」
「え……そうだったのか」
「そ! だから、色んな曲知っちゃって、なんかね、恋って汚いもんだと思ってたみたい」
「……」
「どっかで、人を好きになりたくないって思ってたのかもって、さっき思ったの。でもね、好きになっちゃったらしょうがないんだなあって……聞いたことはあったけど、実感したっていうか」
音楽関係というのがどういった類だか分からないが、歌唱を含む曲を聞く機会が多かったのだろう。確かに、あまり詳しくない私にも、恋愛を歌ったものが多いことは分かる。それも、禁断の。
アリアは笑顔のまま私から視線を逸らし、続けた。
「うーん……なんて言ったらいいかわかんないけど……たぶん、さんは、片想いしてるんでしょ。しかも、結構長いんじゃないかなあ」
「え……」
「あ、当たり? へへ……だからね、気持ちって変わってくもんだと思うんすけど、そんだけ長いならもう、なおさらどうしようもないっすよね」
「……」
「えーと、だから、あたし応援してます。で、なんかあったら感想聞きたいっす」
「か、感想?」
「こう言われたらこう思ったとか!」
「言うわけないだろ、恥ずかしい」
「学びっすよ、学び。お見合いから逃げたあたしに、恋を教えてください」
ああ。喫茶店での会話と結びついてしまい、思わず息を吐く。頼れる大人が周りにいなかったのかもしれない。自分を大人だとは思わないが、年上ではあるし、頼られて悪い気はしなかった。
「恋を学べるかは知らんが……まあ、機会があればな」
「やった!」
「期待はしないでくれ」
「えーしてます」
「はあ……」
「えへへ。あ、もしかして送ってくれようとしてます? 大丈夫なんで、カリバーン様のとこ行ってあげてください」
「どうせすぐそこだし、門まで送るよ」
「ほんと? やさしーんだからあ」
歩き出した私に、アリアは歌いながらついてくる。見合いか。父の口から見合いなどという言葉が出ることはなかったので考えたこともなかった。なんとなく裕福な家庭で育ったのだろうと思っていたが、その分両親からのプレッシャーも大きかったのかもしれない。
アリアを寮に送り、カリバーンの部屋に向かった。また悩んでいるだのと言われては敵わないが、足の速いものを買ってしまったのだ、見舞いには行かねば。
ノックしようとしたところでドアが開き、驚いて一歩下がる。出てきたのはお抱えの医者だった。
「これは、殿」
医者が私を見て頭を下げた。会釈を返し、中を指す。
「起きてますか?」
「ええ。体調も問題ありません」
「そうですか」
「王子、殿がいらっしゃいましたよ」
部屋の奥から返事が聞こえ、医者は私に道を開けてくれた。
「では、私はこれで」
「ええ、ご苦労さまです」
部屋に入ると、カリバーンが本をベッド脇のテーブルに置くのが見えた。腕には包帯を巻いているが、足は布団に隠れている。大した傷ではなかったのだろう。椅子を引っ張って、ベッドに近づく。
「ごめんね」
腰掛けて果物を置いたところで、カリバーンが言った。
「しおらしいな」
「迷惑かけたから。……不甲斐ないよ」
憎たらしい笑顔を引っ込め、ただ悔しそうに眉を下げている。兵の死は隊を率いる者の責任だ。予想外のことが起きたからと言って、それは変わらない。それに、こういう時に慰められても劣等感や後悔が募るだけだ。何を言えばいいか分からず、カリバーンの顔に視線を戻す。すると、やつは少しだけ笑って言った。
「朝、兄さんから聞いた。俺のこと心配して、泣いてたって」
「……」
「ごめん」
「……謝るな」
「心配してくれてありがとう」
「調子狂うからやめろ」
「ふふ……後遺症も残らないみたいだし、すぐにとはいかないけど戦線復帰はできるから」
「……ああ。よかった」
「うん。待ってて」
なんだか元気そうで安心した。そう頻繁に様子を見に来る必要もないだろう。長居することもないなと思い、立ち上がる。
「じゃ」
「あ、」
「なんだよ」
「今日休みだろ?」
「暇なわけじゃない」
「ここで休んでいきなよ」
「……お前の相手をしろと?」
「はは、やだな。ちょっと聞きたいことがあるだけだよ」
「プリトヴェン関連なら答えないぞ」
「あ、やっぱりなんかあったんだ」
「どうせ本人に聞いたんだろ?」
「聞いてないよ。兄さんは答えないだろうから」
「だからって私に聞いてくるな」
「とりあえず座ってよ」
「座るわけないだろ」
「寂しいから、話し相手になってくれると嬉しいな」
「……はー…………」
やることがないのは事実だろうし、私も時間はある。策に乗るのは癪だが、拒否し続けるのも面倒になり、再び腰を下ろした。怪我をしたばかりの人間に多少甘くなるのは仕方ない。
「喧嘩したの?」
「してない」
「答えるんだ」
「帰っていいか?」
「目、腫れてるけど、兄さんも関わってるよね」
「お前を心配してっつったろ?」
「そこまで泣くの? それなら嬉しいけど」
「そんなに腫れてないだろ」
「うん。カマかけただけ」
「マジで帰るぞ」
「あはは。何言われたの?」
「なんだと思う?」
「うーん。兄さんの言いそうなことで、が泣くようなことか」
「泣いたとは言ってねえけど」
「確か、二時間ぐらい森で休憩してたんだよね」
「してたが……」
「星?」
「は?!」
想像より早く答えを導いたカリバーンに、驚きが隠せない。得意げな顔が気にならないほど。
「はは、当たった」
「お前すごいな……素直に尊敬するわ」
「なんで泣いたのかは分からないけど」
「なんで森から星に一瞬で行き着くんだ」
「え、は星好きだろ」
「え、共通認識なの?」
「昔言ってなかった?」
「いや、言ったとは思うけど」
「はっきりと覚えてるわけじゃないけど、好きなのは知ってたし……兄さんは覚えてるんじゃない?」
兄を信頼しすぎだと言いたいところだが、事実あいつは覚えていたので何も言えない。
「兄さんも鈍いよね」
カリバーンは左手のひらを握ったり開いたりしながら続けた。本当に鈍いだけならどれだけいいか。痛みを感じることにも慣れてしまって、肩を竦める。
「そういえば、兵の間で私たちが付き合ってるって噂になってるらしいぞ」
「え、俺とが?」
「今日隣室の子に聞いた」
「こんなに分かりやすいのに?」
「うるせえな。周りから見たら分かりにくいんだよ」
「まあ、兄さんといるところあんまり見てないだろうしね」
「お前が目敏いだけじゃないのか?」
「どうだろ。昔から見てるから分かるってだけなのかもしれないけど」
こいつの態度から、気づかれているのかもしれないとは思っていた。話題に上がらなかっただけで、前から気づいていたのだろう。言い返しはしたが、顔に出やすい自覚はある。
「は俺のこと弟だと思ってるだろ?」
「は? うん」
「俺も姉みたいに接してるけどさ、男女が仲良くしてたら、普通は姉弟とは思われないんだよね」
「……バカなのか?」
「はは。まあ、単に恋愛関係にあった方が面白いから言ってるんだと思うよ」
「浮ついてる」
「言わせとけばいいよ、俺も面白いし」
「なんっにも面白くねえ。不愉快だ」
「でも、そういう噂があった方が都合はいいんじゃない? 姉さん顔に出るから、堂々と否定できる勘違いって便利だと思うよ」
「……だからお前は嫌なんだ……」
「ふふ、ありがとう」
「まだ寂しいか、クソガキ」
「寂しいって言ったらいてくれるんだ」
「都合がよくても不愉快なもんは不愉快だ」
「残念」
今度こそ立ち上がり、元の場所に戻すために椅子の背もたれを掴む。目が合ったカリバーンは、来た時よりも幾分穏やかな笑みを浮かべていた。寂しいかは知らないしどうでもいいが、本当にただ人と話したかったのかもしれない。
「じゃ、お大事に」
「うん。毎日来てもいいよ」
「アホ。おやすみ」
「おやすみ」
椅子を戻してドアに向かいながら、果物はメイドか誰かに渡すべきだったと気づく。まあそのくらいは自分でできるかと思い、私は弟の部屋を後にした。