雨にばらけたプラネタリウム
悪夢のような日から二週間ほど経ち、討伐から帰った私はまた、カリバーンと対峙していた。部下たちの前で情けない姿を晒したくはないのだが、本調子のカリバーンにはどうしても勝てない。もはや、勝てていないという事実が精神的負担になっているのかと思ってしまうほど。
喜ぶカリバーン隊と対称に、ルイスを始めとした私の隊の者たちはやれやれと肩を竦め、各々の訓練へと戻っていった。剣を収めたカリバーンが一息つくことを提案してきたので、同意してレンガの柵に腰掛ける。
「拗ねてる?」
「拗ねてない」
「兄さんに言っとくね」
「はあ、勝手にしろ……」
今更負けたという報告をされても痛くもかゆくもない。
「前から思ってたけど、の隊は雰囲気がいいね」
「なんだ、突然」
「彼、クラークさんの息子さん。副隊長の」
「ルイスか」
「そう。と相性いいんだろうね」
「……そうだな」
ルイスの父親は我が国の参謀である。若い頃は騎士団に所属していたが、頭脳を使う仕事の方が性に合っていると国王つきの参謀官を目指したらしい。ルイス自身も常に冷静で敏いので、私に何かあったら隊長を任せたいと言ったのだが、二番手で口を出す方がいいそうで、断られてしまった。
カリバーンは水筒の蓋を閉め、足を組んだ。
「大丈夫だと思うけど、大丈夫だった?」
「は?」
「この間」
「……ああ」
「俺が行った方がよかったかな」
「なんで?」
「悩みが増えたみたいだからさ」
「増えてない。適当なことを言うな」
「まあ、は吹っ切れるの早いしね」
吹っ切れるという言い方には、棘がない。だからこそ返す言葉が見つからず、また、水を呷った。
「を姉さんって呼ぶこと、あるけど」
いくらか真剣なトーンでカリバーンが言う。
「ちょっと恥ずかしいな」
ちょっと、恥ずかしい。
「……なにが?」
「……ふふ。ああ、そういえば見たよ」
「え?」
結局意図が分からないまま、カリバーンは話題を変えてしまった。
「街の女の子が、を素敵って言ってるの。お菓子もらってただろ」
「うわ見てたのか……」
遠征から帰還した際、いつものように歓声に応えていると、若い娘が走り寄ってきた。押し付けるように渡されたのは、手作りのクッキーだった。まさか私にそんなことが起こるとは思わず、茫然としてしまったのをジャクソンにからかわれたのだが、こいつにまで見られているとは。こいつはそのあたりそつなくこなせる性質なので、さぞ面白かっただろう。
「兄さんも微笑ましいって」
「……あいつにも見られたわけ?」
「俺と話してたからね」
「はあ……見られたくなかったな」
「どうして?」
「不甲斐ないだろ」
「兄さんは安心したみたいだけど」
「安心?」
「そう」
横顔を窺うも、その続きは紡がれない。何に安心するというのか。今日のこいつは、意図を汲めないことばかり言ってくる。
カリバーンは、解けかけていた紐を結び、組んでいた足を解いた。目線の先には疲れた様子の兵士たちがいる。そろそろ戻らなければ。
「」
「ん?」
「みんな、を尊敬してるんですよ。もちろん、兄さんも」
「……」
「俺の方が強いってだけで」
「もう一回やるか?」
「望むところです」
「夜には討伐だろう」
「はは、だから軽くね」
尊敬か。尊敬などされても、強くなければ意味がない。私は、まだまだ弱い。アースガルズの子供とまではいかずとも、一人で小型のモンスターを討伐できるくらい強くなりたいのだ。男に続いて立ち上がり、気合いを入れるために両頬を叩いた。
夕飯と湯浴みを済ませ、図書室で読もうと思っていた本を探してから自室へ戻る。ドアの重さで、朝窓を開けたまま部屋を出てしまったことを思い出す。
「あ、たいちょ……じゃない、さん」
ドアを閉めきる前に、落ちている手紙に気づきしゃがむ。それと同時に隣の部屋からアリアが顔を覗かせた。
アリアは、半数を女騎士が占める部隊に配属になったらしい。元がポジティブな性格のようで、試験の日に抱えた悩みに関してはそれこそ吹っ切れたように見える。私のことも隊長と呼ばなくなったが、まだ慣れていないようだ。
「王子の執事って人が、それ置いていきましたよ。今度の討伐のことじゃないすかね」
どこかに行くところだったのか、部屋から出て鍵を閉めながらアリアが言う。裏面には確かに第一王子の名が記されている。
「そうか。ありがとう」
「おやすみなさーい」
「おやすみ」
わざわざこの時間に討伐のことを伝えにくるとは考えにくい。夕飯の時間は決まっているのだし、その時に会えなかったからと言って、緊急性の高い内容を手紙にして部屋に届けにくるだろうか。しかも、王子の執事が。
借りてきた本を机に置き、着替えの籠を床に下ろす。ため息を吐きながら椅子に腰かけ、ご丁寧に蝋封された手紙を開けた。また何かの式に出てくれとか、こっちの隊と訓練をしたいとかだろう。
──へ。遅くにすまない。今度、どこかで時間をもらえると嬉しい。明日か、別日に。二人で食事でもどうかな。討伐に関しての話もしたいし。
そこまで目を通してから、灯りをつけていなかったことに気づき、手紙を置く。月の光が明るい。穏やかな風の入ってくる窓はそのままに、カーテンを少しだけ閉める。
二人で食事でもどうかな。
討伐の話がしたいのは、理解できる。普段遠征を任されているとはいえ、緊急時には城を守る立場だ。ランプに火をつけ、今度はベッドに腰掛ける。何がどう、二人で、食事、なのだ。プリトヴェンのことだから、というか相手が私だ、本当に弟としか思っていないのだろう。深呼吸をし、手紙の続きに目をやる。
──返事はいつでもいいから、くれると嬉しいな。もちろん、断ってくれても構わない。気を遣わないでくれ。
気を遣うに決まっとろうが。
──追伸。カリバーンから今日のことを聞いた。気に病まないように。
王族らしい綺麗な字で綴られた励ましの言葉に、大きく息を吐く。勢いよくベッドに横になり、もう一度頭から読み返すが、内容が変わることはない。仕方なく手紙をたたんで、少しの間目を瞑る。
ああ、もう、何故なんだ。あの野郎……。
考えるのをやめ、体を起こす。便箋なんてあっただろうか。手紙にする必要は感じないが、王子であるあの男とあまりプライベートなことを話し込むべきではない。本人にその気はないのだろうけれど、私を緊張させるのがうまい男だ。
明朝、何度か文面を確認してから、手紙を持ってやつの執事がいつもいる執務室に向かった。本人を朝っぱらから訪ねる勇気はない。執事にそれを渡すと、何故か引き留められてそのまま一杯お茶を飲むことになった。
「すまないな、朝早くに」
「お気になさらず。私も様のお顔を見たいと思っておりましたから」
「ふふ……ばあやは元気にしているか?」
「ええ、ええ、それはもう」
執事の奥方、今はメイドをしている御年六十になる女性が、私の育ての母だった。実母が他界してから騎士団に入れられるまでの数年とはいえ、今でも母と慕っている。元は騎士団に所属していたらしく、私が騎士となったのは父以上に彼女の影響が大きいだろう。
向かいに腰掛けた執事は、渡した手紙の裏面を見た。
「封はされないので?」
「あ、……すまん、封蝋をなくしてしまって」
「ご用意しましょう」
じいやは立ち上がり、せかせかと引き出しを開けて真新しい封蝋を手に取った。その様子を見ながらソファーの肘おきに肘をつく。
「気にするかね」
「王子は、全く。様が手紙なぞしたためる趣味がないとは存じておりますよ」
差し出された箱を開け、赤いそれをつまむ。
「会った方が早い」
不貞腐れたような声が出たことに、自分で驚く。それが伝わったのか、少しの沈黙が訪れる。
「手紙は、良いですよ」
じいやは言って、キャンドルに火を灯した。声に含まれるものを想像し、今度は私が黙ってしまった。
全て用意してもらったものではあるが、無事封をし終え、再びじいやの手元に置く。
「文通などされるとよろしい。じいの便箋を差し上げます」
「いらん。大体、出す当てもない」
「王子がいらっしゃる」
「なんでプリトヴェンと文通するんだ」
「あまりお会いになれないのでしょう」
確かに、お互い国を守る立場であるため、公的な場と訓練以外で姿を見ることはない。訓練場で指導をしている時は話す余裕もないし、と考えてから、王子相手に何をと内省する。カリバーンを相手にするのとはやはり違うのだ。
「……一介の兵士が、そう頻繁に会う理由などない」
「カリバーン王子とは懇意でしょうに」
「こ、懇意?! あいつは天敵だ」
なんとか言い返すが、じいやは聞く気がないらしく、新しい便箋の束と封蝋のセットを箱に入れて押し付けてきた。
「とにかくこれは差し上げますので、眠れぬ夜にでもお書きになってください」
「ああ、分かった分かった……じゃあ、ばあやによろしく」
なんだか嬉しそうに頷いたじいやを横目に、荷物を脇に抱えて執務室を出る。来た時よりも増えてしまった。一度自室に戻らなくてはならない。
手紙の良さか。戦場に身を置く騎士同士、いつ会えなくなるかも分からない私たち。だからあいつは、手紙を寄越したのだろうか。私が手紙などしたためないと知っていて。
その日の夕方頃、アースガルズ近郊の山脈において大型モンスターの討伐中に新種のモンスターが襲来し、カリバーン率いる部隊が壊滅状態に陥ったとの報告があった。
私は命令を待つ余裕もなく、部隊を率いて馬を走らせた。どちらにしろ援護が必要になるのだ、独断が許される程度の地位は築いてきたし、部下に支援物資などの確認もさせたので、なんとかなるだろう。なってもらわなくては困る。
「!!」
名前を呼ぶ声に振り向くと、同じくらい余裕をなくした彼の兄がいて思わず速度を緩めた。
「あなたまで」
「城は君の父上に任せてきた。少数だが、俺たちも同行する」
最強の盾が来たことで、それを見た部下たちに安堵感が広がる。でも、最強の剣は。あいつは、あいつが死にかけているかもしれないのに、そんなところにこの人まで? 何か言わなくてはと思うも、言葉が出てこない。プリトヴェンの瞳を見ていられず、先行している部下たちの背中に視線を戻した。
「」
「はい」
「……君のことも心配で、無理を言って出てきたんだ。あいつを心配してくれるのは嬉しいが、一人で突っ走っては駄目だ」
「……すみません」
「いや、ありがとう。……きっとカリバーンなら大丈夫さ」
「……」
「……先に行ってる。絶対に、無茶はしないで」
私の背を軽く叩き、プリトヴェンは走っていった。その後ろ姿の、靡く馬の尾の、なんと眩いことか。鼻を啜り、馬の腹部を蹴る。私は私の、やるべきことをやらなくてはならない。これ以上の犠牲を出さないために。
「A班は大型討伐の援護! B班と救護班は怪我人の保護を!」
戦場にたどり着き、部下達に指示を出す。プリトヴェンは蛇のようなモンスター二体を、彼の部隊は大型を相手取っているが、カリバーンの姿は見えない。視線を辺りに巡らせ、怪我人の多さを確認する。カリバーンの部隊は精鋭揃いだ。それでも……。
「見つけ次第第二王子の保護を優先しろ!」
グリップを握り、もう一度声を張り上げる。新種がどのような動きをするか分からない以上、下手に突っ込めばプリトヴェンの邪魔になるだろう。大型はなんとかなるにしても、新種が二体いては判断も鈍る。
「隊長!」
考えているとルイスが駆け寄ってきたので、そちらに顔を向けた。
「カリバーンは?」
「ご無事ですが、右手を骨折、左足も負傷されているようで……」
「手か……」
「隊長には、大事ないと伝えてほしいと」
大事ない、わけがない。舌打ちはどうにか我慢できたものの、代わりにため息が漏れる。
「……新種の情報は?」
「双頭、それから地中に潜るとのことです」
「分かった。私はプリトヴェンの援護に回る。引き続き保護を頼む」
「は!」
「カリバーンの馬鹿にはさっさと城に帰れと伝えろ」
右手の骨折。足まで負傷しているとなると、しばらく使い物にならないだろう。とにかく死んでいなくてよかった、と言うべきか。指先の冷たさを誤魔化すため、握りしめていたグリップを一度離して走り出す。モンスター共の呻き声が近くなってから、今度は明確な戦意の下に剣を抜く。
戦場の孤独が、心を冷ましていく。
地中から現れた頭がプリトヴェンを狙う。地面を蹴り、その首に刃を突き立てる。柔らかい肉の裂ける感触。よろめく大蛇に足をかけ、剣を抜いて、一歩踏み込む。蛇と、目が合ってしまう。
他人の死には慣れている。戦闘前に一緒に笑っていた人間が死んだこともある。モンスターたちは、人間の思い通りにはなってくれない。ぱちぱちと弾ける火の粉を見つめ、蛇の瞳を思い出す。
辛勝だった。援軍である私たちは全員無事だけれど、討伐における死者は出てしまったし、最強の剣と名高い第二王子の負傷箇所があまりにも痛い。何か、私にできることがあったのではないか。抱えた膝に額を押し付ける。
「」
はっと顔を上げると、先ほどよりいくらかやわらかい表情のプリトヴェンがいた。
「隣、いいかな」
「……はい」
「寒くないか」
黙って、首を振る。彼は隣に腰を下ろしながら、そうかと言った。彼が提案しなかったら、休むことなく城に帰還していただろう。父には兵の疲弊を甘く見ていると叱られるかもしれない。
「カリバーンだけど、折れ方がよかったみたいだ。後遺症も残らないだろうって」
「……そうですか。よかった」
「帰還したら、一緒に見舞いに行こう」
「……ん」
「新種の報告もしないとな」
「……」
「さっきも言ったけど、がいなかったら倒せなかった。君のおかげだ」
「でも、」
「礼を言わせてくれ」
「……礼、……なんて」
炎が滲んで、唇を噛みしめる。私もプリトヴェンも、やれるだけのことはやった。討伐には成功したし、死者数も最初の報告から変わっていない。なにより、カリバーンは生きていたのだ。隣から彼が手を伸ばし、私の頭を優しく撫でた。それでも、守りきれなかったという思いは拭えない。
「……ごめん」
「謝ることないさ。誰も見ていないうちに泣いておくといい」
当然、今の立場になってから部下の前で涙を見せたことはない。昔から私を知っている者はからかってくるかもしれないが、部下は部下だ。いちいち取り乱す上官など、頼りないことこの上ない。
部下の顔を思い浮かべながら、深呼吸をする。指先で強引に涙を拭うと、彼の手が離れていった。
「ないてません」
「ん、はは……カリバーンみたいだな」
「うるさい」
「ごめんごめん」
やはり、弟のように思われているらしい。こんな冗談を言えるのだから、怪我で済んでよかった。足の怪我の方も重くはないのだろう。
「ああ、そうだ」
抱えていた膝を下ろし、あぐらをかく。「はい」相槌を打ち、足元にあった小枝を火に投げ込む。
「手紙、受け取ったよ」
一瞬何を言われているか分からず、動きを止めてしまう。
「……え」
「え?」
「あ、いや」
「う、受け取らない方がよかった?」
「ま、まさか。あの、あり、がとう、ございました」
「あ、ああ、こちらこそ。返事、ありがとう」
変に驚いたせいで気を遣わせてしまった。そういえば、手紙のやりとりがあったんだった。視線を彷徨わせ、うなじのあたりに手をやる。討伐以外に大事な用事はないのでそちらで日程を決めてくれ、というようなことを書いた覚えがある。どうして今それを。
「えーと……戻ってから決めようか。しばらくは忙しくなると思うし」
「そうですね……」
「また、手紙出していいかな」
「あ、はい」
「じいやから便箋もらったって聞いたんだけど、その……返事、期待していい?」
「え、ああ」
「あっ嫌だったらいいから!」
「えっ、嫌じゃないけど」
「そ、そう?」
「う、うん」
「よかった……とは、あんまり会えないからさ」
炎に照らされる横顔を見る。期待という言葉。何も言えずにまた、焚き火に目をやる。
プリトヴェンは、人の上に立つために生まれてきたような人間だった。討伐の成果を上げ続け、それでいて傲慢にならずに訓練に励み、民の声援にも笑顔で応える完璧なひと。親同士の交流の多さから近くにいたというだけの私にも、実弟であるカリバーンと同じように接してくれる。王とは、こういう人間のことを言うのだろう。
「プリトヴェン」
「ん?」
「……火の番しとくから、寝てください」
自分が何を言いたいのかも分からず、結局出てきた言葉に悲しくなる。
「いや、俺が番をするよ。疲れているだろう」
返事はもちろん、想定していたものだった。
「それは、あなたも」
「俺なら平気。そんな柔な鍛え方してないよ」
「……そうですね」
黙ってしまうと、カリバーンの顔が浮かんだ。折れ方が綺麗だった。でも、折れたことに変わりはない。たらればが無駄なことくらい分かっているのに、一歩間違えたらあいつが死んでいたのかもしれないという恐怖から、抜け出せない。吹っ切れるのが早いなんて、嘘だ。
どうにか別のことを考えようとして、私は空に目をやった。雲のほとんどない、晴れた夜空。朝が来るまではまだ一時間ほどあるだろう。
「は、覚えてないかもしれないけど」
「……え?」
隣を見ると、今度は彼が空を見上げていた。その大きな瞳に、炎が反射して──。
「と星を見るの、好きだったんだ」
呟くように言ったプリトヴェンから、目を逸らせない。カリバーンと三人で訓練した後、自分じゃ言わないけどカリバーンが眠そうにしててさ。だいたいいつも、帰る時はあいつをおぶってたよ。歩いてると君が空を指して、星座を教えてくれた。俺は、首が痛くなっちゃって。
彼が紡ぐ昔話に、また、目の奥が熱くなる。
「はは。……覚えてないよな、そんな昔のこと」
覚えている。あなたが笑ってくれたことも、煌めく星々も、暗い森が、帰り道がぜんぜん怖くなかったことも。
「……あなたは」
「え?」
顔を隠すべきだと分かっていた。目から大きな熱い塊が落ちて、そのことにプリトヴェンが驚いた顔をする。
「、」
「わすれて」
「え」
「わす、れて」
たぶん、言っている意味は分からなかっただろう。彼は悲しそうな顔で、こちらに手を伸ばした。
「……忘れないよ。君との、……大事な思い出なんだ」
彼の親指が、こぼれおちた涙を拭う。それから、私の体は、彼の腕に包み込まれた。
「そんな悲しいこと、言わないでくれよ……」
ひどい。温かい腕が苦しいくらいの力で私を抱きしめる。何も知らないくせにそんなこと言わないでよ。私は彼の背中に腕を回すこともできずに、唇を噛みしめる。
「……プリトヴェン」
この人を悲しませたいわけではないのに、どうしてこんなことになったのだろう。流せてしまえればよかったのだ。流れては渇いていく涙が憎い。彼の腕の力が強まる。
「ごめん。泣かせて……ごめん」
「……あなたは悪くない」
「でも、」
「でも、ありがとう」
「……」
この人に触れることができるのは、これが最後かもしれない。腕を伸ばし、私よりよほど泣きそうな声を出した彼の背に回す。
夜明けはまだ来ない。どこかへ消えてしまいたいと願いながら、それすら許してはくれないだろう男を抱きしめる。静かな抱擁は、しばらく続いた。