記憶の襞

 自室に戻ってから、無心で腕立て伏せや腹筋をした。窓の外はすっかり暗闇に包まれていて、約束の時間が来たことを知らせてくれる。逆立ちのまま部屋を歩き、中心に辿り着いてから片足ずつ床につける。
 ──相手が王子じゃなあ。
 ジャクソンは勘違いをしているが、言っていることは正しい。汗を拭き、軍服を羽織る。着慣れてしまった、左官位の女性用軍服。腰のベルトを締め、テーブルに置きっぱなしにしていた手袋を手に取る。
 ──ご結婚されてもおかしくない年頃だろう。
 分かっているさ。分かっているとも。分不相応な願いだなんてことは、ずっと……。

 訓練場に向かっていると、金属音が耳に入った。二人で手合わせをしているのだろう。王家に伝わる剣と盾は、上質な金属で作られているため打ちつけた際の音が濁らない。一種の音楽でもあるそれを聞きながら、歩みを進める。
「甘い!!」
 着いた瞬間、高い声が響く。プリトヴェンが盾でカリバーンを弾き飛ばしたらしい。カリバーンは受け身を取り、再び兄の下へ走り出す。暗いため表情は確認できないが、きっと笑っているのだろう。二人とも。
 幼い頃、よく三人で手合わせをした。もう十五年は経つだろう。あの頃はまだカリバーンも私たちと同じくらい小さくて、女である私が一番背が高く、それこそほとんど実力差もなかった。プリトヴェンが盾を継ぐと決まるまでは、遊びのように剣をぶつけ合ったものだ。私も彼らも、家柄から騎士になることは決まっていたけれど、そうでなくとも同じ道を選んだだろう。
 仲の良い子供たちだった。私だけが、違えてしまった。グリップの冷たさが、手袋越しに伝わる。いつの間にかそこを握りしめていたのだと気づく。
 剣と盾が地面に下ろされ、我に返る。一言二言交わし、二人は私を見た。

 私を呼ぶプリトヴェンに手を挙げ、体の力を抜いていく。余計なことを考えている場合ではない、と再び、背筋を伸ばした。
「遅かったですね」
 カリバーンが、そう言いながらこちらに歩いてくる。
「トレーニングに夢中になってしまって」
「あなたらしい。どっちからやる?」
「俺はどっちでも」
「じゃあ、先にカリバーンを潰しておくか」
「はは、お手柔らかに」
「疲弊したところを狙うのは、戦場じゃ常識だろ?」
「まあ、疲れてないけどね」
「減らず口」
「兄さん、見ててね」
「ああ、もちろん」
 また微笑ましいという顔で私たちを見ていたプリトヴェンは、嬉しそうに頷いた。プリトヴェンから離れ、先ほど二人が戦っていたあたりまで移動する。目が合うと、カリバーンは恭しくお辞儀をした。それから、拳を軽くぶつける。
「なんか悩んでるだろ」
「は?」
 プリトヴェンには聞こえないだろう声量でカリバーンが言う。顔を上げると、やつは少しだけ心配そうに首を傾げた。
「無自覚? たぶん、兄さんも気づいてるよ」
「……」
「でも、負けないから。戦場の常識なんだろ?」
「……今日は絶対勝ってやるからな」
「その意気」
 カリバーンなりの励ましなのだろう。分かりやすく顔に出していたつもりはないが、無意識のうちに強張っていたのかもしれない。改めて弟と充分な距離を空け、深呼吸をする。鞘から抜いた剣は、月の光を反射し、煌めいていた。

 どれだけの間互角の戦いをしただろう。討伐から帰還したばかりとは思えない剣裁きに、圧倒されそうになる。突きつけられた切っ先を剣の腹部で避け、やつの足を引っかける。転びはしなかったものの、そこでできた一瞬の隙を見逃してやることはできない。やつの右手首を手刀で打ち、剣先を首元に。目が合い、男の動きが止まる。
「……降参」
 やがて、カリバーンがそう言い、力を抜いた。こちらも引っ掴んでいた服を離す。
「悩んでたの、気のせいだった?」
「……お前が討伐に行ったのも、気のせいってことになるぞ」
「はは……」
 さすがに息が上がってしまい、二人でその場にしゃがむ。相手が疲れていなければ、負けていただろう。プリトヴェンが私たちに駆け寄ってきて、傍に膝をつく。
「さすがだな、
「あんたを後にしたの、失敗だった……」
「あはは……カリバーンは強いからな」
、また動きが軽くなったね……小さくて戦いづらい」
「チッ……お前はデカくて戦いづれえんだよ。プリトヴェン、ちょっと待ってくれ」
「ああ、分かってる。水いるか?」
「ん」
「はあ……俺も取ってくる」
 反射的に受け取ってしまったが、渡された水筒は私が持ってきたものではない。
「え、これお前のだろ?」
「え?」
「えっ」
 立ち上がったカリバーンと、まずったという風にこちらを見たプリトヴェンの声が重なる。沈黙が訪れ、指摘するべきではなかったかと焦りが募る。
「ご、ごめん!」
「い、いや……あ、お前は関係ない」
「そうですか?」
 単純に他人の分をもらうのは悪いから返そうと思っただけなのだが、他意があるように捉えられてしまったようだ。カリバーンが離れていき、さらに気まずい空気が流れる。
「ぜ、全然そんなつもりじゃなくて」
「いや、あの、私もそんなつもりじゃ」
「嫌だったよな。ごめん」
「嫌っていうか、あの……あなたが口をつけたのがどうとかじゃなくて、人の分もらうのもなって思っただけなんですけど、ほんと、ごめん」
「あ……そ、そうだったのか。いや、こちらこそごめん」
「えっと……もらっていい?」
「え?! き、君が気にしないなら」
「気には……」
「……のも持ってきたけど、いらなかった?」
「いるに決まってんだろ!」
 戻ってきたカリバーンの好意を引ったくり、立ち上がって視線から逃れる。私が持ったままだったプリトヴェンの水筒を、カリバーンが兄に返す。やってしまった。水が体内に入り、全身の熱を冷ましていく。気にはする。するに決まっているから、考えてはいけない。
「そんなので戦えるの? 二人とも」
「戦える」
「兄さん?」
「えっ?! あ、ああ」
 数呼吸で、頭の中はすっきりした。今はこちらに集中するべきだ。未だ動揺している様子で立ち上がったプリトヴェンを見る。
「不戦敗でも構わんぞ」
「はは……まさか」
 声をかけると、ほっとしたのか彼は笑顔を見せた。
「あんな試合見せられたら、黙って引き下がるわけにはいかないよ」
「じゃあ、俺向こうで見てるから」
「ああ」
「……よろしく」
 カリバーンの背中から、プリトヴェンに視線を移す。拳を出すと、彼もそこに拳を当ててくれる。
「よろしく」
 絶対的な自信の宿る瞳。それは決して傲慢ではない。
 定位置につき、彼の構えた盾を視界に入れる。やはり剣と違って威圧感がある。彼自身の強さに裏付けられた隙のない圧だ。カリバーンとは正反対の重く静かな気配に肺が震える。
 脚に力をこめ、思い切り踏み込む。
 剣が盾にぶつかり、体ごとはじかれそうになる。ただ振り下ろすだけでは駄目だ。モンスターと違い、この剣では裂けない。
「どうした?」
 次の動きに意識を向けていると、彼が笑った。盾を蹴り、背後に飛びのく。すぐに走り出すが、何も見えていないことくらい彼にはお見通しらしかった。
 最強の盾は、獰猛な瞳を持っている。
 負けを知らしめる存在だった。まともな理性があればこの人に牙を剥くことはできないだろう。エメラルドの瞳。ともすれば少年にも見える彼が、盾を擁する化け物であると理解してしまう。モンスターの目を見るとき、私はいつもこの──王たる男を、想う。
 何度もはじき返され、体が悲鳴を上げ始める。最強の剣と手合わせしたばかりの体には、いささか重すぎる戦いだ。
「来い!!」
 息が上がり、汗が滴る。
 考える前に体が動いた。剣を振り上げ、突き出された盾に手をかけ、跳ぶ。驚いた顔。盾と体の隙間に腕を入れ、グリップを彼の顎に突きつけようとするが、その前に彼が身を翻す。回し蹴りを寸でのところで避けるも、受け身を取れず地面に転がる。立ち上がる前に、彼の盾が突き立てられ、敗北を知った。
 呼吸を整えながら仰向けになると、その隣に彼が腰を下ろした。
「強いな、君は」
「……まけただろ」
「危なかったよ」
「……」
「ありがとう」
「……こちらこそ」
 絶対に、何があっても勝てなかっただろう。余裕を少し崩すことができただけよかったと思うべきかもしれない。
 足音が聞こえ、カリバーンが近くに来たのだろうと思う。疲労感と眠気が襲ってくるが、どうにか目を開け、体を起こす。まだまだこいつらには敵わない。
がへばるなんて、珍しい」
「相手はプリトヴェンだぞ……」
「ふふ。兄さんは強いからね」
「はは……そう言ってもらえて光栄だよ」
 まったく、兄弟揃って。カリバーンが渡してくれたのは自分の水筒で、先ほどのやり取りを思い出してしまう。後でちゃんと謝ろうと思っていたが、今はそうする気力もない。
「大丈夫か?」
 水を飲んだ後も座り込んだままの私に、彼が手を差し出してくれた。
「……大丈夫」
 その手を取り、腹に力を入れて立ち上がる。ついでに剣を拾い上げ、鞘に戻した。
「ふらふらだし、兄さんが送っていったら?」
「え?」
「いらん。一人で帰る」
「一応女性なんだし」
「無視するな」
「一応も何も、女性なんだから……こんな時間に部屋まで送るのはまずいだろう」
「一人で帰るっつの」
「でも、倒れそうだよ。また無自覚?」
「これ以上情けない真似ができるか。じゃあな、おやすみ」
「あ、……待ってくれ」
 面倒に巻き込まれないためにさっさと離れようとするが、プリトヴェンが追いかけてくる。カリバーンのおやすみという声が遠い。兄がこうだと知っていて言い出したのなら、天才だ。いや、十中八九そうだろう。疲れも相まって頭が痛い。
「送っていくよ。無理させてごめん」
「いや……そんなに倒れそうか、私は」
「そ、そうだな……珍しく」
「情けない……」
 彼の手が背中に添えられているのが分かる。ああ、ひどい気分だ。私はもう、この国から出た方がいいのかもしれない。そうすればこいつの手を煩わせずに済む……。
 しばらく無言で歩き、思考力の低下を実感する。連戦になることが分かっていながら肉体をいじめていた罰か。

「……ん?」
「眠いならおぶろうか? その方が、君も早く休めるだろう」
「……いやだ」
「……どうして?」
「……背中で寝てしまうから」
「はは……君は変わらないね」
 言葉の意味を図りかねていると、彼が立ち止まり、私の腕を掴んだ。
「え」
「後でいくらでも謝るから……大人しく背負われてくれると嬉しいな」
 呆然とする私に彼は笑いかけ、背を向けた。もう片方の腕も掴まれてしまい、屈んだ彼をどうすることもできない。言われた通り大人しく彼の首に回された自分の腕を掴み、背負ってもらう。
「ごめんね。汗臭いと思うけど」
 と、歩き出した彼が言う。
「……ぜんぜん。……ありがと」
 汗のにおい。私とはちがう、筋肉の厚み。初めから私を寝かせるつもりだったのだろう、彼は話しかけてこない。そういえば昔も、こうやっておぶられて……。はっきりと思い出せず、考えることもままならずに、私は心地よい眠りに落ちていった。

 星を見るのが好きだった。手合わせをした後、疲れきって寝転がり、眼前を埋め尽くす星々に圧倒された。そこで私たちはたくさんの話をした。今はもう、思い出せないけれど。

 揺れが止まり、意識が浮上する。
「ん……」
「着いたよ」
「ん……?」
 状況が理解できず、目の前の茶色い髪を見つめる。寮の──自分の部屋の前だ。
「ごめん。鍵、出せる?」
「……あ、ああ……お、おります」
「あ、そうか。下ろすよ」
 訓練場からここまで背負ってくれたのか。ようやく先ほどのやりとりを思い出し、情けなさと恥ずかしさで頬が熱くなる。彼の背中から下り、ポケットの鍵束を取り出す。
「あの……」
「ん?」
「……カリバーンには言わないでくれ」
「え? 言うつもりはないけど……なんで?」
「馬鹿にされるに決まってる」
「そ、そうかな」
「そうだよ。……ここまで、ありがとう」
 彼の顔を見上げ、礼を口にする。彼は一瞬、戸惑うような表情を見せた。それからすぐ、笑みを浮かべる。
「……こちらこそ、付き合ってくれてありがとう。あのさ……俺からもいい?」
「え? うん」
「何か悩み事があるなら、相談に乗るよ。俺でよければだけど」
 ──たぶん、兄さんも気づいてると思うよ。
 カリバーンに気づかれている時点でそうだろうとは思ったが、言ってこないので忘れていた。どう返せば彼は納得してくれるだろう。解決できない悩みだ。しかも、その中心にいるのはあなたなのだと、言えるはずもない。
「あ、言いたくないなら聞かないから……えっと、一人で抱え込まないようにね」
 慌てて付け足した彼に、申し訳ないことをしたなと思う。器用なのか不器用なのか分からないところも、この人の魅力の一つなのだろう。ふっと肩の力が抜け、笑うことができた。
「……ありがとう。そう言ってもらえるだけで嬉しい」
「そ、そっか。……ゆっくり休んで」
「うん。あなたも」
「また誘うよ」
「はは……じゃあ、またね」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
 彼が去っていき、ようやく部屋の鍵を開ける。優しいひと。甘えたくなってしまうから、何も言わないでほしかった。灯りをつける元気もなく、適当に服を脱ぎ、ベッドに横になる。
 ──君は変わらないね。
 両手で顔を覆い、思考を閉じる。考えたくない。何も。布団を抱き寄せ、深呼吸を繰り返す。
 ああ、ひどい気分だ。