祈らずとも朝日はやさしい
ほとんど泣き止んだ私は膝立ちのまま抱き着いていた体をずるずると下ろし、彼の足の間に座った。頭を彼の胸元にくっつけ、首に回していた手も下ろしていく。彼は私の動きに戸惑っていたのか一度腕を浮かしたが、そこに居座るつもりだと分かったらしく再び背中に触れる。うなじのあたりを包む手のひらの温かさに安堵するのはきっと正しいだろう。さっきは否定したものの、この状態が子供のようであることは確かなので息苦しい。ずっと情けない姿を晒している。最悪だ。
「ごめん」
「……あまり謝るな」
「……うん」
「お前がここで泣いてくれることを、俺は誇りに思う」
「ほこり」
「そうだ」
「ばかだなあ」
「そうかもしれんな」
「いい?」
「ん?」
「泣き止んだけど」
「ああ」
「このままでいいかな」
「お前がいたいだけいればいい」
「やさしー、ふふ」
返事の代わりか、後頭部を撫でられて嗚咽が戻ってきてしまいそうに思う。両手で顔を覆うと、冷えた指先が顔の熱を奪っていく。手が冷たいのでなく、顔が異常に熱いだけかもしれない。あーあ、こんな顔でリビングになんて行けないな。まだ五時にもなっていないだろうから、誰にも会わずに済むとは思うけれど。
「ねむい」
「……」
「寝ないよ」
「そうか」
「部屋……戻りたくないな」
「……そうだな」
「そうなんだ」
「そうだ」
「嬉しい」
もう何もかも、どうでもいいという気持ちだった。頭を押し付けた先の心臓が規則正しく脈を打っていて、さらに眠気を誘う。
「……お前は覚えていないかもしれないが」
「うん?」
「中学の入学式の時、校内の地図を見ていたらお前に話しかけられた」
「……あー、そうだっけ」
「お前以外、入学当日に話しかけてくるやつなんていなかった。だから俺は、……どのタイミングで何を言ったかは記憶にないが、お前がヒーローになりたいと言うのを否定するわけがなかったんだ」
「……ありがとう」
「礼を言うのは俺の方だ。ありがとう」
心の中で、過去の私にも感謝する。すっかり忘れていたが、言われてみれば話しかけた気もする。きっとその時の私は同じ学年の人を見つけて嬉しかったのだろう。
頭蓋に痛みを覚えて一度頭を離すと、彼の手も離れていく。髪を手櫛で整え、彼の顔を見る。未だマスクは外したままで、手が自由になってもつけようとしないことに安心する。口でか。全部大きいけど。考えながら、彼の視線が逡巡ののち、私に戻ってくるのを見つめる。
「……なんだ」
「え? なんでもない。あ、ごめんね、めっちゃ見ちゃって」
「それは構わないが」
ゆっくりと瞬きをした彼は、一度窓の方へ視線を向けた。つられてそちらを見るとカーテンの奥が来た時よりも明るくなっている。光はないので、また今日も曇っているのだろう。雪でも降るのかもしれない。もう一度彼に視線を戻すと、目が合う。前髪の上に手のひらが乗って、それは考える間もなく私の視界を覆った。
「え」
暗闇の向こうに彼の気配がある。どうしよう。何も言わない彼に不安になり、開きかけた口に、何かが触れた。それが彼の口だと分かったのは、あまりに熱かったからだ。手のひらの奥で咄嗟に目を閉じる。ちょっと待ってよ。永遠にも思える時間が訪れる。ちょっと、待ってってば。なにこれ、私、キスされてる? 薄く、サイズの噛み合わないそれが唇を塞いでいるというのが、事実としてのしかかってくる。
唇が離された時、呼吸がつらくなかったので、たぶんそこまで長い時間触れていたわけではないのだろう。動けないでいる私の視界は開放されない。
「は、……は、はなして」
「……すまん」
それは何に対する謝罪だ?! 私の要求は通らず、どんどん羞恥心が増幅する。幸い顔の半分ほどは彼の手で隠れているが、見られているのかもしれないと思うと余計恥ずかしい。その時、そうか、今までと違って心の準備をする時間が与えられなかったんだと気づく。いつも事前に聞いてくれていたのだ。何を言えばこの手がどかされるのか分からず、とりあえず腕を掴む。割と本気で握っているのに、微塵も動かない。握力六十あるんですけど。
「な、なんで離さないの」
「わからん」
「分からないの?!」
「いや、まあ……あまり、見られたくない」
「私だって見られたくないんだけど」
「見ていない」
「絶対嘘でしょ」
「嘘ではない」
「証明できないこと言わないでよ」
「……怒っているのか」
「怒ってないけど、この手離してほしい」
ごねると、小さいため息と共にそれが離れていく。明るくなった視界に目が慣れない。何度か瞬きをしてから、立てた膝の上でだらりと垂れている腕に顔を押し付けている彼を見て、本当だったのかと驚いてしまう。いや、手を離してからこうなった可能性もあるけれど。
「うわマスクつけてる。ずるい」
「……」
「落ち込んでるの?」
「……落ち込む理由はない」
ようやく顔を上げてくれた彼と目が合う。あ、逸らされた。まさか照れているのだろうか。障子が? 有り得ないとは言い切れない。緊張と同じで、顔に出ないだけかもしれない。
「急に、すまん」
「え……いや、いいけど……びっくりした」
「忘れてくれ」
「絶対やだ」
「……そうだろうな」
「……それ外していい?」
「駄目だ」
「なんでよ」
「気を抜いてしまう」
「抜けばいいじゃん」
「お前が……驚くことは、しないよう気を付けると言った」
「……そう……だったかも」
角を噛まれた時に言われた覚えがある。本当に気を付けるとも、気を付けたところでどうにかなるとも思わなかったので忘れていた。そもそも私は臆病なので、どうせ驚いてしまう。
「そのことを反省している」
「照れてたんじゃないんだ」
「まあ、それもある」
「……マスク外す」
「お前は頑固だな……」
「そうだよ」
片手で顔を覆った彼はまた小さく息を吐いた。いつもと様子の違う障子が面白くてつい詰めてしまったが、これではねだっているみたいではないか。崩していた足を立てる。先ほど感じていた照れやら焦りが思い出され、頬をつねる。不意に頭に手が乗せられ、肩を揺らしてしまう。自分の頬から手を離し、顔を上げるとつねっていたところを撫でられる。まずい。ああ、そうだよな、視界を隠してくれたのは双方にとって正解だった、目を閉じることもできず、彼を見つめてしまって、彼が、マスクを外すさまを見ながら、自身の過ちを知った。
「いいか」
「えっ……き、聞くの、それを」
「……分かった」
何が分かったんだ、私の馬鹿さ加減か? 息を飲み、彼の手に従って顔を上げ、目を瞑る。馬鹿みたいだ。こんなの、続けていたら心臓が割れてしまう。熱い。すぐ冷静さを取り戻す彼が羨ましい。くちびる。ああうるさい、うるさい、本当にもう、頭がどうにかなりそう。
人生二度目のそれが終わって、息を吸う。ゆっくり、息を吐き出す。どうしたらいいのだろう。何を? 唾液を飲み込み、早鐘を打つ胸を押さえる。吐きそう。
頭を撫でられ、なんだかペットみたいだなと思う。障子に飼われる動物は幸福だろう。くだらないことを考えながら、その温かさを享受する。
「」
「ん?」
「水を取りにいっても構わないか?」
そうしてぼんやり自分の足を眺めていると、彼が言った。
「え?! 下まで?」
「いや、冷蔵庫だ」
「なんだ……私も喉渇いた。もらっていい?」
どかないと立てないのかと気づき、体を離しがてら立ち上がる。喉の渇きに、大泣きしたことを思い出した。
「ただの水でよければ」
「うん」
立ち上がった彼についていくと透明のコップを渡される。こんなものがこの部屋にあるとは思わなかったので驚いてしまった。ちらと置いてあった場所を見るもそこには何もない。
「コップ一個しかない?」
「下にマグカップがある」
「ああ……」
注がれたそれに口をつけてから、これでこの人も飲むのかと思う。間接キスじゃん。はーあ、馬鹿だな。空にしてお礼を言うと、それを受け取った彼はやはり同じコップに水を入れ、飲み干してしまった。
「……まだいるか?」
「えっ? いや、大丈夫。ありがとう」
「そうか」
「私、そろそろ帰ろうかな」
「……帰るのか」
「……か、帰りたくないんだから、そういうのやめて」
「すまん」
「ずるずるいちゃうし」
「俺は別に構わんが」
「ほんと際限なくなるから!」
「まあ、そうだな」
「……今度、私の部屋来てよ。なんもないけど」
「お前がいる」
「な……そ、そうだね」
恥ずかしいことをすらすら言うのはなんとかならないんだろうか。
「この時間なら、誰にも会わずに戻れるだろう」
「……うん」
床に転がしたままだった手提げを手に取る。これを使う機会はなさそうでよかった。スマホがポケットに入っていることを確認し、部屋を見渡す。彼がマスクを元に戻したのが視界に入り、エレベーターまで送ってくれるんだろうかと考えながら足をドアに向ける。
「そこまで送っていく」
「ありがと」
「」
「ん?」
すぐ、頬に柔らかいものが触れる。驚いて横を見ると、複製腕で作った口が元の形に戻るところだった。
「ず、ずるい」
「そうだな」
「……ずるい!」
「ああ」
暖簾に腕押し、糠に釘。めんどくさい女の典型のような拗ね方をしながら、靴を履く。そうだなじゃないし。
「嫌だったか」
「嫌じゃないですー」
「そう拗ねるな」
「拗ねてない」
狭い玄関で、彼が靴先で床を叩くのを見ながら言い返す。ドアノブに手をかけた彼がそのまま止まったので、見上げると目が合う。見られたくないのか、頭を押さえるように手が乗せられる。
「ありがとう」
「……え、こちらこそ」
「また」
「うん」
手が離され、今度こそ、ドアが開く。窓の外が明るんでいるのが見えて、朝が来たのだ、と思う。先に部屋を出た彼が少しまぶしい。部屋を出るとなんだか別の人間みたいで、穏やかな時間の終わりを感じる。
エレベーターまでは来る時同様緊迫感があったが、一人ではないことでだいぶ落ち着いた心地で歩けた。口を開けたそれには人が乗っておらず、このまま乗ってこないことを祈りながら乗り込む。振り向いて、彼と視線が合い、思わずドアに手をかける。どうにかもう片方の手を振ると振り返してくれて、私は、ドアが閉まるのを待つことができる。
やはり休日の朝五時すぎに起きてくる人間などいないのか、無事に自室にたどり着く。部屋に入るとなんだか気が抜けてしまって、ドアに背をつけたまま座りこんでしまった。思わず口を押さえる。とんでもないことをしてしまった。あんなもの、正気ではない。
「あああ……」
情けない声が漏れ、今度は両手で顔を覆う。もたらされる幸福に心が追いつかない。今日は一日部屋にいたい。どうせ目も腫れているし、と思うが、三食届けられる環境ではそうもいかなかった。それに、籠っていたら皆に心配をかけてしまうかもしれない。冷やしたタオルを当てておけばそこまで悪化はしないかと思いつき、長いため息と共に顔を覆っていた手を外す。重い腰を上げ、靴を脱ぐと体が疲れ切っているのを感じる。ベッドに転がったらすぐにでも寝てしまいそうだ。あーあ。トイレにかけるためのタオルを引き出しから引っ張り出して、濡らすために洗面所に立った。
ああせめて今日だけは、この浮ついた、正気でいられないほどの幸福に、浸っていたい。