テンパリング・ユア・ハート
アラームの音ではっと目を覚ます。三時五十分。アラームを止め、一度目を閉じてからため息と共に体を起こす。熟睡できなかった気もするが、頭は存外クリアだ。たぶん、緊張状態にあるのだろう。片手を目元にやり、ぎゅっと顔を顰める。ゆっくり目を開けるとあくびが出てしまった。いくら私が早起きな性質だからと言って普段なら二度寝している時間なのだ。着替えるためにベッドを降りる。
支度を終え、障子に起きた旨を伝える。朝から惚れた男の部屋に行くなんて、昔の私は想像もしていなかった。しかも用事が用事だ。とんでもない事態である。両手で角を握る。痛い。もう一度スマホを見ると来ていいとの連絡が来ていた。一体何時から起きていたのだろうと少し心配になる。
切島に返す漫画とスマホを持って部屋を出る。障子の言うであろうことよりもまずはこの、誰にも見られずに部屋に行くというミッションをこなさなければならない。本当のことを言えばもちろん、クマ吉を連れていきたかったのだけれど、そこは様々な点でどうしようもなかった。
恐る恐るエレベーターを降り、リビングの音を聞く。たぶん誰もいないはずだ。静かにできるタイプのクラスメイトならば言い訳のしようもあるしとなるべく音を立てないようにドアノブをひねった。
やはり、リビングには誰もいない。まだ暗い室内は冷え切っていて、少しだけ胃が震える感覚があった。ここに人がいない時点できっと誰にも気づかれないだろうに、なんとなく足音を忍ばせる。そうしてなんとか男子棟のエレベーターまでたどり着き、無人のそれがやってきたことで大きく安堵のため息を吐いた。ここまで来ればあとは途中の階から人が乗ってこないことと、切島や爆豪が部屋から出てくるところに鉢合わせないことだけを気にすればいい。切島はないだろうが、爆豪はあれで早起きの気があるので恐ろしい。
エゴによる行動であるので、焦燥に罪悪感も付随し、敵との戦いにはないストレスがあった。
寒さに強い体は普段震えるということがなく、武者震いにも似たそれに焦りが募る。落ち着かなければ。イルカとクマ吉がここにいればよかったのに。エレベーターが四階に着いたことを知らせ、いつの間にか閉じていた目を開ける。
ドアが開く。その向こうに、障子の姿があった。
わざわざ外で? ポケットに手を入れたまま窓の外を見ていたらしい彼は、音で気づいたのかこちらを見た。一番奥の部屋だったことを思い出す。よりによって。またなるべく足音を立てないように急ぎ足で彼の下へ向かう。
立ち止まる。しっかりと目が合って、頭に手が乗せられる。唇を噛む。息が、心臓が止まりそうに思う。血の巡りだけが活発で、溢れ出してしまわないように小さく深呼吸をした。手が離れていき、体躯で隠すためか前に行くよう促されたのでそれに従う。彼が、ドアを開ける。会釈をして、そこに足を踏み入れる。
背後で彼がドアを閉めた音が聞こえ、室内履きを脱ぐこともままならずその場に手をついて項垂れてしまった。狭かったのか、彼が先に靴を脱いで私の目の前にしゃがむ。再び頭を撫でられるので、このまま立ち上がれない気さえした。
「頑張ったな」
「情けないとこ見せてごめん……」
「謝らなくていい」
「うん……ごめん、靴脱ぐ」
「平気か?」
「うん」
顔を上げると自然に彼の手がいなくなる。床に座ってから、漫画の入った手提げを一度近くに置いて靴を脱ぐ。ようやくきちんと部屋に上がり込んだものの、まだ脈が上がっている。相変わらず何もない部屋だ。四時過ぎだというのに綺麗に畳まれた布団に、机、座布団。机の上にぬいぐるみが置いてあるのを見つけて、思わず腕で口元を覆う。あれを発見して驚く常闇の顔が浮かぶ。ざまあみろ。私もだけど。
「落ち着いたか」
「まあ……お邪魔します」
「ああ。無理をさせてすまん」
「む、むりはしてない。緊張が……緊張で」
「それを押してここまで来てくれたんだろう」
「……そうとも言う」
「まあ、座ってくれ」
「分かった……」
座布団を渡されるので、突っ立っていた足元に置いて正座する。一応もう一枚はあるらしく、彼は机の前に胡坐をかいた。何もそんなに向かい合って座らなくても。ずっと叫びたい心を押さえつけている私としては、いちいち心臓の痛む行動をとらないでほしい。抱えるものがないので、手提げを足の上に置く。
「」
「は、はい」
「……よく眠れたか」
「え……うん、まあ、どうだろ、ふつう」
「そうか。よかった」
「君は」
「俺もそんなところだ」
「そっか」
沈黙が流れる。私の緊張が伝染するような人間ではないだろうが、タイミングを掴みかねているのは確かだ。
「あの」
「なんだ」
「……もし私の気分を気にしてるなら、大丈夫だから」
「……すまない。もちろん、お前が想像以上に固まっているというのもあるが」
「ご、ごめん」
「いや……ただ、俺自身にも多少緊張はある」
「障子って緊張するんだ」
「経験したことのない状況ではな」
「顔に出ないだけ?」
「ああ」
「……そうなんだ」
なんとなく、そういうものとは無縁だと思っていた。顔がほとんど隠れているから判断しようがないのも事実だが。
「だが、その俺から見てもお前の緊張は相当だ。だから、どうすればいいか考えている」
「いやほんと、私のことは気にしないでいいから」
「お前を気にしないで、何を気にするんだ」
「え、じ、自分のきもち?」
「……お前の理屈は分かるが、怯えてすらいる相手を無視できるほど馬鹿な男に見えるか?」
「全然見えません」
「そうか。ならいい」
なんだか怒らせてしまっただろうか。怯えているわけがないのだが、確かに障子から見たらそれこそ哀れな草食動物だろう。胸が痛い。とはいえどうしても私の緊張が解れるまで待ちたいようなので内心ぐったりする。さっさと殺してほしい。自殺願望、希死念慮。そういうのとは違う、と一旦どうでもいい単語を脳の隅に追いやる。どうしたらこの心臓は落ち着いてくれるのか。落ち着くわけないだろう、この状況で。組んだ指先にぐっと力を籠める。
「隣に座るか」
「え?」
「俺が視界に入らない方が気が楽だというなら」
「でも距離近くなるじゃん」
「どちらがマシだ」
「……全部マシじゃない」
「嫌なのか」
「嫌じゃない」
「……分かった。俺がそちらに行く」
「えっ待って!」
「すまん」
「いや何もかも私が悪い」
「そんなことはないが……」
そんなことはある。大層困っていることだろう。爪先が冷たくなってきたので、一度漫画をどかし、体育座りをする。何かしらを選択しなければこの問答は終わらない。それならいっそ、くだらない話でもしていた方が気が紛れる気さえする。どうせ無理なのだけれど。ちらと視線を上げれば当然のように目が合って、罪悪感が押し寄せる。ああ、こんなんじゃ駄目だ。息を吸い込む。
「分かった」
「なんだ」
「隣に行く」
「大丈夫なのか」
「大丈夫。君を見たくないとかじゃ断じてない。確かに向かいにいるのは緊張するけど、隣にいたって絶対緊張するんだから、私は近くにいたい」
「……なるほど。ありがとう」
「い、うう、あの、ほんとごめん」
「構わない。こうしてお前の心境の変化を目の当たりにできるのは嬉しい」
「子供じゃないんだから」
「……そうだな」
「なに、今の間」
「すまん」
「謝っちゃったら事実になるじゃん!」
「……悪かった」
「分かるけど!」
とりあえず、行くと決めたからには立ち上がらなければならない。安定剤としての漫画をその場に放置し、立ち上がって座布団と共に彼の隣に移動する。また体育座りをし、一旦組んだ腕に顔を埋めた。深呼吸。無臭なのだろうが、明らかに私の部屋とは違うにおいだ。無臭なのに? 自分の矛盾を笑う。においなんて意識しなきゃよかった。
そうして、結局、隣の彼を見上げてしまう。目が合うと障子は片手で顔を覆った。すぐにそれは元あった場所へ戻っていくが、なんだかその行為がやけに胸に刺さる。
「」
落ち着きはらった彼の声が言う。
「うん」
「俺はお前を傷つけたり、怖がらせたくはない」
「……うん」
「俺の行動にお前を害す意図はないと誓おう。その上で、一つ我儘を言わせてくれないか」
「え……いいよ。なに?」
いつになく真剣な声色に、自然と背筋が伸びる。珍しく私の方を見ずに言う彼の心中を考えると、その先の言葉を想定することなどできないのに、どうしようもない気持ちになった。
「素顔で……想いを伝えたい」
は、と息を飲む。
視線を目の前から私、手元へと彷徨わせたのち、彼はしっかりと私を見た。それが我儘だなんて、誰が言うんだろう。彼の頬に手を伸ばす。その行動はほとんど無意識だった。驚いたように体を少し後ろにやった彼は、それでも私の目を見てくれている。「なんでよ」気づくと眼前の彼が滲んでいる。喉の奥と声が震えてしまわないよう、全身を硬くする。
「なんでそれが我儘になるの。君のそれを、私は知らないけど、……はあ、もう、君にとって嫌なものでも、誰かのために隠したものでも、なんでもいいよ。なんであれ、きみはきみだし、なんでも、好きなものはどうしようもないんだから……」
支離滅裂な私の言葉を、障子は黙って聞いている。ついに頬を伝ってしまった涙を彼の手のひらが拭った。私は自分のそれには構わず、もう片方の手も彼の頬にやる。
「わたしが外す」
馬鹿だと思われても構わなかった。ただ君を救いたかった。君が救いを必要としていないとしても。
「嫌って言っても止めないから」
これは私のエゴだ。彼が微笑んだ、気がした。
「……嫌なわけがない」
返事は嗚咽に変わってしまった。ゆっくり、彼の口元を覆っている布を剥がしていく。過去さえ消えてしまえばいいと願いながら。顕になった見慣れない口に、さらに涙が溢れてしまう。どれだけつらい思いをしてきたのだろう。どうして誰も、この人のこれを掬って、救ってあげられなかったんだろう。両手が塞がっている私のために、彼がどんどん流れる涙を優しく取っ払ってくれている。彼の口が動く。
「俺を好きになったのがお前でよかった。……お前のことを、何よりも大切にする」
本当にどうしようもなくなってしまって、私は彼に抱き着いた。それをきちんと受け止めてくれた彼は、あやすように私の震える背中を撫でている。もうそれは恋がどうとかではなかった。ひたすらに彼のことを離したくない。情けなく涙を流し続ける私を、彼が抱きしめてくれなくなったとしても。