夜を濾したら
感触特化型の抱き枕と何かの旅行の時に買ってもらったイルカのぬいぐるみが並んでいたベッドには、あの日からクマのぬいぐるみが仲間入りした。命名クマ吉。もらった後のまま机に置こうと思ったのだが、勉強に集中できないし配置的に起きてすぐ目が合うしで最悪だったので、イルカの隣に移動したのだ。見ていたら緊張してきた。慣れたはずなのに!
制服の上に薄手のコートを羽織り、リュックを持つ。自分の好意を知っている人間と同じ空間にいるというのは、やはりきまりが悪い。
あれから、もうすぐ一週間が経つ。私たちの日常は忙しなく、寝る前や部屋を出る前、それから暇な授業中くらいしかゆっくり考える時間がない。通常の学校と比べれば肉体的負担も大きい方だろう。
リビングで朝が早い面々と挨拶を交わす。明日は休みだし遊ぼうなどと話しながら、朝食をとった。
「ねえねえ! カラオケ行こ!」
「え? 今から?」
「そ! みんなで!」
「外出許可は?」
「やおももに頼む」
授業終了のチャイムと共に私の席にやってきた芦戸は、何やら興奮した様子で話しかけてきた。
「いいけど……どうせ明日休みじゃん」
「今日ずっと行きたかったんだって! じゃは決定ね。あとは―」
芦戸がその場にいたみんなに適当に声をかけ、結局女子全員と男子数人で行くことになった。この雰囲気に入ってきにくいのか、瀬呂や上鳴を除けばほとんどの男子は参加の意思を見せず、さっさと寝たいだとかカラオケが嫌だとかで結果的に女子の方が多い。あそこは安い、ドリンクバーが欲しい、何歌おうかな。がやがやと話しながら支度をする彼らに合わせていると、不意に教室から出ていく彼の後ろ姿が視界に入る。誘ってないんだっけ。まあ、席一番前だし、そもそも好きじゃなさそうだし、とかなんとか。
「」
ぼーっと考えていると、鞄を肩にかけた常闇が視界の隅に現れる。ちらと私の視線を追い、なんとなく気まずそうな表情を見せた。
「すまん」
「は?」
「はとはなんだ」
「君も行くの?」
「いや、俺は遠慮する。が、少々話したいことがあってな」
「話したいこと?」
「ここでは話しにくい。帰宅し次第連絡してもらえると有難いんだが」
「ああ、覚えてたら」
「えーっなになになに! ここで話そうよ!」
「……では」
「うん、ばいばい」
「無視ぃ?!」
常闇は困ったように芦戸を見たものの、結局何も言わずに帰っていく。話したいこと、で、ここでは話しにくいこと。十中八九障子のことだろうが、何かあったのだろうか。まだ文句を言う芦戸をなだめながら、だらだらと移動を開始したみんなについて教室を出た。
カラオケで大騒ぎし、急ぎ足で帰ってきた私たちはその足で夕飯を食べた。浮ついた心地のまま部屋に戻り、連絡がどうとか言われたなと思い出す。スマホを取り出してから一度クマ吉に目をやる。どう思う、クマ吉。別に何も、とでも言いたげな顔から連絡先一覧に視線を戻し、部屋についた旨を送る。するとすぐに返事が来て、単刀直入に、という風に本題が送られてきた。
─トナカイはお前が渡したものか。
なんだこいつ。驚いてしまい、数秒その文字列を追う。まさか障子が話したのか? いや、それならこの言い方はしないはずだ。部屋に行った時に置いてあったとか、そんなところだろう。
─だったら何?
─ならば良い。別人からの贈り物かと心配になっただけだ。
なんだこいつ! 良き友人かよと思いながら了承のスタンプだけ送っておく。確かに私が常闇の立場なら不安になるかもしれないが、まずはその場で本人に聞いてみるべきではないのか。まあ、色々と難しい気もするが……。
─それから、日曜に出かけていた件を皆が噂していたが、それとなく否定しておいた。
─それはどうも。
─就寝する。
─どうぞ。
私に直接言わなかったということは、噂の主は芦戸や葉隠ではないのだろう。やはり一緒に帰るのはまずかったかと思う。聞いてくれれば否定できるというのに。常闇の小さい脳みそでそれとなく否定するなんてことができるのかは謎だが、その心遣いは素直にありがたい。
ああ、面倒だ。小さく息を吐き出し、着替えるために立ち上がる。
いつの間にか寝てしまったらしい。目が覚めた時まだ外が暗く、一瞬混乱する。片手に体重をかけて上半身を起こしていると、ベッドわきのクマ吉がその手の上に倒れてきた。それを掴んで抱きしめる。うーん。まだ眠いが、今日は休みだし別に起きてもいいか。クマ吉をベッドに戻し、スマホをポケットに入れてパーカーのチャックを上げる。コーヒーを淹れるのはめんどくさいし、水でも持っていこう。
案の定リビングには誰もいなかった。電気をつけ、テレビ前のソファーに向かう。なんとなくテレビをつけるも、テレビショッピングくらいしかやっていない。スマホの画面をつけ、通知を消す。芦戸からみんなで撮った写真が届いていたので、ざっと眺めてそれを保存した。そういえば瀬呂から回ってきた漫画、まだ読んでいないな。そう思ったものの部屋まで取りにいくのも面倒で結局テレビを眺める。組んだ足の先を見やるとそこには銀河の残滓があった。足はほとんど出ないが、そろそろ塗り直してもいいかもしれない。手の爪は昨日落として、塗る前に寝落ちしてしまったのだ。今日の昼にでもやろう。爪、似合ってる、だのなんだの、言われた覚えがある。分からないくせに。分かるんだろうか。どっちでもいいけど。
テレビショッピングで流れるマットレスの情報を脳に入れずに考えていると、ドアの開く音がしてはっとそちらを見る。
「」
「……おはよ」
「ああ、おはよう」
そんなことある? 向こうも思ったかもしれないが、何故こんな時間に起きているのだろう。よく考えたらこいつはいつも早起きだし、眠そうにしているところも見たことがない。障子はお湯のポットを持っていたカップに注ぎ、こちらに来た。
「眠れないのか」
言いながら、斜め向かいのソファーに座る。
「全然。寝落ちして、さっき起きた」
「そうか」
「そっちは?」
「俺はいつもこの時間に目が覚める」
「マジか」
老人かとは言わずにおく。私も大概早起きな方なのだ。緑茶がほのかに香って、空腹を覚える。
「そういえば、あれ部屋に置いてんだね」
「ん? ああ、あれか。部屋に置かずにどこに置くんだ」
「いや、まあね……。常闇に聞かれてさ」
「ああ……俺に聞けばいいものを」
「言っといてよ」
「分かった」
本当に部屋に置いているのか、と思う。そりゃ、確かに、部屋に置かずにどこに置くんだって感じだが、あんなの常闇でなくても気づくだろう。なんせこの男の部屋には必要最低限の物しかないから目立つし、モチーフがトナカイだ。障子は左側の複製腕で作った口に右手でお茶を運び、器用に飲んでいる。面白い図だな……。
「お前は置いていないのか」
「え? あ……い、いや、置いてる」
「そうか。よかった」
「……あの、ありがとう。直接言ってなかったよね」
「文面でも伝わるが……気に入ったようで安心した」
相変わらずマスクで表情は分からないが、声色からして安心したのは本当だろう。なんだか恥ずかしくなってきた。ペットボトルの蓋を開け、水を一口飲む。
「名前つけた」
「なんだ?」
「クマ吉」
「そのままだな」
「いいじゃん、分かりやすくて」
「ああ」
「イルカのぬいぐるみのことは、イルカって呼んでる」
「そっちにはつけないのか」
「なんか、ずっとそう呼んでたから」
「なるほどな」
私のどうでもいい話に適当に相槌を打ってくれるのが心地よく、ソファーの上で足を抱える。四時二十分。そろそろ、朝の情報番組が始まる頃か。いや、土曜日だった。
「そういえば、カラオケは楽しかったのか」
「え? うん。なんで?」
「いや、気になっただけだ」
「そっか。君はああいうの行かないもんね」
「……お前の名前が聞こえて、参加しようか迷ったが」
「え……」
「お前が嫌がるかもしれないと思ってな。積極的にああいった遊びに交ざることがないというのもある」
「そう……なんだ」
「楽しかったのなら、よかった」
「みんなで遊ぶの好きだし……」
「そうだな」
「障子が、……なんでもない」
「なんだ」
「なんでもないです」
「……そうか」
君がいてくれたらもっと楽しいのかもしれない、けれど、リスクもある。そういうのを取っ払うことができればいいのにと思うが、無理な話だろう。私が私である限り。
「もう一回寝ようかな」
「ああ。俺も部屋に戻る」
障子がテレビを消してくれたので、ペットボトルを持って立ち上がる。部屋に戻ったら漫画を読もうと思っていたのだが、眠くなってきてしまった。そろそろ催促されそうだ。立ち上がった彼を見上げるとそれに気づいた彼が「首痛くないのか」と言った。
「嫌味?」
「いや……すまん」
「痛くても見たい時もあるの」
「なるほど。覚えておこう」
「覚えなくていい」
覚えられては困る。また何か言われるのは困るが、挨拶のために彼を見るとまだ見ていたのか目が合ってしまった。
「挨拶のためだから!」
「分かっている」
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
一人相撲感の否めないやり取りをして、女子棟側へ歩き出す。部屋で待っているクマ吉とイルカのことを思い出し、腕を組んだ。クマ吉って名前、ダサいだろうか。急に気になって頬をつねる。痛い。どうにも最近、浮かれてしまっていけない。何が痛くても見たい時もある、だ。馬鹿馬鹿しいと思われただろう。今度は両手でつねる。めちゃくちゃ痛い。
部屋に着き、電気をつける。イルカと並ぶクマ吉が視界に入り、やっぱりクマ吉だなと思う。イルカはイルカ、クマはクマ吉。くだらないことを考えすぎだ。カーテンの隙間から入ってきた光に目を細める。
もうすぐ朝が来る。