爪先で銀河が爆ぜる

 芦戸を始めとした女子たちに、いつもの通りネイルを褒められる。それが目的で塗っているわけではないがやはり褒められるのは嬉しい。普通の女子よりは長くもたないそれは何度か変わり、再び濃紺と細かい煌めきに支配された。
 あれから不用意なことは避けようと思い自室で塗るようになった。窓を開けていてもにおいが残るのでリビングでやっていたのだが、背に腹は代えられない。塗っている最中に話しかけられでもしたらことだ。
 自主練後、砂藤にもらったお菓子でも食べようと思いながら寮に向かっていると、誰かが植え込みの傍に立っているのが見えた。どう見ても障子だ。あんな特徴的なシルエット、間違えるはずがない。そういえばあれから大した話はしていないし、あそこにいるのに、しかも私から避けるのも妙だ。どうしよう。気づかないふりをしながら歩を緩める。障子。ここからでは分からないが触手を伸ばしているようには見えない。

「うわっ!! なんだ常闇か……」
「驚かせてしまったか」
「君またなんか企んでるわけ」
「なんの話だ?」
「なんの話だろうね」
 いきなり後ろから話しかけておいて驚かせてしまったかはないだろう。謝罪しろ。たぶん、私の歩みが遅すぎたせいなのだろうが。
 常闇は私の角越しに件の男を認めたらしく、なるほどと腕を組んだ。
「先行ってよ」
「何故」
「なんでも」
「俺は今、女生徒の前を歩くと死ぬ呪いにかかっている」
「アホか?」
「あれはを待っているのではないか?」
「そんなわけないでしょ」
「何故」
「なんでも」
 このままでは埒があかないと気づいたのか、男は呆れたような表情を見せる。こっちこそ何故、だ。私を待っているわけがない。どう考えても私を待っているのでは? アホか私は! どうしようもない戦争に終止符を打つため、ポケットからスマホを取り出す。グループチャットが溜まっているのを見て、自主練前に見たきりだったことに気づいた。
「うわ!!」
「な、なんだ?!」
 障子目蔵。
 視界の隅でカラス頭がばっと逆立つのが分かる。自主練は終わったのか。とっくに終わっているしなんならあんたの視線の直線上にいます。深呼吸。既読なんてつけたら大変なことになってしまう。何がだ。何もかもが。
「いや……私今男の前歩くと死んじゃうかもしれないから君はさっさと帰って」
「どちらの呪いが勝つだろうか……」
「アホ言ってるともう一発入れるからな」
「くっ……強敵」
「マジで殴っていい?」
「一体どうするつもりなのだ」
「君が帰って数分後ぐらいに行く」
「この距離で障子に気づかれていないとでも思うのか」
「思わねーわ」
「仕方ない。共闘しよう」
「君は何と戦ってるの?」
 仕方なく画面を消し、ポケットにしまう。結局既読もつけず、しかもこの余計な口ばかり挟む嘴男と一緒に寮に戻ることになるなんて、あいつはどう思うだろう。いや、別にどうも思わないか。というか私を待っている保障もない。ぐるぐる考えてただでさえ疲れている角の付け根に痛みを覚える。体が重い。
 近づくと彼は今気づいたという風に手元から顔を上げた。スマホを見ていたらしい。連絡待ちだったりしたりしなかったりするわけない。なんとなく、手を振ってみる。彼の片手が挙げられる。最悪だ。割といつも最悪だけれど、隣からの視線も相まって最悪のうち最も最悪、要するに最悪である。振り終わった右手を左手で捕まえて顔を覆う。
「健闘を祈る」
「祈ってんじゃねえ」
、常闇。遅かったな」
「自己研鑽に勤しんでいた。では、俺はこれで」
「ああ」
 聞きたくもない祈りを残して常闇は寮へ戻っていった。またこのパターンか。

「はい」
「少し心配した」
「え……」
「おかえり」
「た、ただいま」
 ごめん。咄嗟に謝罪の言葉が出なかったことを反省する。障子。違うの。何も、違わない。背を向ける彼を見て、思わず一番後ろの手を掴む。先ほど気づいていながらメッセージを開かなかったのは私だし、障子を見つけて気まずく思ったのも私だ。たったそれだけで心配するとは思わなかった。掴んだそれが手のひらの形になる。
「どうした」
 隣の触手が口になって、そう呟く。
「どうもしない」
 口をついて出たのは癖のような一言で、馬鹿な私は手の力を緩めた。その手が当たり前みたいに、自然に、繋ぎ直される。ちょっと待ってよ。ばっと顔を上げると目が合ってしまう。
「リビングに芦戸と葉隠がいる」
「え?!」
「裏を歩いても構わないか」
「はっ? えっ? ど、どうぞ」
「ありがとう」
 理解が追いつく前に手を引かれ、歩き出す。リビングに、芦戸と葉隠が。だからなんだ。いや、一緒に入ったら大騒ぎされるに違いない。そういうことを気にするタイプには見えないが、まさか、気を遣ってくれたのだろうか。相手が誰であろうとその気遣いはするはずだ、障子は優しいから。でも……じゃあ、この手は?
 建物に沿って暗い道を歩く。ゆっくりと。きちんと繋がれた手を見る。どう受け止めればいいのか分からない。私があんたのこと好きって、分かってる? こんなの、こんなの、駄目だ……。
「避けているのかと思った」
 ぽつりと落とされた言葉に彼を見上げる。
「え?」
「俺を」
「……な、なんで?!」
「あれから、俺のいるところを通らないようにしているように見えたからだ。気のせいだったようで安心した。すまない」
「いや……ほんと、ごめん。なんか……どうしたらいいか分かんなくて」
「どうしたらいいか」
「うん」
「やはり、あの答え方は気に障ったか」
「違う!」
 立ち止まり、手を握りしめる。分厚く、私には大きすぎる手のひら。いらない心配をかけていたことに心苦しくなる。確かに、避けているように見えたかもしれないし、そのせいでこの人は私に話しかけることができなかったのかもしれない。めんどくさい女。これこそ最悪だ。
「期待しちゃって」
「期待」
「障子が私を好きになってくれるんじゃないかって。そしたら、今までどう接してたか分かんなくなっちゃった。馬鹿だから」
「……馬鹿ではない。汲んでやれなくてすまなかった」
「だから、謝るとこじゃないってば」
「難しいな」
「難しくない」
 私が馬鹿なだけだ。空を見上げると、無数の星が木々の間で光っている。一拍置いて彼が言う。
「星が好きなのか」
「そこそこ。綺麗だから」
「そうだな」
「障子」
「ん?」
「ごめんね」
「……謝るところではないと思うが」
「真似すんなよ」
「すまん」
「帰る?」
「名残惜しいな」
「そりゃそうだよ」
「そうか。よかった」
「ばか」
「ああ」
 光る。ひかる。今にも落ちてきそうな星々が、私たちを照らしている。建物に寄りかかる。緩く繋いだ手が、確かめるみたいに握られる。握り返す。手汗ひどくないかな。ひどいだろうな。なんだよ、名残惜しいって。恥ずかしい。ほんと、ぜんぶ最悪。