垂らす糸
緊張とは無縁の男らしい。深く沈んだブルーの瞳を数秒見つめると男は少しだけ気まずそうにした。
「緊張しなくていい」
「してない」
「初めて?」
「ああ。なんで把握してないんだよ」
「ごめん。サロから内容は聞いてる?」
「まあ」
「そうか」
本邸への道のりは平坦ではない。そのトラップやら何やらを教えるのも私の役目だ。普通は何度か往復しなければ覚えられないだろうが、優秀な部下は一度で覚えてしまいそうだ。
ドア越しの邂逅以来だ、と思い出す。表情が見えないからこそ素直に話せたのだろう。私には苦手なことがいくつかある。彼らの好意を受け入れることもその一つ。そしてそれはこの男の苦手としているであろうこととかみ合っている。だからあの時は懺悔を聞き入れ、きちんと返してやることができたのだ。
本邸に着くと私と同じくゴトーの直属の部下である男が出迎えてくれた。
「。と」
「ザウルです。初めまして」
「君がの部下か。ハルイです、よろしくね」
「今日ずっと本邸なのか?」
「うん。君ら大旦那様に会いにきたんだよね」
「いらっしゃる?」
「ちょうど十分前に自室にお戻りになったよ。ああ、カルト様とイルミ様がいらっしゃらないけど、夜には戻られると思う」
「分かった。ありがとう」
「いってらっしゃい」
奥様はいらっしゃるということか。ハルイに会釈するザウルから、エントランスへ視線を移す。さすがに慣れたけれど、初めはこの空気に飲まれそうな気がして苦しかった。まあもちろん年齢の違いはあるだろうが、やはりザウルは肝が据わっている。
目当ての部屋に着くと勝手にドアが開き、身構える。奥から深い……何かの気配が漂ってくる。重くも感じるそれは私と背後の男を包んでいく。しかし殺意ではないし、はっきりと嫌な感じはしない。あのじいさんが面白がっているのだとすぐに分かった。
「さん」
「ん?」
「入らないんですか」
「入るよ」
全く嫌な部下だ。私はどうやら上司として肩肘張りすぎていたらしい。部屋に入ればオーラはすっと消え、ザウルがドアを閉めようと手を伸ばすが、それもひとりでに閉まる。ソファーに座る部屋の主は、ゆっくりと目を開けた。
「懐かしい顔じゃ」
先ほどまで寝ていたのではないかと思えるほどの穏やかさ。しかし私たち二人を殺すには充分すぎるほど隙がない。胸元に手を当て、頭を下げる。次に主の顔を見た時には、もう人を試すような空気は消えていた。
「お主も部下を持つようになったか」
「有難く存じます」
「相変わらず元気じゃな。で、何の用じゃ」
「こちらをお届けに参りました」
「おお、ようやくか」
ザウルが小箱をテーブルの上に置く。何が入っているのかは知らないが、何日か前に調達してこいと依頼してきたようだ。この人のことだからまた変なポスターだとか置物だとかだろう。箱の大きさからして置物か。ようやくと言ったってそこまで待ちわびていたわけでもないはずだ。本当に欲しくてたまらないものなら自分で探しに行くだろうから。
「それでは、失礼いたします」
「あーこれは独り言じゃが」
「はい」
「返事をしたら意味がないじゃろ」
「申し訳ございません」
「ワシの知り合いが除念師とツテがあるとかないとか、言っとったような」
それまでほとんど変化を見せなかった部下のオーラが、大きく揺らいだ。爺の視線が小箱からその部下へ移動し、私に戻ってくる。ひねくれていると言えば可愛げがあるが……。老人は面白そうに目を細めた。
「この家の人間には気づかれとらんよ。気づかれたところで大した問題でもない。ワシにとってはかわいい孫みたいなもんじゃが」
「大旦那様」
「なんじゃ?」
「執事の問題に首を突っ込むとは、感心しませんね」
「主の独り言に口出しするなんぞ、感心せんな。獅子の子よ」
「それでは、失礼いたします」
会釈を促すとザウルがはっとして従った。ひらひらと手を振る爺から目をそらし、私はドアを開ける。